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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

時代小説

空亡

作者: 民間人。

 寛弘5年、土御門殿にて、敦成親王御誕生五十日のお祝いが催されておりました。言うまでもないことではございますが、誠におめでたい事でございまして、宴席は大賑わい。左大臣殿は皇子誕生を喜び、元からのお人柄もありまして、大変豪快な笑い声を上げておられました。今日は無礼講ということで、皆様大層お楽しみ申しておられたのですが、このような場にもつまらないことを仰るお方はおられるのでございます。


 左大臣殿や中宮さまからの信頼も厚い、藤式部様が宴席を離れて控えておりますところを、左衛門督様が御簾を持ち上げて垣間見られました。鼻先から頬まで紅潮しておられて、ああこの人は随分と酔っておられるのだなどと、私はそう思ったのですけれども、突然左衛門督様はわざとらしくきょろきょろと辺りを見渡されまして、このように仰られたのでした。


「はて、若紫ちゃんは居られませんかな?」


 なんとつまらないことを仰られるのでしょうか。藤式部様も唇を尖らせて、大層呆れて見て居られました。


「光源氏に似た方もおられないのに、どうして紫の上がおられましょうか」


「はてはて、似ておられるお方はいらっしゃらないと?」


 酒に溺れた左衛門督様ほど厄介な人はおりますまい。言ってしまった後で、藤式部様はしまったと、眉を顰められたのでした。

 ですが、この人はかの物語を著したお方、凡百の才ではありません。何事かを思い付かれると、くいっと、口角を控えめに持ち上げられて、少しばかり座り直されると、このように仰られるのでした。


「あぁ、いえ。そう言えばこんなお話が御座いましたよ」


 左衛門督様も酔いを覚まし、みるみるうちに期待に満ちた眼差しを、藤式部様へと向けられます。


「やや、かの物語の人が、私のために何か語ってくださるのか。これは楽しみだ」


 すまし顔で御簾越しの篝火に一瞥をくれた藤式部様は、口の端をわずかに持ち上げられて、滔々と語り始められました。


‐‐‐藤式部が語る『空亡』‐‐‐


 さて、あれはいつの帝のご治世の頃でしょうか。とても高い身分のお方というわけではございませんでしたが、とても美しい姫君がおられました。はっと息を呑むほど、貴公子がこぞってその美貌を垣間見ようと試みられるほどに、整ったお顔立ちをされた方でした。


 ところが、なんの因果か、姫君は親や契りを結ばれた数多の夫に尽く先立たれ、御子も多く亡くされて居られて、終にはお住まいも宇治の静かな荒屋に移られてしまいました。

 よほど前世で悪業を積まれたのかと、皆様方々にお噂を立てられるのですけれど、宇治にあっても誠に美しい容顔はお変わりないようでございまして、荒屋の庭に茂る木々の隙間から、貴公子たちが競って姫のお姿を覗こうとされるのでした。


 さて、この姫君、空亡姫の噂を聞いて、1人の貴公子が是非とも婿に入りたいと荒屋を訪れられました。

 夜分も深き、月の瞬く頃、従者に牛車を引かせて、都から宇治まで遥々御訪問されたのでした。法性寺より発ち、牛車の進むほどに高鳴る胸をますます弾ませて、物見を開けては外のご様子を確かめられます。いよいよ待ちきれずに月に向かって、「宇治はまだか。心臓の鼓動ばかりが速く、このように牛車が遅くては宇治までの道のりが心憂しくて叶わんわ」などと喚かれておられました。


 さぁ、待ち望んだ宇治に至ると、あの川が、彼の前に現れました。川のほとりには人気もなく、柳が頭を垂れて佇んでおります。そのおどろおどろしいことと言ったら、浮き足立つ貴公子でさえも、正気に戻り打ち震えて、「やぁ、物の怪が出そうな雰囲気ではないか。疾く、疾く進め」と囃し立てられるのでした。


 件の荒屋に至りますと、風がびゅうっ、と吹き荒んでおります。前簾を押し上げ、垣根越しに麗しき姫君とご対面することが叶います。冷えた風に身を竦ませ、垣根をかき分け庭を覗き込まれます。


