第二話
「うあっ……」
酷い痛みがアマネを眠りから引き揚げた。脳全体が煮立っているような痛みだ。目から火が出そうなほど痛い。痛みはあっという間に全身に伝染し、耐えきれずにアマネは口を開ける。
「あああああ! あああああああッ!」
アマネは身体に溜まった痛みを発散させようとのたうち回る。何かから転げ落ちた。痛い。痛い! もう死にたい! 殺して! そのうち何かに身体を押さえつけられ、何かが身体に注入された。すると潮が引いていくように痛みが収まっていく。
やがて眠気がゆっくりと戻り、アマネは再び意識を落とした。
アマネが目を覚ましたのは、日が沈みかけた頃だった。
「アマネさん、おはようございます」
声のした方に重い頭を向ける。ベッドの傍にある椅子には朱里が座っていた。
「おはよう。今何時?」
「夕方の五時です。一日以上もよく眠ってましたよ」
アマネは身体を起こそうとしたが、自分を拘束するベルトがそれをさせない。アマネはベッドに縛り付けられていた。
「なにこれ」
「これ以上動いたら死にますよ。あなた今回も無茶したんですから」
「えー。退屈」
アマネはベッドに沈み込んだ。鈍い痛みが頭の中を駆け巡っている。
「しばらく脳のメンテナンスを怠っていたツケです。ちゃんと休んでもらいますからね」
「はーい」
アマネの身体はいくら傷を負っても死なず、傷はあっという間に回復する。その機能は脳が司っていて、定期的にメンテナンスを行わないとオーバーヒートしてしまうのだ。
アマネは朱里から数枚の書類が纏められたファインダーが渡される。
「昨日の異界人の情報です。人間名は古田コウジ。警視庁上層部の息子です」
「じゃあお父さんも異界人になのかな」
「さぁ、それはあなたに見てもらわないとなんとも」
「私を開放してくれた時の辞令、長官からだったんでしょ? そのお偉いさん反対しただろうに。もしかしたら長官は異界人じゃないかも?」
「この間の内閣人事で新しく長官になった方なので、可能性は大いにあります」
「ふぅーん……」
アマネは腕のベルトを外してもらった。そして書類をパラパラとめくり、すぐ朱里に返す。
「ここから分かることは無いよ。最近なったみたいだったけど」
「にしてはずいぶん苦戦されてましたね」
「元の運動能力が高いんだろうね」
「ならもっと本来の性能を活かされてたら」
「たぶん死んでたね」
他人事のようにのたまうアマネを前にして、朱里は立ち上がった。
「それではまた明日来ます。私たちの治療技術をもってしても、一週間は絶対安静です。回復したら古田コウジの父親、古田ジュウゾウの調査に入りましょう」
「うん。じゃあまた明日」
「また明日」
朱里は病室から出ていった。誰も居なくなった病室の中、アマネは窓の外を見る。温かい橙色の斜陽が室内に差し込んでいた。あの鎧と同じ色だった。
アマネは普通の女子学生だった。十五歳までは、父親と姉との三人暮らしの中でのびのびと育つ普通の女子学生だった。父親は研究者で滅多に家に帰ってこなかった。母親は物心着く前に死んでいたと聞かされ、姉が母替わりだった。
アマネの中学卒業が間近に迫ったある日、父親が病院に搬送されたという連絡が来た。身体じゅうに大けがを負い、手術をしても助からない確率の方が高かった。姉とアマネは学校から病院に行った。アマネは父親に愛されていたことを自覚していた。だから酷く不安で悲しかった。姉はそんなアマネをずっと抱きしめていた。
「アマネちゃんは……お姉ちゃんが守るからね」
管に繋がれ辛うじて生きている父を見ながら放たれた姉の言葉に、アマネは頷いた。その時の姉の思いつめた表情をアマネは生涯忘れないだろう。父親の手術が成功に終わってもまだまだ状況は予断を許さなかった。そこで姉とアマネは、病院に泊まるための用意を取りに帰った。
そこに怪物が現れた。それは人の形をしていた。それは炎に包まれていた。それは家の天井程の背丈があった。それは目が無かった。それは鬼の面頬をしていた。それは身の丈ほどもある剣を握っていた。気づいたら姉は腹から血を流して倒れ、怪物がそれを見下ろしていた。
