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皆既月食と猫

「ねぇ見て。月が暗くなり始めたよ」


 仕事帰りの交差点で若いカップルが空を見上げていた。いつもならスマホは自撮りか、おしゃれなパフェとかをインスタにあげていそうな今どきの女の子が、夜空に向かってスマホを向けていた。勝手なイメージだけど、月に興味がなさそうな若者に見えたが、人は見かけによらない。イメージだけで判断してはいけない。私は反省しながらこのカップルの横を無言で通り過ぎた。


「皆既月食」


 私は月を見上げることはない。たまたま会社帰りの電車で、まだ低い位置にいる月を自分の目線で見える範囲で見かけるくらいで、空高くあがった月を見上げることなど、子供の頃にだってしたことがなかった。今夜の皆既月食を知っていたのは、朝から天気予報以外のニュースでもアナウンサーの弾んだ声で何度も流れていたのを聞いたからだ。特に天体に興味もなく、会社に行く支度をしていたら別のニュースに切り替わっていた。


 会社ではパソコンとにらめっこしながら電話対応の業務をこなしているが、週末は趣味のお菓子作りをしている。あくまで趣味の範囲なので、動画や雑誌を見ながら作るが、そこまで凝ったお菓子は作れない。ただ、いつかはお店を持って自分の作ったお菓子やケーキを売ってみたいという叶わぬ夢も捨てきれずにいた。明日も朝から仕事だが、週末はお菓子作りのため食材の買い出しに行こうと予定していた。


「にゃー」


 ぼんやり信号待ちをしている時に、猫の鳴き声が聞こえた。結構近いなと思ったが、同時に足元がゾワゾワする感じがした。おそるおそる足元を見ると、鳴き声の持ち主である猫がいたことに私は驚いた。


「なんで猫がこんなところに」


 都心からやや離れた駅前近くのマンションに住むが、引っ越してから一度も野良猫に会ったことがなかった。しかし、野良猫の一匹や二匹いたって不思議ではない。もしかしたら、飼い猫で家から出てしまったのかもしれない。偶然にも私の足元にいるのは、飼い主と間違えているのかもしれない。私の小声が聞こえたのか、猫はこちらをみて小さく鳴いた。


「にゃー」


 私は猫を見下ろし、猫は私の顔を見上げていた。猫と目が合うことなんてはじめてだった。猫は鋭い眼差しで私を見ていた。信号機と外灯で照らされた私達。少し褐色めいた暗い赤い目をしたちょっと大きめの白い猫。この猫の目の色、どこかで見たことがあると思ったが、しばらく思い出せずにいた。


 マンションまであと少し、私の後をついてきていた。もしかしたら、同じ方向に自分の家があるのかもしれない。私はまっすぐマンションへ向かったが、猫も一定の距離を保ってついてきていた。私の後を追いかけてくるようで、少し気味が悪くなってきた。


「にゃー」


 猫は私の後をちょうどよい感覚でついてきていた。時たま鳴いているが、私は後ろを振り返るのが怖くて、はや歩きになっていた。


「なんでついてくるの……」


 私はマンションのエントランスに入り、後ろを振り返ったら猫もついてこようとした。


「このマンションはペット禁止だから入れないよ」


 私は猫に告げた。猫は私の言葉が伝わったのか自動ドアの前でとまって入ってこようとはしなかった。私はポストの中身を取り出し、しばらく猫を見ていたが、立ち去る気配がなかった。このまま猫を無視して部屋に入ろうか迷っていた。


「にゃー」


 なぜだか放っては置けなかった。しかたなく私はマンションの前にある公園に行くことにした。外灯の近くにベンチがあり、手で汚れをはらってから座った。すると、距離を保って猫もベンチの上にひょいっと乗り、静かに箱座りをした。夜風が涼しいが、だいぶ寒くなってきた。ベンチから見える別の外灯の横には自動販売機があった。視力はあまり良くないが、つめたいとあたたかいの明かりは見える。私はあたたかい缶コーヒーが飲みたいと思い、ベンチから立ち上がった。猫はその瞬間、折り曲げていた前足と後ろ足を同時にピンとし、立ち上がろうとしたが、私が荷物をベンチに置いて自動販売機にまっすぐ向かっていることを理解したのか、再びベンチに足を曲げて座った。


「あっつ」


 自動販売機のブラックコーヒーのボタンを押して、缶コーヒーを取り出そうとしたが、銀色の縁に触れた瞬間、あまりの熱さに声がでてしまった。手が冷えてきていたからなおさら熱く感じたのかもしれない。ポケットに入れていたハンカチを取り出し、缶コーヒーをくるみながら取り出した。猫はベンチから座ったままだった。私になにかいいたいことでもあるのだろうか。月を見ているようだった。月を見上げてみたら、皆既月食はもうすぐ丸く明るい月を地球の影で覆い隠して暗くなるところだった。赤銅色という名前の色の月となった。


「月……本当に暗くなるんだ。ちょっと赤黒い……あっ」


 私は独り言をつぶやいたが、ふと思い出した。白猫の瞳が、今朝ニュースでちらっとみた皆既月食の赤銅色と似ていることに気がついた。そして猫の方に目を向けてもう一度瞳を確認しようとした。その時、


「やっとこの姿になれた」


 私の横にいた猫はいなくなっていて、女の人が座っていた。声の主もこの女の人で間違いないと思う。月を見ていたため、気が付かなかったのだろうか。いや、足音も人影も何もなかった。白いワンピースと裸足の人。まるでファンタジーの世界から出てきたような格好。何より、横顔からあの赤銅色の瞳が見えていた。


