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『2025年大阪万博にて』

作者: 小川敦人

『2025年大阪万博にて』

東京のある高級居酒屋の個室。低く設えられた間接照明が落ち着いた雰囲気を醸し出している。四人掛けのテーブルに二人の男性が向かい合って座っていた。

「野村さん、この酒、美味いですね」

高橋誠司は赤みがかった顔で笑いながら徳利を持ち上げた。彼は今年65歳になる。小柄ながらも端正な顔立ちで、年齢の割には若々しく、白髪交じりの髪は常に整えられている。長年広告代理店で働いてきた彼は、スーツを着こなすセンスがあり、今日も落ち着いたグレーのジャケットに紺のネクタイという出で立ちだった。

「そうだろう。この店、知る人ぞ知るって感じでね。魚も新鮮だし」

対面に座る野村健二は72歳。建築設計事務所を営む彼は、常に少し疲れた表情を見せながらも、高橋との時間を楽しんでいるようだった。野村は高橋より7歳年上だが、若々しく見える方だった。

高橋と野村は同じ会社の先輩後輩だったが、野村が30年前に独立して転職した後も定期的に会う仲だった。二人に共通するのは、物事に対する率直な意見と、少しひねくれた世界の見方だ。馬が合うというのはこういう関係を言うのだろう。

「そういえば、野村さん。大阪万博、どうなるんですかね」

高橋が突然話題を変えた。2025年の大阪・関西万博の開催まで残り数ヶ月となっていた。

野村はグラスを置きながらため息をついた。

「正直、建築の立場から言えば、かなり厳しい状況だよ。職人不足が深刻でね。若い人たちが建設業に入ってこない。それに資材の高騰も相当なものだ。特にウクライナ情勢が長引いて鉄鋼価格が高止まりしたままだし」

「聞いてますよ。いくつかのパビリオン、開幕に間に合わないとか」

「そうなんだ。我々の業界でも話題になっているよ。このままだと『未完成万博』なんて言われかねない」

野村は口の中の刺身を飲み込んでから、続けた。

「それに、万博関連の交通インフラ整備も遅れているらしい。橋や道路の拡張工事も予定通りには進んでいないと聞く。建設現場はどこも人手不足でね」

「まあ、それも時代ですよね」高橋は口の端をぬぐいながら言った。「ただ、広告の立場から見ると、もっと深刻な問題があるんです」

「それは?」

「国民の関心の醸成が全然足りていない。私たちの業界では『エンゲージメント』と言いますが、市民が万博に対して感じる期待感や当事者意識が70年の時と全然違う」

高橋は少し上体を乗り出して熱を込めて話した。

「例えば、我々の世代にとって70年の大阪万博といえば、あれは特別なイベントでした。特に関西の人間にとっては。記憶にありませんか?『人類の進歩と調和』というテーマで、日本の戦後復興と高度経済成長の象徴だったんです」

野村はうなずいた。「ああ、確かに。あの頃は万博の話題で持ちきりだったね」

「そうなんです」高橋の目が輝いた。「実は私、あの万博で特別な経験をしたんですよ」

「へえ、そうなの?」

「ええ。当時私は10歳でした。家族で万博に行ったんです。父、母、私、そして妹と四人で」

高橋は徳利を手に取り、野村のグラスに酒を注ぎながら、当時の記憶を掘り起こし始めた。

「あの日は暑かったな。7月だったと思います。父が『せっかくの休みだから万博に行こう』と言って、朝早く家を出ました。大阪まで電車で2時間くらいかかったかな。会場に着いたら人、人、人! 子どもの私からしたら、世界中の人が集まっているように見えました」

野村は黙って聞き入っていた。高橋の顔には少年のような表情が浮かんでいる。

「いろんなパビリオンを見て回りました。アポロ計画で持ち帰った月の石が展示されていたアメリカ館は特に印象的でした。あの灰色の石ころを見て、人類が本当に月に行ったんだと実感しました。それから巨大なスクリーンがあったソビエト館、『せんい館』でしたっけ? 未来の衣服を着た人形が展示されていて」

「ああ、覚えているよ。各国のパビリオンが競い合っていたんだよね」

「そうそう! でも何よりも印象的だったのは『三菱未来館』でのことでした」

高橋は少し体を起こして、両手を広げた。

「その日、私たちは昼頃にロボット館に入ったんです。展示を見ていると、突然アナウンスが流れたんです。『本日のロボット館の来場者が1000万人を達成しました』って」

野村の目が大きく開いた。「まさか、高橋さんが…」

「そうなんです!」高橋は子どものように嬉しそうに笑った。「入場ゲートでスタッフに呼び止められて、『あなたが1000万人目の来場者です』と言われたんです。それから館内のステージに連れていかれて、たくさんの人の前で記念品をもらいました」

「へえ、知らなかった」

「それだけじゃないんです」高橋は興奮気味に続けた。「その日の目玉だったWABOT-1というロボットの起動ボタンを押す役目を任されたんです。大きな赤いボタンでした。押すと、ロボットが動き出して音楽を演奏し始めたんです。オルガンだったかな」

