16 蒼翠の日
夏もまだ盛りにならない頃のことだ。あたりも緑が勢いを増し、ちらほらと蝉の声も聞こえる。空の青が一段と濃くなり、雲の白さも陽の光も眩しくなっている。
宗勝が国に帰ってからも、須佐国には彼からの使者が来た。蓮宮からも一度、使者が来た。建前はいずれも、暑中見舞いだ。まだ季節的に少し早い。両方とも、須佐守桜田家に渡される物とは別に、実清へ宛てた物もこっそりと紛れていた。
お礼と、あまり格別な扱いは困る旨を手紙にしたため、須佐守は献上品を送った。
実清はいずれも受け取らなかったが、頭を抱えていた。
そんな折、須佐城に急報が飛び込んだ。
報せる者が息せき切って、転がるように須佐守の前に現れた。
「雨城国にて、二の宮様を担ぎ、椿山國照が謀反を起こしたとの一報です!」
須佐守の周りにいた者から、なに、と声が上がる。須佐守は黙したままだ。
遂に始まった。
二の宮は帝位継承順を不服とし、今上帝の譲位と、皇太子である蓮宮の廃嫡を迫っているという。椿山國照はおそらく、二の宮の謀反成功後の将軍の地位を約束されているのだろう。
水穂国中の武士が、現将軍菊丸家と椿山家の側に分かれ、国が二分される。須佐守桜田久光は、以前に菊丸宗勝と約束していたとおり、今上帝と菊丸家につくこととした。
北隣の稲氷国も菊丸家につく。背後の懸念は少ない。
雨城国より西は、ほぼ全てが椿山方だ。立場を明らかにしていない国は、一つ二つだ。
勢力としては、まだ菊丸方が優勢となる。
雨城国と須佐国の間には、雨城国に近い方から下凪国と上凪国という二国がある。
上凪国は菊丸方につくようだが、下凪国は椿山方につくようだ。上凪国が最前線となり、それは須佐国にも飛び火するかもしれない。
そして、誰もが心配していることがある。かつての動乱の世も久しく、武器を手に領地や天下を争うことはなくなった。それが、もう百年以上続いているのだ。誰もが初陣と言っても過言ではない。帝から下賤の者に至るまで、誰も戦を知らないのだ。
国中から兵となる民が続々と城下へ集まった。これらを準備させ、まずは須佐守桜田久光が家老葉山実信らを伴い、戦線に赴くこととなった。場所は、上凪国だ。
雨城国にいる椿山國照は東へ向けて、上凪国、須佐国、次いで隣国諸々を突破し、味方の軍勢と合流した後、伊佐国梅蔵にいる将軍と、今上帝、皇太子である蓮宮に迫るつもりのようだ。
須佐付近の国は、大将軍菊丸家の親族である椿山家一強だ。周りの諸将がくい止められる可能性は低い。
「では、任せた。」
甲冑に身を包んだ須佐藩主、桜田久光が言う。その先には、妻の松と息子の光春がいる。
城を光春に任せ、久光は出立する。光春は後から参集する者を集め、椿山軍との戦場へ向かうか、伊佐国菊丸家の援護に向かうか、機を見て動く手筈になった。
久光は紺を基調とした簡素な甲冑だ。要所に松葉色の糸と、桜色の糸を使ってある。
久光は、光春のそばに控えていた実清を見た。
「頼りない息子だが、おぬしがいれば心強い。光春のこと、藩主としても父としても、頼んだぞ。」
実清が頭を下げる。
そう言う久光の横で、実清の父、葉山実信は実清と目を合わせようとしない。甲冑姿の実信は、馬上で神妙な面持ちだ。先程から、実清も実の父と会話する素振りもない。
「ご武運を。」
光春が餞をし、軍勢は須佐城を発った。
その背を見送りつつ、光春は実清に尋ねた。
「ちゃんと親父殿と話はできたのか。」
親子喧嘩をしてから、葉山実信と実清の間には、ひどく他人行儀な雰囲気があった。けれど、誰もそれには触れられなかった。
実清の口元には、未だ治りきらないあざがある。