「こんばんは」


 女の人は月から私の方に顔をむけ、にっこり笑って挨拶をしてきた。


「こんばんは」


 とっさに反応してしまったが、明らかに普通の人には見えなかった。もしかしたら幽霊という可能性もある。ただ、可能性として考えられるのは先程の白猫が人間の姿になったと考えるのが妥当ではないだろうか。


「今夜はいい天気ですね。皆既月食もよく見えるし、よかったよかった」


 女の人は普通に話しかけてきた。


「はぁ、そうですね」


 笑顔の彼女はベンチから立ち上がり少しだけあるき回り、そして私の目の前にやってきた。赤銅色の瞳が私をみている。


「先程はすみませんでした。あなたを追いかけるようなことをしてしまって」


 少し頭を下げて、顔を上げたらとてもうれしそうな顔をしていたから、怪しむよりも前に、この人嬉しそうだなぁと純粋に思ってしまった。まつげが長く、切れ長の瞳の中は赤銅色だ。


「あの、いえ、大丈夫です」


 つっこみたいところをぐっと抑えて、返事をする。予想は当たっていた。彼女は先程の白猫だ。


「驚かないのね。これって私の見る目があったってことかな。でも、あなたとこうしてお話できるのはほんの僅かな時間なのよね。ねえ、もしよかったら付き合ってくれない?」


「はぁ」


 半ば無理矢理な感じだが、彼女は流暢な日本語でいろいろ話しかけてくる。最近の美味しい食べ物や、流行りの洋服、建物、乗り物など。ジャンルがバラバラだったが、答えられる範囲で答えた。スマホで検索すれば大抵のものはするが、だからといってスマホで検索してください、ということが通じる相手ではなさそうだった。


「随分世の中はかわってきたのね。でも、かわらないものもあった」


「かわらないもの?」


「あなたみたいにお人好しの人がいること。なんだか安心したわ」


「はぁ」


 そもそもあまり人と関わることを好まない性格だから、お人好しなんて初めて言われた言葉で、ましてや人ではなく猫に言われるなんて夢にも思わなかった。馬鹿にされている感覚もなければ、相手もそういう意味でいているわけでもないことは、さっきまで何も昨今の情勢を全く知らない無垢な子供のような会話のやりとりから伝わってきた。会ってそんなに時間がたっていないのに、不思議な人だ。あ、そもそも猫だ。


「お人好し……ですか。長所ととるべきか短所ととるべきか」


「現代では短所にとられがちかもしれないけれど、大きな目で見ると長所だと私は思う。人の感情はいつの時代も同じようなことで考えたり悩んだりしているから。思いやりがある、優しさがあることは決して悪いことではないのよ。ちょっぴり損しちゃうこともあるかもしれないけれど」


「ありがとうございます」


「それに、さっきからあなた、とっても甘い匂いがする。ねえ、なにか食べ物持ってるでしょ?」



 ベンチの隣で、ちょっとだけ顔をあげ、猫のようにくんくんと嗅がれた。またたびなんてもっていないけれどな。


「あ、もしかしてこれかな……」


 思い出したように鞄の中から週末に作ったクッキーを取り出す。お昼休みや休憩時間に少しずつ食べるのが私の楽しみの1つでもあったからだ。クッキーを見せると、彼女のお腹から、ぐーという音がなった。


「ちょっとボロボロになってしまっていますが、もしよければ食べますか?」


「食べたいです!いただきます」


 彼女にクッキーを手渡した。お互いの指が少しだけあたったが、彼女はとても冷たい指をしていた。まるで陶器のような冷たさと肌触りだった。クッキーを渡すとあっという間に食べてしまった。とても美味しそうに食べている姿を見て、私もとても元気が出てきた。


「とても美味しい!お店でもやっているの?」


「いえ、ただ好きで作っているだけです。お店とか夢のまた夢です」


「もったいない!この味はもっとみんなに食べてもらわないと。お店を持たなくてもこのお菓子を売る方法はないの?」

 

 私はスマホを取り出し、検索してみた。


「お店を持たなくても販売はできるみたいです。ただ、資格とか申請とか必要みたいですが……」


「じゃあ、やってみなよ。きっと美味しいって言ってくれる人がたくさんいるわ。私が保証する!あとは、美味しいミルクティーとかあったら最高なんだけどな……」


 初めて会った人に美味しいと言われて、お世辞かもしれないのに、ただ嬉しかった。ふと、はじめてお菓子を作って、食べてもらった友人のことを思い出した。彼女もこんなふうに喜んでくれたっけ。


「ありがとうございます。ちょっと考えてみます」


 素直にお礼を言った。人にあまり興味を持てなかった私が、見知らぬ人とこんなに話すことがあっただろうか。今夜は特別な日だな。



「さて、そろそろ時間かしら」


 彼女は立ち上がる。


「月が明るくなってきた。ありがとう。また会えたら一緒にお茶しましょうね。次は、3ヶ月後か、300年後かな?」


「300年……ははっ」


 赤銅色の瞳の彼女は猫の姿に戻り、にゃーと鳴いて消えていった。ベンチには私一人だけとなり、空には輝くような満月が世界を照らしている。皆既月食は終わっていた。次に会える日はいつだろうか。


「お店か……」


  お店を持つのは難しいかもしれないけれど、販売方法など調べてチャレンジしてみようかな。会えるかもわからないその時を楽しみに、今度はお菓子と一緒に美味しいミルクティーを飲みながらお話ができるように。

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