17 綻ぶ
上凪国では、苛烈な戦いが繰り広げられていた。
雨城国椿山家の軍勢は手強かった。須佐守桜田久光が戦線に着く頃には、戦線は上凪国の中程までに迫っていた。
椿山軍は、一定の兵力を保ったうえで、上凪国、須佐国などを通り、都の梅蔵を目指すことが目的だ。梅蔵には反対からも既に椿山方の軍勢が迫っているという。このまま梅蔵を挟撃するつもりだろう。
「この百余年、我が家は力を蓄えてきた。のうのうと平和を享受してきたあやつらとは、違うのだ。」
椿山國照が口髭を撫でながら呟いた。その声は、自信よりも怒りに満ちていた。
彼は今、上凪国に入り、野辺に陣をとっていた。赤く染めた旗に、菱に三つ星が白く形どられる。
派手な赤威の鎧の目立つところに、同じ家紋が金で押してある。
目の前の地図を見ながら、國照は扇子を閉じた。
「このまま上凪を押し通る。上凪城から物資を奪い、城は焼け。一気に須佐まで行く。」
遠く山の向こうから煙が見える。上凪城の方角だ。それを眺め、國照が笑う。
城主の根岸良忠は城を捨てた。上凪城は小さな平城であり、守りきれなかったのだ。今は山城に逃げ移ったという。
「父上。」
がちゃがちゃと音を立て、若武者が陣に入ってきた。こちらも派手な赤威に、金糸が使われた鎧だ。
「おお、國義か。よく戻った。」
彼は國照の子だ。歳はニ四。目元には金の化粧がある。
彼は先陣を切り、上凪国の戦線を押し広げ、その勢いで城を落とした。
「父上自ら施してくださった、この戦化粧のご加護でしょう。」
この目元の戦化粧は、菊丸一族に代々伝わるものだ。大乱の世において、士気を高め、その強さを誇示し目立つために、目元に紅をさしたのだ。いつしかそれは、菊丸一族の象徴となっていた。
菊丸家の親族である椿山家も、それに倣っていた。本来なら紅をさすところを、國照はこのたび金箔を使った。
菊丸家よりも上にあるーー國照は、そう言っているのだ。
かつて椿山家は菊丸家と一つだった。分家となってからも、何百年も菊丸家を影で支えてきた。菊丸家が天下をとるのも支えた。他のどの武将よりも働いた。何人も血を流し、金も使った。菊丸本家よりも武功は大きいはずだった。
それが、天下泰平の折に蓋を開けてみれば、挙げた武功は本家のものになっていた。挙句、椿山家の勢いに恐れをなした当時の菊丸家は、椿山家当主を幽閉した。他にも何かと理由をつけて、財物を没収し、軍備を削った。そして、梅蔵の都から遠く離れた雨城国へ領地替えをさせた。
反論はしても、聞き入れられるはずもなかった。他の藩主は皆、ようやく訪れた平和に安堵し、これ以上の争いを嫌がった。異議を唱えることは、もはや許されなかった。
その燻る因縁と、帝位簒奪を目論む二の宮が呼応しただけだ。太陽と月が重なると、空が陰るように。
國照は忌々しげに口を歪めると、國義を見た。
「戻って早々にすまないが、一度北へ迂回し、稲氷国へ向かう。南の街道は、すでに須佐守がこちらへ向かっているはずだ。」
天下をこの手に。
この百年余り、椿山家はそれと知られぬよう準備をしていた。何百年かかろうとも、必ず天下を手に入れる。祖先の無念を晴らすべし。
國義は父に続き、陣を出た。
椿山軍が上凪国に侵入し、攻防が続いていた。その裏では、椿山軍が稲氷国を駆け抜けていた。
そんな中、須佐城に菊丸宗勝が訪れた。大軍勢を引き連れている。
「忙しい最中に、突然すまぬな。」
宗勝は金縁に赤い甲冑を纏っている。内側に着ている着物も、金糸の細かな模様で、目に鮮やかだ。派手な装いだが、彼には似合っていた。烏帽子から鎖骨の下まで垂らした髪は、黒く艶やかだ。目元には、赤い戦化粧をしている。
「梅蔵より東でも、椿山に賛同する者がいた。説得も兼ねて、父と弟がそちらへ向かっている。……おそらく、戦になるとは思う。だが放っておいては、都が挟撃されるおそれがあるからな。日和見の奴らは、なるたけ引き入れるつもりだ。」
宗勝には腹違いも含めて、五人の弟がいる。うち四人は元服が済んでいないので、戦力外だ。彼らは今、密かに方々の寺に預けられている。一番年上の弟が、父である大将軍菊丸忠宗とともに向かった。
そのため、こちらには宗勝を寄越したのだという。
万一の襲撃に備え、梅蔵の都にも兵は置いている。特に、今上帝と蓮宮は取られてはならない駒だ。