 しん、と静まり返った、侘しい庭でございました。小さな池から魚の呼吸の跡がぽつぽつと立ち昇り、それが際立って目立っております。それほどまでに侘しく、慎ましい庭でございました。

 もどかしいのは御簾でございます。そう、空亡はいじらしくも、御簾を下ろし、貴公子にその御顔を見られることを隠しおおせているのです。そのような恥じらいが男心をくすぐるのは、人の性というものでございましょう。御簾の向こうにまで目を凝らした貴公子は、単を重ねて眠る乙女の素晴らしい影を目の当たりに致しました。牡丹のように淑やかなその御姿に、一目で心を射抜かれた貴公子は、すぐにでも空亡に交わりたいと、鼻の下を伸ばされて、あばら屋の庭へと忍び込まれます。


 庭の池には相変わらず魚が泡を立てております。時折じゃぶ、と自ら跳ねるような音がするのですが、やがて静かになり、身動ぎ一つしなくなりました。

貴公子は庭の池などに目もくれず、小川にかかる橋の上で、古い茅葺の屋根に向かって叫ばれました。


「噂に聞く美しい空亡よ!どうか顔を見せておくれ!私は身分も高く、君に不自由は思いはさせないよ!」


 おやおや。強欲で浅慮な方もいらしたものですね。言うまでもない事ではございますが、もしも乙女が顔を見られたあかつきには、契りを結ぶものなのです。なんと、せっかちな方もおられたものですね。


 当然、空亡は反応を返しません。ところが、庭に立ち、御簾越しに見える影の美しさは、貴公子にはますますとはっきり見えるわけでございます。どうしても欲望が耐えられないこの人は、ぶくぶくと泡立つ池を一瞥して詠まれました。


「荒屋の あぶくを立てる 池の恋の 心を乱す 御簾越しの花」


 歌に答えねばならないと思ったのか、空亡はのそりと起き上がられました。ああ、麗しい牡丹の花が、凜として座って居られます。

 影がゆっくりと身を起こし、御簾へと近づいて来られます。息を呑むほどに白い素肌と、紅くふっくらとした唇が開きます。


「恋しさに 水面を弾く いすに似て 枯れた牡丹も 春霖を乞う」


 すると、御簾を持ち上げて、空亡が顔を覗かせます。その容顔の美しさたるや。七宝も霞むほどの輝きで御座いました。

 見惚れて身動きも出来ない貴公子を、空亡は手招きします。まるで糸で引かれるかの如く、屋敷の中へと誘われたのです。

 その一晩のうちに、空亡と貴公子は交わるのでした。


 その日から、都の人は艶やかな顔をする貴公子を目にするようになります。どうやら彼が空亡を物にしたらしいと、噂はすぐに広がりました。

 ところでこの頃、京では不審火が相次いでおりましたが、宇治に逃れた人が京へと帰らないという出来事が相次いでおりました。現世が疎ましくなったのだとか、道中に物の怪が出ると言った噂がございました。この貴公子を妬む人も、「宇治の物の怪」に襲われはしないかと口々に嫉まれるのでした。


 ですが、そうしたお噂もあって、用心深いこの貴公子はある時、陰陽師に呪いを頼まれたのでした。

 どうしても空亡の元へは行きたいと乞うので、陰陽師も色々なお祓いの他に、方違えに関する助言も伝えました。

 こうして万全の支度を整えた貴公子は、大弓を携えた家来を携えて、陰陽師同伴の下で空亡の元へと向かいました。


 道中、陰陽師は突然牛車を止めるように指示を出されます。何事かと怯える貴公子でしたが、陰陽師は警戒を解き、目を凝らします。顔を袖で隠し、恐る恐る道を覗き見ると、前簾越しにぼんやりとした影が立っているのが見えました。


 夜道に、僅かに発光する影が佇んでいるのです。恐ろしさに言葉を失くした貴公子は、陰陽師の袖に取り憑き、ぶるぶると身を震わせました。護衛も弓を持つ手を震わせるばかりで、まるで頼りになりそうにありません。陰陽師は何度か影と会話をすると、貴公子が取りつく袖を払い、姿勢を正してこう申されました。