「お姉……ちゃん……?」
アマネは茫然とそう口に出すことしかできなかった。
「アマネ……逃げて……」
姉は口端から血を流し、言葉を絞り出した。アマネは動けなかった。声も涙も出なかった。姉の腹に突き刺さった剣から炎が噴き出した。姉の絶叫が響く。肉の焼ける嫌な臭いが鼻に付いた。炎は瞬く間に燃え上がり、壁を伝ってどんどん広がっていく。
「逃げなさいってばああァアッ!」
姉が叫ぶ。アマネは弾かれたように後ろに下がった。壁にぶつかり、ずるずるとへたり込んだ。怪物が、こっちを見た。
「あ……」
アマネは喉が締め付けられた。怪物が近づいてくる。剣を振りかぶった。
「アマネぇええ!!」
姉の声でアマネは正気を取り戻した。頭を引っ込める。
「アマネから離れなさい!」
姉は叫ぶ。
「お姉ちゃんっ! お姉ちゃんッ!!」
「アマネ……逃げて……」
アマネは姉の言葉を無視して姉の元へ駆け寄ろうとする。急に背中に痛みが走った。
「かふっ」
アマネは転んで吐血した。全身が焼けるように熱い。口から煙が出ている気がした。
「アマネぇええええええええ!!」
姉の絶叫が遠くで聞こえる。怪物はその様を見ると、振り向き、去っていった。家じゅうにもう火の手が回っていた。もうどうあがいても死ぬだろう。怪物はそう確信したらしい。
「アマネ……大丈夫……?」
姉はアマネの元へ這った。アマネは焦点のあっていない目で姉を見る。姉の手がアマネの頬を撫でた。目から出る血がその手を汚した。
「おね、えちゃん……痛いの……熱くて、いたい……」
「アマネ……そうだよね。痛いよね……ごめんね……」
姉は痛みに耐え、咳をする。その度姉の身体は大きくたわみ、もう限界だということは目に見えて明らかだった。アマネはそんなことを思った。もう痛すぎて痛くなかった。
「ごめんね、アマネちゃん……ごめんね……」
姉はアマネの手を握る。アマネは最後の力を振り絞って姉の身体を抱きしめる。姉の声がノイズ混じりに聞こえる。姉の声が段々遠くなった。アマネは死んだ。
そう思ったのは自分だけだった。アマネは一か月昏睡した。やせ衰え、話すどころか満足に食べることさえできなくなったが、生き延びてしまった。
姉は死んだ。そして父親も死んだ。警察にアマネは正直に自分が見た怪物のことを言った。話を聞いてくれた警察は優しかったが、それでも怪物なんて信じてくれなかった。
家は全て焼け落ちた。親族もいないアマネは帰る場所が無くなった。中学校は卒業扱いになったが、回復し切っていないアマネは高校には行けなかった。アマネは行くところも無くなった。生きようとする意志も無くなった。点滴で生きながらえるようになった。
ある夜、自分のベッドの傍に人影が立っているのが見えた。アマネ以外人の無い六人分のベッドがある広い病室、そこで月明かりに照らされたナイフが分かった。それが心臓に突き立てられたのも確認した。血がジワリと服に広がって、ちょっとずつ苦しくなった。
痛くなかった。ナイフが自分の身体に入る様がよく見えるくらいには痛くなかった。けほっ、と軽く咳をすると、喉の奥から血の匂いがした。頭が燃えるように熱くなった。
アマネは目を見開いた。その人影が突然橙色に────あの怪物の色が現れたからだ。ゆらゆらとその影は蝋燭の火のように揺らめいている。視界に映る他の色は変わっていない。視界に映るその人影だけが色濃く鮮明に橙色だった。
ナイフの持ち手にあったそいつの手を握りしめる。信じられないくらいの力が出てうめき声が聞こえた。男の声だった。
「はぁっ……はぁっ……!」
ナイフの持ち手に手を掛ける。これを抜いたら、私はどうなるの? 不思議なくらい痛みは感じない。ドクン、ドクン、と心臓の鼓動がうるさい。アマネは立ち上がった。
頭がが燃えるように熱かった。アマネの頭の奥で誰かが言っている。
────こいつを殺せ!