「おぬしらには、ぜひとも我が軍に加勢してほしい。今、稲氷国で敵勢が進軍していると報せがあった。それを食い止めたいのだ。」
もちろんです、と光春が答える。その横にいる実清を見て、宗勝は驚いた。
「そなたも来るのか。」
実清は濃紺を基調とした甲冑だった。あまりに簡素で、他の者と紛れてしまいそうだ。
当然です、と実清が自信ありげに笑う。
「あなた様に御前試合で勝ちましてより、須佐の葉山実清といえば、有難くも天下一の剣士と言われるほどになりました。ここで出なければ、なんという臆病者よとそしりを受けることは必至です。若の名にも傷がつきましょう。」
それを聞いた宗勝は、光春殿、と小声で手招きをした。実清に背を向けて、二人でひそひそと話をしている。
「なんとか止められないのか!あれは女子だろう、本気で戦場に出すと申すか。」
宗勝が光春の袖を引っ張る。
「止められるとお思いですか!あれは私をぶちのめしてでも戦に出ますよ!」
そんな、と宗勝が困った顔をした。
本音は、光春だって実清には居城に残っていてほしい。世に名を知らしめてしまった以上、戦に出れば確実に狙われる。もし敗れてしまった時、首を刎ねられるのならばまだ良い。生捕りにされ、女だと知れてしまったら、どれほど過酷な仕打ちを受けるだろうか。
若様、と背後から男の声がかかった。光春よりは年嵩の者がいる。
「出陣の儀、支度が整いましてございます。」
宗勝がふと近くの机を見ると、そこには紫の布が被せられた、二つの何かがあった。片方は拳くらいの石のようで、もう片方は円い鏡のようだった。神棚さながらに、それぞれが祀られている。その前には、酒瓶と塩があった。
家臣たちが神棚の前に整然と並んでいる。光春が中央に座ると、神主が神棚の前に来た。祝詞をあげ、酒瓶に塩を入れる。それを盃に注ぐと、光春が進み出て、盃に口をつける。その盃を実清が受け取り、同様に口をつけた。順に家臣たちに回していく。最後に、もう一度光春が口をつけ、神主に返した。
宗勝が知っている出立の儀式とは、かなり違う。
儀式が無事に終わると、宗勝が尋ねた。
「先程のが、須佐での出陣式か?」
ええ、と光春が答えた。
「他の国ではどうするのか、あまり詳しくは知りませんが……須佐では、ああするのです。」
神棚に祀られていたのは、海竜神と太陽神だった。
須佐の特産は塩だ。双方の恵みのおかげで今がある。それに感謝し、出陣する者の無事と、残される者の無事を願っている。
そして、須佐の塩を混ぜた酒を飲むことで、例え遠く離れた戦場で儚くなっても、土に還り、巡り巡って海に還り、魂が迷わず須佐へ帰って来られるように願っているのだ。最初に盃に口をつけた者が、最後にもう一度口をつけるのも、返ってくるという意味らしい。
本来ならば神社に出向くところを、わざわざ御神体にお出まし願うのも、その無礼を後程詫びるため、つまり生きて帰ってくることを祈ってのことだという。かつて、戦からの帰還の暁には、須佐では盛大な祭が催されてきた。
他国では、出陣の折には酌み交わした盃を割ったり、愛用の食器を壊したりして、帰らぬ覚悟を表すことがあるという。須佐の儀式には、そのような雄々しさも派手さもない。が、たしかに何百年も受け継がれてきたものだ。
須佐城下に太鼓の音が鳴り響く。先を行くのは宗勝の率いる隊だ。その後に須佐の隊が続く。隊列の中程に光春、その後方に実清がいた。
「若様、出なさるのか!」
「なんと立派になられたことか。」
「若様の武者姿を見る日が来るとは……。」
「葉山様が一緒だから、大丈夫に決まってるさ。」
「ご武運を!」
街道沿いに人々が群がる。一度は平伏すものの、皆、背後から声をあげている。小さな子供までもが、若様、と声をあげていた。若い娘も黄色い声を上げていた。実清が通った後にも歓声が上がる。その人垣は、須佐国の端まで続いた。
不思議なものだ、と宗勝は思った。宗勝が通った時は、皆下を向いたままでいた。露払いをしていたせいもあるだろう。将軍家の嫡男など、普通は畏れおおくて直視しない。それに、須佐の民にとっては宗勝など遠い存在で、顔も知らない人に過ぎない。なんの情も湧かないのだろう。
しかし、宗勝が梅蔵の居城から出立する時も、伊佐の民がああまで歓声は上げなかった。それどころか、皆下を向き、平伏していた。
光春とは同じ歳だ。一藩主の子と、天下を治める将軍の子。それを差し引いても、同じ年月を生きていてこうも違うものか。