「……特に問題は無さそうです。先を急ぎましょう」


 貴公子は影に怯えながら横切る牛車の中で尺取虫のように丸まっておられました。


 件の荒屋に辿り着き、すぐにでも人肌に触れたい貴公子は、慌てて屋敷へ飛び込まれました。庭にある池は今日は静まり返り、酷く冷たい空気が漂っております。背筋に悪寒が走り、貴公子はすぐにでも逃げ込みたくなるのを押さえて、思い切り、肺に息を吸い込みます。


 その時、御簾の前にぼんやりとした影が佇んでいるのに気づかれました。影はみるみる形を成し、女の姿を現しました。これは、陰陽師が言葉を交わした亡霊ではないのか?貴公子は身震いしました。女は無表情で貴公子をじっと見つめた後、御簾の中へとすぅっ、と消えていきました。


 ああ、屋敷の中へと消えて行ってしまわれては、貴公子は足が竦んで空亡に会うことも叶いません。考えてみれば、池の魚がうんともすんとも言わないのです。いえ、思い起こせば魚に注意が向いたのは、初訪問の時以外にはありませんでした。空亡に熱中しておられたからでしょうか。それとも、はじめからそこには「魚などいなかったのではないでしょうか?」


 しびれを切らせた空亡が、御簾を持ち上げて貴公子を手招きされます。


「何をしていらっしゃるの?どうして、そんなに怯えていらっしゃるのですか?」


 甘やかな声を聞き、緊張の糸が途切れたのか、貴公子は空亡に抱きつき泣き喚きます。


「私は、物の怪に化かされたのではないかと!」

「物の怪?何を仰っておられるのですか」


 首を傾げる空亡に取り憑き、おいおいと泣く貴公子を労いつつ、空亡は屋敷の中へと入っていかれます。


 屋敷とはいっても荒屋ですから、中に入ればそれこそ亡霊のいそうな佇まいです。所々足摺りするたびに床が鳴く有様で、そのたびにびくりと身を竦ませるのですから、いよいよ空亡も怯え始めてしまいます。

 貴公子は屋敷の中に亡霊が入ったことを告げ、二人のために用意した畳の上で身を寄せ合って震え上がっております。何事か起こるのではないか?二人はいつもとは異なり、夜が過ぎるのを待ちわびておりました。


 ところが、いつまでも怯えていることも出来ません。何事も起こらないまま一刻か、二刻か過ぎると、二人は身を寄せ合うままに、畳の上に寝転がります。

 空亡の花のような香りが、首筋から漂います。貴公子は恐怖も忘れてそれに酔いしれ、満足げな溜息を零しました。


 二人はそうして寄り添って寝ておりましたが、ふと、空亡が立ち上がって、「少し喉が渇きました。水を汲んでまいります」と、申されました。


さて、空亡がいなくなると、途端に人恋しくなるのです。当然のことでしょう。この不気味な荒屋には亡霊が居ついているかもしれないのですから、何故怖がらないでいられるでしょうか?


「台所はあちらか……?」


 一人住まいの空亡は、侍女も居りませんから、この広い屋敷の隅々を知っておられるのですが、貴公子は通い詰めたとはいえ客人。床の軋む音に怯えながら、恐る恐る屋敷を散策するのでした。

 暫く彷徨っておりますと、先程のようにぼうっと、視界の先を影が横切っていきました。甲高い悲鳴を上げ、視界の前でしきりに手を振り払う貴公子でしたが、亡霊は何をするでもなく、貴公子の視界を横切るだけでした。


 貴公子は不思議に思い、亡霊の消えていった先に視線を向けます。もしやこれは、何かを報せてくれているのではないか?思い返せば亡霊は御姿も輝くばかりに美しく、空亡姫にも劣らぬ美貌をお持ちでしたから、単に怨嗟を抱いて鬼と化した御様子も御座いませんでした。

 貴公子は、亡霊の後を追いかけることにされました。亡霊はただ貴公子を導くばかりで、何をするわけでもありません。貴公子からは恐れの感情が消え、亡霊への憐みが募っておりました。


 なぜ、この御方が亡くならなければならなかったのだろうか。なぜ、その御方が空亡の屋敷を案内して下さるのか。貴公子はますます、この亡霊について知りたいと感じるようになられたのです。