ナイフを胸から抜き取った。
「うわあああああ!」
アマネは咆哮し、ナイフを構え男へ走った。男は困惑の表情を浮かべながら、自らを突き刺そうとした腕を取った。軽いアマネの身体は簡単にふわりと浮かび、壁に叩きつけられる。床に倒れたアマネの顔面が蹴られる。鼻がつぶれる音がして、さらに後頭部が壁に打ち付けられた。アマネは再び蹴らんとする男の足にしがみついた。
「ああああああああ!!」
アマネは膝の関節を逆方向に強く力を籠める。拍子抜けするほどあっさり足が曲がった。だが次の瞬間、拍子抜けするほどあっさり元に戻った。
「え?」
アマネは何が起こったのか分からなかった。確かに足を折ったはずなのに、何事も無かったかのように男は立っている。今度こそ男はアマネを蹴り飛ばした。アマネは起き上がろうとしたが、目の前には男の足裏があった。
「ぐふっ」
顔面を踏みつぶされ、アマネの視界が真っ暗になる。何度も何度も踏みにじられた。どこか割れてはいけない所が割れた音がする。けれど、痛くはない
「うわああああ!」
アマネは腕を起こし、男の足にナイフを突き立てる。男の攻撃が緩み、アマネは起き上がってナイフを振り回した。男は足を縺れさせ倒れた。アマネは飛びかかり馬乗りになる。男の心臓にナイフを突き刺そうとしたが、手首を掴まれて抵抗される。アマネの手首からメキメキという音が聞こえた。
「ふっ、ぅくぅー……」
歯を食いしって力を籠める。少しずつ少しずつ刃先が肌に近づいていく。もう少し、もう少しで────その時、部屋の扉が開いた。
「っ!?」
アマネは驚いて手の力を緩めてしまった。その隙を突き、男はアマネを蹴飛ばし後退する。男が数瞬前までいた所で火花が散った。扉に立っていたのはドラマや映画でよく見る特殊部隊のような恰好をした、銃を持った人影だ。列になって四つの銃口が男を狙う。
撃て! というくぐもった声がヘルメットから聞こえて、短機関銃から銃弾が撃ち出された。銃弾が当たり男は顔を歪ませ舌打ちをする。
「効くのかよ……」
男は腰から拳銃を抜くと、数発特殊部隊に向かって撃った。一人倒れる。多勢に無勢。そろそろ潮時か。男は病室からの脱出経路を確認して、踵を返した────そこにアマネが居た。
ずぶり、とナイフが男のわき腹を穿つ。アマネの血に塗れた刀身が男を割って入った。アマネの真っ昏な瞳は男を飲み込む。男は叫び床をのたうち回った。傷口を抑えるも流れ出る血は止まらない。あたかも初めて痛みを感じているかのように、男は辺り構わず叫んだ。
「許さない……許さない……」
うわごとのように呟くアマネは、男にとどめを刺そうと近づいた。男はアマネを白目を剥きながら睨みつける。
「くそ……ったれぇえ!!」
血唾を吐きながらそう叫んだ男の周りに薄い橙色の霧が漂い始める。アマネは勢いよくナイフを突き立てるが霧に弾かれる。視界に映る男の橙色はどんどん鮮やかに光り輝いていく。
「なに……!?」
頭部は無くなり、手は身の丈より長く巨大に、そして鋭いかぎづめが生えた。足は対照的に不健康なほどに細く、腰から生えた太い尾が足の代わりを果たしている。サメを連想させる背びれが背骨に沿って無数に生えた。耳をつんざく声を上げる。アマネを見つけると狙いを定め、かぎづめを振り上げた。
特殊部隊が怪物に向かって一斉に銃を発砲した。銃弾は怪物の肌をえぐり、赤い血を床に飛び散らせる。痛みに悶えるように声を上げる怪物。しかし怪物は銃弾の雨を構わず進み、特殊部隊の何人かを薙ぎ払った。特殊部隊の腕が吹き飛び、腹が割かれ、首が飛ぶ。
