15 黒い夜
その夜、亥の刻に近づく頃のことだ。光春はまだ火を灯し、書物を読んでいた。静かなはずの廊下から、ゆっくりとした足音が聞こえる。これは、人目を忍ぶ歩き方だ。光春は音を立てないよう、本を閉じた。そっと刀に手をかける。足音が部屋の前で止まると、若様、と小さな声がした。実清の声だった。
一気に緊張がとけ、何用か、と光春は襖を開けた。そして絶句した。
『清』の格好をした実清がいた。そもそも実清は女なのだから、今の姿の方が世に言う普通だ。けれど、普段男の格好をしているし、女の着物は滅多に着ない。
髪をおろし、後ろで一つに結っている。若草色の小袖に着替えていた。
「な、なんだ。どうしたと言うのだ。」
動揺が声に出る。実清は深々と頭を下げる。
「女であることも、刀を持つことも捨てられぬことをお許しください。実清も清も、どちらも若様のおそばにいたいと、私自身が思ったのです。葉山実清は若様をお支えするものと、城の者も承知しております。命を賭して若様をお守りしましょう。けれど、清は若様のために何ができましょうか。浅はかな考えしか思いつきませんでした。全てを捧げる覚悟を持って、今宵はこうして参ったのです。」
「つまり、夜這いに来たと。」
そんな下卑た言い方はよしてください、と実清が頬を染める。突然に大きな声を出すので、光春が慌てた。
「とにかく入れ、人が見るだろうが。お前が女と知らないやつもいるんだぞ。」
実清を引き入れ、襖を閉めた。
少しの間、気まずい沈黙があった。
「そもそも、なぜその格好なんだ。先ほどまでは男の格好だったではないか。わざに着替えたのか。」
光春が口火を切る。実清は、自身の小袖をちらと見た。
「今宵は清として参ったのです。それに、湯も使ったので、ついでに着替えたのです。」
再び気まずい沈黙があった。
「やはり、私ではだめですか。」
絞り出すような声で実清が言う。少しの静寂のあと、光春がぽつりと呟いた。
「お前を、宗勝なんぞにはやりとうない。」
実清が顔を上げた。聞いたことがある言葉だ。
「蓮宮にもだ。」
そう言うと、光春は火を吹き消した。
若様、と実清が呼びかける。
「宗勝様とのことを……。」
聞いていたのですか。覚えていたのですか。
そう問いただすように実清が尋ねる。暗くて光春の表情は見えない。
光春はむっとした。宗勝の名がその口から出るのも悔しい気がしたのだ。
「忘れるわけがないだろう。酔っていたとしても、私のものに手を出そうとする輩を、どうして忘れようか。相手が将軍家の者だろうと、皇子だろうと、お前を手放してなるものか。」
そう言うと、光春は乱暴に清を抱きしめた。
こいつは、こんなにも細かったろうか。こんなにもしなやかな体をしていたろうか。
愛おしいという気持ちで胸が張り裂けそうだ。けれど、その言葉を口にすれば、目の前の人は実清であることを捨ててしまうのではないか。どちらも選べないのだ。実清も清も、たった一人の人であるがゆえに、どちらもなかったことにはしたくない。
「お前がそうと言うなら、私もそれに応えよう。決して浅はかと言ってくれるな。実清も清も、私のものにする。」
暗闇の中、光春は口づけをした。唇の端は、まだ赤く痛々しく腫れている。
次に唇で耳に触れる。おろした髪から、ほのかに甘い香りがした。指を首すじから下へ、素肌に沿って流す。襟元から懐の中に手を滑らすと、柔肌に触れた。清が吐息を押し殺そうとした。
今日は胸にさらしを巻いていない。そこに顔をうずめると、ほんのりと薫物の香りがする。意地悪く舐めると、清が一瞬体をこわばらせた。震える小さな声で、若様、と聞こえる。
「お前が焚き付けたのだからな。」
光春は若草色の衣に手をかけた。
翌朝、まだ夜も明けやらぬ時分だ。光春が目を覚ますと、隣には誰もいなかった。
夜着を羽織り、小窓を開ける。端が白む空には、立待月が明く輝いている。
光春が月を眺めていると、静かに襖が開いた。実清だった。すっかり男の姿に着替えている。
「若様、お目覚めでしたか。」
何事もなかったかのように、実清が姿勢を正して言う。
風情も何もあったものではない。昨夜抱いた女が、もう男の格好をしているのだ。しかも平然とした顔をして。
同時に、後ろめたさのようなものが光春を襲った。これから、今までと同じ主従でいられるのだろうか。どれだけの覚悟を決めてきたか計り知れない相手を、己の欲するままに軽率に扱ってしまったのではないか。
素直に、好きだとも何も言えなかった。今さら悔やんでも仕方ないが、気持ちを伝えるべきだったのではないか。
「昨夜は、臣下である私の願いを聞き届けてくださり、お礼申し上げます。」
実清が深々と頭を下げる。
光春はぎくりとして、素っ気なく「ああ。」とだけ答えた。
実清は静かに一礼すると、部屋を出た。
残された光春はうなだれた。全くいつもどおりにできない。
やはり、実清は何も思っていないのだろうか。昨夜も、清として主人のためにできることを考えた末に来たと言っていた。父親からの教え通り、主人に仕えることが全てなのだろうか。その証に、実清は若様と呼ぶだけで、光春の名は呼ばなかった。好いているとも言わなかった。
掌に残る肌の感触がもどかしい。うっすらと汗ばみ、吸いつくような肌だった。手で梳いた黒髪は、絹糸のようだった。
こちらは、こんなにも動揺しているというのに。
だが、聞けない。
光春はため息をついた。
まだ夜が漂う廊下を歩き、実清は中庭の池を見やった。水面が星の輝きを映し、穏やかに揺れている。
あまりに軽率だったような気がしてきた。この夜のことが、忘れられそうにない。
勢いに任せて、気持ちを打ち明けてしまっても良かったのかもしれない。光春は困るだろう。けれど、優しいから否定はしないだろう。
その優しさにつけ込んで、光春に迫ったのだ。受け入れてはくれたけれども、光春は好きだとも言わなかった。体を気遣ってはくれても、名を呼ばれることはなかった。
きっと今まで、私は何かの幻想を見ていたのだ。
実清は己を納得させようとした。だが、そうではないと信じたい思いが、胸の底から這い上がってくる。
光春から与えられた感覚を思い出し、頬が熱くなった。
「ああもう、最悪だ……。」
実清は思わず顔を覆った。