 やがて、屋敷の中にある、古く立派な桐の箱の前で、亡霊は立ち止まられます。箱は厳重に封をされており、結い縄は若紫色をしておりまして、箱の蓋にはお札が貼られております。古いのか、少し黒ずんでこそおりましたが、埃を払えばその箱が高級なことは想像に難くありません。


 貴公子は箱の横に佇む亡霊の顔を覗き込みました。表情こそ変わりませんでしたが、その箱を開けてくれと乞うているように、不思議とそう読み解けました。


 貴公子は若紫色の結い縄を解き、埃の飛び散るのに咳き込みながら、桐の箱を開けました。


 貴公子の悲鳴が屋敷中に響き渡ります。


 箱の中には、古いご遺体があったのでございます。髪の長さから女性と分かります。丁度入定されたかのように皮膚に水気がございません。骨と皮、そして御衣だけの御姿で、生前の御姿は見る影も御座いません。


 さて、亡霊とご遺体を交互に見る貴公子は、そこではっ、と「空亡姫」の逸話に思い至ったのでございます。ご両親や夫に散々に先立たれたとありましたが、そうではなく、空亡姫ご自身が手ずから処分されたのではないか、と。


「見てしまったのですね」


 愛しい空亡の声でございました。しかし、人の声かと疑うほど、そこに温もりはなく、声色は低く、また感情にさえ乏しいお声でございました。


 空亡は手に竹筒を持ち、その息を呑むような美貌を人形のような無表情で固めて、御衣を引き摺りながらにじり寄ってこられます。その悍ましさと言ったら、ああ。


「空亡、これはどうしたことだ。嘘だと、嘘だと言っておくれ」


 なんとつまらない御方でしょうか。貴公子は未だに、現実を受け止めておられないようです。空亡は竹筒を強引に貴公子の喉に捻じ込み、目を見開き抵抗する貴公子に、そのあとけない微笑を向けたのでございます。


「折角ですものね。冥途の土産話に教えて差し上げます。そこにいらっしゃるのは私の愛しい御母君。病で倒れて、医師にも匙を投げられて、幼い私のところに来るのは念仏修業の坊主ばかりとなりました。愛しい母を亡くして消沈していたところで、屋敷に火車を引き、牛頭馬頭(こずめず)が参られて、こう仰せられたのです。『やあ、お前の母御をお迎えに上がったぞ。もし助けたくば千人に経を読み上げさせて、千人血清として捧げよ。お前の悪業がすっかり消えて、母御の魂も返されるかもしれぬ』と。そう、夢でお告げを受けたのです」


 貴公子は、えずく、えずくばかりです。その御様子をご覧になり、吸い込まれそうなほどの美しい御顔立ちを嗜虐的な御微笑みで歪ませて、貴公子の顎をくい、と持ち上げるのです。竹筒の中にあった水が貴公子の口内に溜まります。空亡は貴公子の頭を思い切り叩き、その拍子に水が喉を滑り落ちていくのを見て口角を持ち上げられたのです。


「さぁ、経を読むならば今ですよ。極楽浄土へ旅立たれるならば、経を読まねば。記念すべき千人目です。千人目ですよ!」


 貴公子は何度も頭を殴られて、何度も苦い水を飲まれました。ですがこの貴公子の、どこまでも愚鈍なことが幸いだったのでしょう、苦い水に含まれた眠り薬は不思議と効かず、貴公子は竹筒を加えたままバタバタと逃げおおせたのです。


 空亡も鬼の形相で後を追い、庭に飛び出した貴公子を羽交い絞めにして捕らえてしまいます。これにはもう、観念するよりほかになく、貴公子は口から念仏を唱えて涙を流されます。

 庭先で彼を殺めるものがあるかと言えば、空亡はそれもよく存じておられるのです。即ち溺死。池の中に貴公子の顔を押し込み、顔を持ち上げようとするのを背中に置いた肘と旋毛に置いた手で押し戻される。ぶくぶくと激しく泡立つ池の中で、貴公子は必死に念仏を唱えるのでした。