固まっていると不利だと判断したのか、特殊部隊たちは窓を割って外に出た。下には広い駐車場がある。怪物は特殊部隊を追って壁を突き破った。
「……けほっ」
誰一人いなくなった病室で、アマネはナイフを見た。自分の血と、男の血が混じった刀身が月明かりに照らされぬらぬらと光っている。胸をまさぐる。傷跡は塞がっていた。鼻血がぽたぽたと垂れた。
「ああー……!」
アマネは這いずって壁に空いた穴まで行き、下を見る。駐車場では特殊部隊と怪物が戦っていた。特殊部隊の銃弾は、怪物になる前の男に撃ったものとは違うようだ。撃って当たるたびに血がコンクリートに飛び散る。しかし効果は薄いらしく、怪物は銃弾が撃ち込まれても特殊部隊を一人一人殺していく。
そんな中アマネはどこかで確信していた。このナイフで刺せば、あの怪物は殺せる。これで刺した時のあの男の痛がりようは異常だった。このナイフ自体はあの男が持ってきたもの。効果があるのは、アマネの血液だ。
アマネは手首を切った。鮮血が噴き出す。新たに血がナイフに散る。
「こっち!」
アマネは声を上げた。喉に血が絡まって大きい声は出せなかったが、怪物には聞き取れたようで見上げてくる。怪物は叫び声を上げた。アマネは飛び降りた。アマネはナイフを握りしめながら、口も無いのにどうして叫べるんだろうなんて思った。
「あああああああああ!!」
怪物のかぎづめが襲い掛かる。アマネは左手をかざしそれを受け止めた。手に大穴が空いて、それでもアマネは止まらない。アマネは思いきりナイフを振りかぶり、怪物の首にナイフを刺した。次の瞬間、怪物が震える。さらにアマネは力を込めた。
「死ねえええええ!!」
怪物の絶叫と自身の叫びが混ざり合って、アマネはとても煩く思った。怪物は地面に倒れる。アマネはナイフを抜き、すばやくもう一度刺した。次は胸を刺した。左手から出る血が怪物に飛び散る。血を潰すように刺した。刺した。まだ生きている。もう一度。もう一度。
視界に映る男の橙色が色褪せてるまで刺し続けると、怪物は動かなくなった。
「…………終わっ……た……?」
アマネはぐらりと身体を揺らすと、怪物の腹の上から駐車場に転げ落ちた。右目は腫れて開けられない。鼻も折れていて上手に息が吸えない。肋骨も何本か折れていそうだ。頭を打ったからかぼーっとする。しかし痛くなかった。アマネは自分の身体がゴムでできているみたいだと思った。
アマネは人を殺したことを自覚した。が、すぐ殺したあれは人じゃないと思いだした。怪物。そうだ、怪物だ。あの男はあの怪物と同じ色をしていた。怪物だ。怪物だから殺した。敵だ。家族の仇だ。だから殺したんだ。姉の最期と、父親がベッドへ運ばれている様子、二つの映像が頭の中で乱反射する。
「お父さん……お姉ちゃん……」
重傷という言葉では片づけられないほどの傷を負ったアマネは別の病院に移された。アマネは目を覚ますと、まず自分が目を覚ましたことに驚いた。左手の半分が無くなり、身体じゅうが傷だらけになってもまさか自分が生きているなんて。そんなことを思っていると、アマネに訪問客がやってきた。右手足が義肢で杖を突いた精悍な男性と、パンツスーツにショートカットの女性だ。
「立松アマネさん……でいいかな」
警戒しながらアマネは頷いた。男性は話を続ける。
「私は『対外勢力調査局』局長の菅生尊。彼女は加々美朱里……これから、君の身に起こったことを説明するから、よく聞いてほしい。そして説明を受けた後、君に協力をお願いしたい」
「きょう……りょく……?」
