プロローグ 婚約破棄当日(前編)
――手の込んだ料理もいいけれど、野ウサギを狩ってその場で焼いた肉も美味しいわよね。
王立学院のサマーパーティは立食形式で、宮廷料理人たちが手掛けた料理が壁沿いにずらりと並んでいる。
私ことアルテリア・ローズアローは濃厚なチーズソースが添えられたローストビーフを味わいつつ、先日、ハイエルフの国の王族たちと狩りに出掛けた時のことを思い返していた。
ハイエルフは森に住み、男女、身分を問わず誰もが一流の狩人だ。
彼らの国は、狩猟を趣味とする私にとって実に居心地のいい留学先だったが、それはさておき――
「聞いているのか、アルテリア! もう一度だけ言うぞ。俺は貴様との婚約を破棄する!」
私のすぐ近くで、一人の男性がわめき声を上げていた。
名前はクロイツ・ブルークラウン。
ブルークラウン王国の第1王子であり、次の国王、そして私の婚約者だ。
外見としては秋の小麦を思わせる金色の髪に、冬の海に似た深青色の瞳を持つ美男子……といったところだが、残念ながら苛立ちに歪んだ表情がすべてを台無しにしている。
「貴様はくだらない嫉妬心に駆られ、俺の愛するモニカを追い詰めた。さらには留学先で、俺の眼が届かぬのをいいことに複数の男を侍らせているそうではないか。絶対に許してはおけん! 貴族社会から追放してくれる!」
クロイツがあまりにも大声で叫ぶせいで、パーティの会場は静まり返っていた。
先程までは貴族や平民といった地位を問わず、大勢の生徒たちが和やかに談笑していたが、今は誰もが困惑の表情を浮かべている。
無理もない。
クロイツが私を嫌っているのは有名な話だが、宴の席でいきなり婚約破棄を宣言するなんて、貴族社会どころか一般社会の常識から外れた暴挙だろう。
とはいえ、私はさほど驚いていなかった。
妹のモニカから前もってクロイツの計画について聞かされていたからだ。
彼は私にありもしない罪を被せて婚約を破棄するつもりらしいが、もちろん、きっちり反撃させてもらう。
半年前まではクロイツに対してそれなりの情を抱いていたが、今はもう、そういった感情は完全にゼロとなっている。
いや、ゼロを越えてマイナスというべきか。
こちらに害を及ぼしてくる相手に好意など抱けるわけがない。
私は料理の載った皿を近くのテーブルに置くと、口元をナプキンで拭いてからゆっくりとクロイツに視線を向ける。
「殿下。いま、モニカを愛している、と仰いましたね」
「ああ、その通りだ。俺は真実の愛を見つけた。貴様ではなく、貴様の妹であるモニカを次期王妃とする」
「婚約者がいるのに、別の異性に愛情を向ける。どれだけ言葉を取り繕っても、それはただの浮気でしょう」
「っ……」
私の指摘に対し、クロイツは言葉を詰まらせる。
どうやら反論を用意してこなかったらしい。
自分から一方的に婚約を破棄して、それで話が済むと思っていたのか。
ブルークラウン王国は官僚制度が発達しているため、王族や貴族があまり有能な人物でなくとも国は十分に回っていく。
とはいえ、クロイツの考えの浅さはさすがに問題だろう。
まあいい。
国の明日より、まずは目の前のことに集中しよう。
「もし殿下がモニカと結婚したいのであれば、いきなり婚約破棄を宣言するのではなく、国王陛下や宰相殿に話を通すのが最優先でしょう」
「黙れ! 女のくせに理屈ばかり並べて、だから貴様は可愛くないのだ!」
可愛いとか、可愛くないとか、そういう問題ではないだろう。
自分が不利になると話題を逸らす。
クロイツの昔からの悪癖だ。
父親である国王陛下から何度も注意されていたようだが、結局、今も変わっていないらしい。
「もういい。アルテリア、貴様と喋っているとイライラする。もう口を開くな」
クロイツは一方的にそう告げると、チッと大きく舌打ちをする。
その振る舞いは、いくら王族といえども無礼が過ぎるのではないだろうか。
周囲の生徒たちも私と同じ感想らしく、皆、冷ややかな視線をクロイツに向けている。
だが、本人はそのことにまったく気付いておらず、むしろここからが本番だと言わんばかりに声を張り上げる。
「貴様のような女と結婚するなど絶対にありえん。代わりに、貴様の妹を婚約者にする! モニカ、こちらに来い!」
「嫌です! 絶対に嫌ですっ!」
私のすぐ後ろに立っていた妹……モニカ・ローズアローは、クロイツに負けないくらいの大声で叫び返すと、私の右腕にぎゅっと抱き着いてくる。
そして、きっぱりとこう言い放った。
「殿下のお嫁さんになるくらいだったら、わたし、アルテ姉様と結婚しますっ!」
* *
あらためて自己紹介をしておこう。
私の名前はアルテリア・ローズアロー。
月と狩猟の女神ディアナ様の末裔とされるローズアロー公爵家の娘だ。
年齢は16歳、6歳年上の兄と、1歳年下の妹がいる。
誇れるものとしては、母譲りのきらめく銀髪と、幼い頃から磨いてきた弓の腕前だろうか。
たとえば昨年の冬、貴族の恒例行事であるキツネ狩りにいきなり暴れクマが乱入し、観覧に来ていた妹のモニカに襲い掛かったことがあった。
モニカは黙ってさえいれば「可憐で儚い貴族令嬢」といった雰囲気なので周囲には大勢の若い男性貴族が群がっていたが、クマが現れるなりみんな逃げ出してしまった。
そんな中、私は単身、弓矢でクマを討ち取っている。
厳密に言うとトドメの一撃は素手だったが、ともあれ、この時の功績によって私は国王陛下から勲章を授与された。
ただ――
私の婚約者であるクロイツは、将来の妻が自分よりも目立つことが不愉快だったらしい。
「女のくせに出しゃばるな。鬱陶しい」
面と向かってそんなことを言われた時は、さすがの私もムッとした。
右手に持っていた扇子を背中に隠し、バキリと握り潰していた。
キツネ狩りにクマが現れた時、クロイツも大慌てで逃げ出していた。
文句があるのなら、自分が戦えばよかったのではないだろうか。
この会話に限らず、彼はいつも私に嫌味しか言ってこなかった。
――女が口答えをするな。
――女が男より目立つな。
――女なのにどうして貴様の方が愚民どもに慕われている。
クロイツはいったい何と戦っているのだろう。
幼い頃に母親である王妃殿下が亡くなっていることが関係しているのかもしれない。
昨年、婚約が決まったばかりのころは私も歩み寄ろうとしていたが、そのたびにクロイツからは心無い言葉を浴びせられるばかり。
ハイエルフの国……リーファスへの留学が決まったのはそんな時だった。
物理的に距離を置けば、今の関係もちょっとはマシになるかもしれない――。
そんなことを願いながらブルークラウン王国を出たけれど、戻って来てみれば、ガッカリするような現実が待っていた。
クロイツは私の不在をいいことに、妹のモニカに手を出そうとしていた。
一方的に迫るばかりか、脅迫まで行っていたのだ。
さらには私にありもしない罪を被せて貴族社会から追放しようと目論んでいる。
ここまでのことをされたら、さすがに私も黙っていられない。
もう、クロイツには何も期待しない。
こちらに害を及ぼすのなら、きっちりと反撃させてもらう。