 意識が薄れていき、瞼が持ち上がると、池の中には角髪の子供が、肺の至る所まで水を飲み、顔を膨らませて亡くなられておられました。彼の足元には大きな岩があり、両の手と足首を縄で結ばれて、その虚ろな瞳を、攻めるように貴公子に向けておられるのでした。


 ああ、あの時。貴公子が初めて空亡姫に相見えたあの時です。池から泡立つのは魚のためではございませんでした。その御子、空亡の御子が池に沈められていたのです。その為に、多くの夫を娶り、多くの御子を孕ませ、どれもこれも、経を読ませてから殺めたのでした。


 貴公子は声にならない声で、角髪の御子に向けて、「君を助けてやれていれば、私の宿業も報われたはずなのに……」と、懺悔をなされました。


 ほどなくして、貴公子の用心棒が空亡を射抜きます。空亡は呻き声を上げながらも、貴公子を殺める手を止めようとはなさいませんでした。歯を食いしばり、背中や、腹や、頭や、腿や腕など、彼方此方に矢を受けながらも、「母親の完治と復活」を求めて、激しく猛りながら貴公子の頭を池へと押し込みます。

 用心棒から見れば、空亡は殆ど人とは言えませんでした。東男でもそれほど豪胆な人はおりますまい。ほとんどとさかのように背骨に刺さった矢をものともせずに、悲願を全うしようというのですから。頭に刺さった矢も、月明りの下では鬼の角のように見えたことでしょう。用心棒が矢を射尽くしてしまってもなお、空亡は池に貴公子を押し込んでおられました。


 剣を抜き、空亡の腕を切り落とし、頭を切り落としてもなお、頭を押さえた腕は貴公子を離しません。用心棒複数人で手を引き剥がそうとするのですが、やはり物の怪に取り憑かれたとしか思えぬ怪力で、腕は一向に離そうと致しません。


 そこで、陰陽師が遅れてやって参ります。というのも、彼は亡霊と話をしておられたからです。何とか娘を心穏やかにするために、一時その体を借りることは出来ないか、と。ほんの数瞬しか訪れない、千載一遇の機会でございました。


 陰陽師は喉を貸し、母の届かぬ思いを、娘であった物の怪に伝えます。その猶予は、僅かに三十一文字(みそひともじ)でありました。


『生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき』(注)


 天を見上げる空亡の御身体がびくりと身を竦ませると、はらはらと涙を流されました。母を生かすためにと千人を殺めた娘でしたが、死んでも死に切れぬ未練を抱えた御母御の御心を聞き、動揺して唇を震わせ、自らの血溜まりに身を濯ぎながら声を上げました。


「御母君!御母君!」


 貴公子を押さえつけていた腕がぼとりと地面に落ち、用心棒は貴公子と共に尻もちをつきました。

 陰陽師もその場に倒れ込み、荒屋は騒然となりました。


 明くる日、一同は宇治中の法師に話をつけて、親子を供養するように致しました。宇治の法師は千人の仲間を連れ立って、あの亡霊の桐の箱に、空亡もともに収め、広い荒屋の中で法要を行いました。


 さて、実のところ、御二人が果たして往生されたのかどうなのか。その先のことは分かりません。というのも、本にはここまでが書いてあるだけなのでございます。



‐‐‐藤式部が語る、『空亡』の結び‐‐‐


「と、言うことのようでありますよ」


 藤式部様がこう結ばれますと、左衛門督様は顔を青くして、そわそわと辺りを見回されました。そして、慌てて立ち上がるとこう仰られたのでした。


「そろそろ失礼しよう。御手洗いに行ってくるよ」

「夜の庭を歩くのでしたら、くれぐれも、池と物の怪にはご用心なされますように」


 藤式部様はすまし顔でそう告げられて、逃げるように立ち去られる左衛門督様を見送られました。

その後ろ姿に向けて、「悪気はないのでしょうけれど、人のお話を茶化すような御方はあまり好きにはなれませんね」とこぼされたのでございます。

 そして、いつものように、ご自身のちょっとしたお仕事の手違いを慌てて直されて、周りの侍女の方々に可愛がられるのでした。

(注)紫式部著『源氏物語』 「第五帖 若紫」より引用。

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