「今、この日本には『異界人』という怪物たちが跋扈している。彼らはこの国の中枢に入り込み、国の乗っ取りを企んでいるんだ。そして私たち対外勢力調査委員局、通称『対調』は彼らを殺すために創られた組織。ここまでで質問は?」
「はぁ……」
アマネの様子に、菅生は驚いた表情を浮かべる。
「こんな話を聞いておいて反応が薄いな」
「……今生きてるのがまず不思議なんで……しいて言えば、全部頭おかしいです」
「まぁ、それもそうか……話を続けると、異界人というのは人間が進化した存在……一体一体が特別な姿であらゆる兵器が効かない身体を持つ」
「特別な……姿……?」
アマネはあの怪物の姿を思い出した。
「昨日の怪物ですか?」
「ああ。正確には昨日ではなく、四日前だが」
「異界人……でも、最初は人間で……」
「それは彼が人間だった頃の姿だ。そして怪物は異界人の本来の姿……それになることを私たちは『回帰』と呼んでるんだが、回帰する前の異界人は人間と見分けがつかない。少なくとも今の私たちの技術では」
「…………」
「怪物と戦っていたのは対調の戦闘部隊。しかしあの装備では、研究に研究を重ねても微量なダメージしか奴らに与えられない。しかし君はあの怪物を殺した。その秘密は君の血だ」
「私の、血……?」
「君の身体は変異していて、血液が変化しているようだ。傷を受けてもすぐに治ってしまうのも変異のせいだと思われる」
「変異って?」
「脳だ。君の身体はもうほとんど機能を停止させていて、あなたの脳が身体を強制的に動かしている」
アマネは今までの話を聞いて俯いた。
「私……痛くないんです」
アマネは大穴が空いた手のひらを見つめた。何事も無かったかのように綺麗になっている。
「あの怪物にめちゃめちゃにされたけど、痛くなかったんです。頭の奥だけが、ずっと、ずっと熱くて……」
「痛みを感じないのは、心因性のものだそうだ」
「……じゃあ、私はもう死んでいるんですか」
「ある意味ではそうなるかもしれない」
「…………そうですか」
アマネはケロイドが浮き出た右腕を見る。胸に手を当てた。心臓は動いているように感じた。なんで動いてるんだと虚しく思った。
「なんで……生き残っちゃったんだろ……」
ぽろりと出た言葉はベッドの上を転がり、床に落ちて潰れてしまった。
「私だけなんて……ははは……」
アマネは膝を抱え、顔を埋める。泣こうとしても泣けなかった。ああ、もう死んでるんだな、となぜか自覚した。
「お父さんとお姉ちゃんが死んだのは、このことに関係があるんですか」
「ある。君の父親もお姉さんも異界人に殺された」
「どうやったら死ぬんですか? 私は」
「脳を破壊されると死ぬ」
────燃える家の中で、なんであのまま殺してくれなかったの。
「うわあああああ!」
アマネは傍にあった花瓶を叩き割る。破片を拾い上げ目に突き刺そうとするが、すんでのところで朱里にその手を抑えられる。朱里はアマネの腕をひねって破片を取り上げた。
「離して!」
「落ち着いて」
菅生はアマネに目線を合わせる。アマネは菅生を睨みつけた。
「私の血が必要なら私が死んだ後好きなだけ持って行ってよ! 私は関係ないじゃん!」
「ダメだ」
「どうして!」
「君の血を解析し、どの成分が異界人に有効でどのように運用するか決めるのに時間を要するからだ。それまで異界人に対して攻撃する手段が無いのはこちらとしても容認できない」
「何それ!? じゃあ結局そっちの都合通りに動けって言ってるじゃん!」
「……その通りだ」
「ふざけんな!」