「WABOTか、懐かしいな」野村もその名前に反応した。「あれは早稲田大学の石井教授のチームが開発した日本初の二足歩行ロボットだったよね」

「そうそう、その通り!」高橋は嬉しそうに手を打った。「当時の私にとっては、まるで別世界から来た生き物のように見えました。そして、その記念の写真が今でも実家のアルバムにあるんです」

高橋はスマートフォンを取り出し、写真フォルダをスクロールし始めた。

「ほら、これです」

野村に見せた画面には、色あせた古い写真が映っていた。巨大なロボットの横に立つ少年。東京ジャイアンツの野球帽を斜めに被り、いたずらっぽい笑顔を浮かべている。小さな体に大きな帽子が少しずれている姿は、いかにも50年前の小学生らしかった。

「これが高橋さんか」野村は笑みを浮かべながら言った。「かわいい坊主だったんだな」

「笑わないでくださいよ」高橋は照れくさそうに写真を引っ込めた。「でも、あの経験は生涯忘れられないものです。あの日から、私はテクノロジーに興味を持ちました。広告の仕事に就いたのも、新しいものを人々に伝える仕事がしたいと思ったからかもしれません」

「なるほどね。そういえば、私も万博には行ったんだ」

「そうなんですか?」

「ああ。高橋さんが10歳なら、私はその頃17歳で、高校生だったね。夏休みを利用して友達と二人で行ったよ」

「へえ、そうだったんですね」

「実は、高橋さんの話のロボット館の1000万人目の来場者のニュース、テレビで見ていたんだ。あの日は確か他の展示を見ていて、ロボット館には行かなかった。でも、夜のニュースでその話題が出て、『今日行ってたらよかったな』って思ったのを覚えてる」

「それは奇遇ですね!」高橋は目を丸くした。「もしかしたら、私たちはその日、どこかですれ違っていたかもしれませんね」

二人は顔を見合わせて笑った。

「当時の万博への関心は本当にすごかった」野村は思い出しながら言った。「テレビでも連日特集が組まれて、学校でも話題になっていた。日本全体が熱狂していたんだ」

「そうなんです」高橋は熱心にうなずいた。「あの頃は高度経済成長期で、日本中が『未来』に向かって走っていた。万博はその象徴だったんでしょうね」

「それに比べて、今回の万博は...」

野村の言葉が途切れた。二人は黙り込んだ。

「そうですね」高橋が言葉を引き継いだ。「いまの日本は停滞している。あの頃のような勢いはない。経済も政治も、なにもかもが」

「それが2025年の万博にも表れているんだろうな」野村はグラスを傾けながら言った。「工事の進捗も思うようにいかず、国民の関心も低い。70年との差は歴然としている」

「そうですね。広告代理店の立場から言えば、プロモーションの仕方にも問題があると思います。いまの若い人たちにとって、万博とは何なのか。その意義をしっかり伝えられていない」

「まあ、時代が違うからね。あの頃は情報源がテレビと新聞くらいだった。今はスマホでなんでも見られる時代だ。一つのイベントに国民全体が熱狂するような状況は作りにくい」

「それもありますが」高橋は少し考え込むように言葉を選んだ。「もっと本質的な問題があると思うんです。あの頃の日本人は『未来』に対して純粋な期待と憧れを持っていた。でも今は...」

「今は『未来』が不安の対象になっている」

野村がぽつりと言った

「そうなんです」高橋は強くうなずいた。「少子高齢化、年金問題、格差拡大...社会の問題が山積みで、人々は未来より今日の生活で精一杯なんです」

「それに、テクノロジーの進化も複雑になった。AIやロボットが人間の仕事を奪うんじゃないかという不安もある。70年の頃は、テクノロジーは単純に明るい未来を約束してくれるものだった」

「そう、その通りです」高橋は少し興奮気味に言った。「70年の万博のテーマは『人類の進歩と調和』でした。技術の進歩が人類の調和をもたらすという素朴な信頼感があった。でも今の時代は、技術の進歩が必ずしも人類の幸福につながるとは限らないと皆が感じている」

「2025年の万博のテーマは『いのち輝く未来社会のデザイン』だっけ」

「はい。それも抽象的で、具体的なビジョンが見えにくい。70年の頃のような単純明快さがない」

野村は酒を注ぎ足しながら言った。「でも、だからこそ大事なんじゃないかな。複雑になった社会だからこそ、未来について考え直す機会が必要なんじゃないか」

「それは...そうかもしれません」高橋は少し驚いたように野村を見た。

「高橋さん、覚えていますか? 70年の万博の太陽の塔を」

「もちろん。岡本太郎の作品ですよね」

「あの黒い太陽の顔、下向きの顔、それに頂上の金色の顔。過去、現在、未来を表していたんだよ」

「そうでしたね。でも、どうして突然...」

「私は思うんだ」野村は真剣な表情で言った。「今の日本に必要なのは、あの太陽の塔の金色の顔のような、未来へのまなざしだって」

高橋は黙って聞いていた。

「確かに今の日本は、70年代のような勢いはない。でも、それは成長の仕方が変わっただけかもしれない。量的な成長から質的な成長へ。GDPの数字じゃなく、本当の豊かさを追求する時代になったんじゃないかな」