「していません。」
不機嫌そうな声で実清が答える。忙しさを理由に、父とはすれ違ってばかりだ。子供のような姿に、光春は呆れた。
「お前なあ。」
実清はそっぽを向いた。
分かってはいる。これから始まるのは戦だ。長らく平和を謳歌していた世にとって、苦しい戦になるだろう。
振るうのは木刀ではなく、重たい真剣だ。政治と異なり、武の力をぶつけ合う。大局で見て勝ったとしても、生きて帰られる保証はない。
父ともっと話をすべきだったのも、分かっていた。
だが、父は選択肢を与えてこなかった。女であることを忘れ、男として生きることを疑う余地もなかった。それを成長してから疑っても、もはや女に戻ることはできないほどに時間が経っていた。
父は、一度も聞いてはこなかった。娘が男のふりをし、刀を持ち、武士に混じって生きるのをどう思っているのか。つらいか、などと聞かれたことはない。
誠心誠意、若様に仕えよ。命も体も、髪の一本に至るまで、全て若様のものと心得よ。その命が儚くなる時も、その体が朽ち滅ぶ時も、それは全て若様を守る時と心得よ。そう言い聞かせられてきた。
父は、後悔したのだろうか。
「若様。少し、おそばを離れてもよろしいでしょうか。」
光春は、実清をちらりと見て頷いた。実清は駆け出し、近くにいた馬を借りた。出立の軍勢は、まだぞろぞろと城門から出ている。その脇をすり抜け、実清は馬を駆った。
甲冑のぶつかる音と、人の足音の間に、焦る蹄の音がする。
「父上!」
しばらく駆けると、馬上の実信を見つけた。
馬の歩みを止めることはなく、実信が実清を見た。実清は横に並んだ。
いざ目の前にすると、とても気まずい。喧嘩してからというもの、お互いに避けていたのが分かるから、余計に気まずい。
「なんだ。」
実信が口を開いた。ぶっきらぼうな言い方だ。
実清も心を決める。
「父上。私を、実清として育てていただいたこと、感謝申し上げます。若様と、戦場にまでお供できることを、嬉しく思います。」
実信は目をまるくした。そして、目頭を押さえて下を向いた。
馬の蹄は調子を崩さず、西へ向かう。
しばらく進んだところで、絞り出すように実信は言った。
「ずっと、お前には聞けなかったのだ。怖くて、聞けなかった。私の独りよがりで、お前を男として育ててしまった。普通に女子として育てる方が、お前にとって幸せだったのかもしれないと……。私は間違っていたのではないかと、何度も悩んだ。」
実信が鼻をすする音がする。目は少し赤くなって潤んでいる。
事情を知らない周りの者が、驚いて二人を見た。
「謝らないでください。私は、実清として若様のおそばにいられて、嬉しいのです。刀を握って、若様をお守りできるのですから、私は他のどんな女子よりも幸せです。……父上のおかげで、幸せなのです。」
そうか、と実信は天を仰ぎ見た。
溢れそうで溢れぬ涙が目に溜まる。実信は何度も瞬きを繰り返した。
「父上に疑われるような真似をした私が、軽率でした。申し訳ありません。ですが、誓って若様を裏切ることなどありません。」
いや、と実信が遮った。
「あの時、お前をもっと信じるべきだった。お前が言うことに、もっと耳を傾けるべきだった。今までも、もっとお前の言葉を聞くべきだったのだ。……すまなかった。」
そして、久しぶりに笑顔を見せた。
「若様を頼む。」
はい、と笑顔で返し、実清はそこで馬を止めた。ご武運を、と声を大きくする。実信は片手を挙げ、そのまま進軍する。
馬の蹄の音と、甲冑の音、人の足音、布のはためく音。風は追い風だ。空からは蝉の声が降る。その全てが、実清と実信を隔てていった。