アマネは朱里の手を振り払って菅生を殴った。菅生の頬が赤くなる。アマネはぽろぽろと涙を流して唇を噛み締めた。
「お前らのせいだ! あの怪物を止められなかったお前らのせいだ! お前らのせいで、お父さんと……お姉ちゃんは……」
「ああ。全部君に言う通りだ」
菅生は悔しそうに呟いた。アマネは初めて、菅生の人間らしい表情を見た気がした。
「私たちは……君を生き残らせてしまった。辛いかもしれない。だが、もう少しだけ、話を聞いてくれないか」
後悔を滲ませるような苦悶の声に、アマネは暴れるのをやめる。
「君のご家族は、計画的に殺されたんだ。異界人に────敵に」
「敵……」
「そう、敵だ。私たちが相手にしている、倒さねばならない敵だ」
アマネは目を逸らす。
「……仇だから異界人を倒せって、そう言ってるの? 復讐しろって?」
「それもあるが、結局は我々の都合だ。それ以上に大切なことがある。君は真実を知るべき『人間』だ。どうして家族が殺されなければならなかったのか」
アマネは歯を食いしばりながら柔く首を横に振った。
「でも、もう、私……死にたい……」
菅生はアマネの手を握った。アマネはその手を酷く熱く感じた。
「何も知らないまま全てを奪われたまま死ぬのか、全てを知ってからそれでも生きるのか。どちらを選ぶのかは君の自由だ。それでも君に選択肢が遺されていることは分かってほしい。選ぶ主導権は君が持ってる」
「……選択肢……」
アマネは黙りこくってしまった。菅生は立ち上がる。
「すぐに答えは決めなくていい。協力してくれる気になったらここに来てくれ」
菅生は名刺をアマネに渡した。アマネはそれを受け取ろうとせず、菅生は傍らのテーブルにそれを置いて去った。
翌日、アマネは病院を抜け出して菅生の下へ来た。
「朱里さん。私が協力するって言ってからどれくらい経ったっけ」
「一年と少しです」
「意外に経ってないね。三年くらいやってる気がしてた」
「そう感じるくらい色濃い日々ですね。はい、りんご」
「ん、おいふぃ」
病室のベッドの上で、アマネは差し出されたカットリンゴを頬張った。
「本当に無理をしますね、あなたは。唯一人間の状態の異界人を見分けられるあなたに居なくなられたら困ります」
「だったら早く異界人に効くような武器とか異界人見分けられる機械とか開発してよ。私の血バカバカ取ってるんだから」
アマネの武器が異界人に対し有効なのは、アマネの血を内部に仕込んでいて、異界人の中に直接注入する仕組みになっているからだ。
「武器の方はもうすぐ実戦段階です」
朱里はまたリンゴをアマネの口に持っていく。アマネは再びそれをパクついた。
「それに私は身体がぐちゃぐちゃにならない限り動けるんだから。痛くないし大丈夫」
アマネがあっけらかんと放つその言葉に、朱里は表情を少し曇らせた。
「……見る方は痛いのよ」
「何か言った?」
「いいえ、そろそろ本部に戻らなければならないので」
朱里は立ち上がった。
「それではまた明日、迎えに来ます」
「毎日来てくれてありがとう」
「いえ。仕事……ですので」
「じゃあ、また明日」
「ええ。また明日」
朱里は病室を出ていく。この一年、数々の異界人を殺してきて、異界人が何なのか少しずつ分かってきた。しかし未だに父親と姉が殺された理由も、その下手人も明らかにならない。まだアマネの中の復讐の 炎は燻ぶったままだ。
「また、生き残っちゃったな……」
全ての真実を。死した身体を動かさねばならないほどの真実を、アマネは知らねばならない。
それが無いのなら、その時は────