「なるほど...」

「2025年の万博は、そういう新しい時代の価値観を模索する場所になるべきだと思う。工事の遅れや予算オーバーはあるかもしれないが、それ以上に大事なのは、我々がどんな未来を描くかってことじゃないか」

高橋はゆっくりとうなずいた。「確かに...その通りかもしれません。私たち広告の仕事も、単に人々の注目を集めるだけじゃなく、未来への希望をどう伝えるかが大事なんですね」

「そうだよ。我々のような年配者こそ、若い世代に未来への期待を伝える役目があるんじゃないかな」

二人は黙ってお互いの言葉を噛みしめた。店内の落ち着いた空気の中で、遠い記憶と未来への思いが交錯していた。

「野村さん」高橋が静かに口を開いた。「2025年の万博、一緒に行きませんか」

「えっ?」

「私の孫も連れて行くつもりなんです。10歳と8歳です。私が70年に体験したことを、彼らにも味わってほしいんです」

野村は少し考えてから、にっこりと笑った。「いいね。それなら私も孫を連れて行こうかな。7歳と5歳だ」

「それは素晴らしい!」高橋の顔が明るくなった。「孫たちの目を通して見る万博は、また違った発見があるかもしれませんね」

「そうだな。彼らがどんな未来を感じるのか、興味あるよ」

「彼らにとっては、AIやロボットはもう珍しいものじゃない。生まれた時から当たり前のように存在しているからね」

「だからこそ、テクノロジーと人間の関係について考えるきっかけになるかもしれない」

二人は会話を続けながら、万博への期待を膨らませていった。店内の明かりが二人の笑顔を優しく照らしていた。


***


居酒屋を出た二人は、春の夜気の中を歩いていた。東京の街の明かりが、二人の長い影を道に落としている。

「高橋さん、大阪万博、いつ頃行く予定なんですか?」野村が尋ねた。

高橋は少し歩調を緩めながら答えた。「まだ決めていないんです。でも、孫たちを連れて行きたいと思っています。10歳と8歳になる孫が待ち遠しがっていますよ」

「そうか。いい年齢だね」

「野村さんは?」

「私はね...」野村は空を見上げた。「行くかどうか迷っているんだ。昔の記憶は美化されるものだから、新しい体験で上書きしてしまうのが怖いのかもしれない」

二人は歩きながら、未来について語り始めた。

「でも、考えてみればね」野村が続けた。「我々の世代は未来を作り、次の世代はそれを受け継いでいく。そのバトンを渡す場所として、万博には意味があるんじゃないかな」

「そうですね」高橋はうなずいた。「私の孫たちには、あの70年に私が感じた驚きを、形は違っても体験してほしいと思うんです」

二人は交差点で立ち止まった。信号が赤く光っている。

「野村さん」高橋が静かに言った。「時代は変わっても、子どもたちの『未来への好奇心』は変わらないと思いませんか?」

「そうだな。我々が70年の万博で感じた驚きと同じものを、彼らも感じるだろう」

「違うのは、彼らが生きる未来の方がずっと複雑だということでしょうか」

「かもしれないね」野村は深く考え込むように言った。「でも、だからこそ彼らの感性は我々より豊かかもしれない。複雑な世界を生き抜く術を、本能的に身につけているのかもしれないよ」

信号が青に変わり、二人は歩き始めた。

「ねえ、高橋さん」野村が言った。「私たちの世代は『未来を作った』けど、彼らの世代は『未来と共に生きる』んだな」

「そう...その通りですね」高橋は深くうなずいた。「それが2025年の万博が示す未来の姿なのかもしれません」

遠くで電車の音が聞こえた。二人は駅に向かって歩きながら、それぞれの思いを巡らせていた。

70年と25年。二つの万博が象徴する日本の変化を、彼らは身をもって感じていた。高度成長期の熱狂から、成熟社会の落ち着いた希望へ。

「結局のところ」野村が立ち止まって言った。「万博というのは、その時代の希望の形なんだと思う。70年は経済成長への希望だった。25年は...」

「共生への希望、でしょうか」高橋が続けた。「人と技術、人と自然が調和する未来への」

「そうかもしれないね」

駅前に着いた二人は、別れの挨拶を交わした。

「また飲みましょう、野村さん」

「ああ、次は私からの誘いで」

高橋が歩き去る背中を見送りながら、野村は思った。時代は変わっても、人間の希望は絶えることがない。その希望こそが、次の時代を創り出す力になるのだと。

春の夜風が、野村の白髪を優しく撫でていった。



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