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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: 神山雪

10年前、文学フリマ東京で恐れ多くも売り出した一作です。


 誰にも使われる事のない部屋は、箱に入れられたままの人形と似ているのだと感じたのはいつが始めだったか、思い出せというのが困難だろう。否、現在の私に置かれた状態――人の入らぬ場所に閉じ込められた私が、人形に似ているのだ。鍵をかけられ、淀んだ酸素を取りかえることも出来ず、ただ放置されているだけの私は、永遠に釈放されぬ囚人である。


 明確なる時間という概念が私には存在しない。この場を共有するのっぽの時計は、針を動かすことを止めてしまったので、私には時間を知らせる相手がそもそもいないのだ。唯一分かるのは、最後にここを訪れた人間が扉を閉めたのが、途方も無く遥か昔だという事だ。


 一人きりになった()が始めたことは、この部屋の、()が存在する場所から、あらゆるものを一つずつ丁寧に観察することだった。


 幸い、私はこの部屋の隅から隅まで見渡せる位置に置かれている。正面には丁度、窓硝子があったので、その気になれば外の世界を少しなりとも見る事が可能であった。今の季節は真冬のようであった。きめ細かな、人の肌のような雪は、かつて生が在った頃のみずからを思い出させるようで不愉快だ。粉雪は強い。あの体積の小ささで、人間の生活に多大なる影響を及ぼすのだ。尤も、今の私にはまるで関係はないが。


 改めて、飽きるほど長い時間を共にしたこの部屋をじっくりと眺めまわした。幾つも置かれている机は、かつて勉学に勤しむ為に使われていた頃の名残だ。一番近くの机には、ペーパーナイフで切り付けたような傷跡が残っていた。ああ、確かあれはジャンという少年がふざけて付けたものだ、そばかすの顔が可愛い少年だった気がする。彼がどのようにここ(・・)入ってきたかは覚えていない。古時計の振り子の中には、まさしく先ほど考えた通り、精巧な作りのフランス人形が、開放されるのを待ち望んでいるかのように天を仰いでいた。出来る事ならば出してやりたいが、人としての肉体と生を当の昔になくしてしまったので、私には人形の望みをかなえてやる事は出来ないのだ。


 床の一部に染まっている赤い染みや、白い壁の落書きなどをこと細かに眺め尽くす。一つの見落としもせぬように。


 こうして長い暇つぶしを始めてみた。


 地の底からズッと這うように全てを観察した後は、想像の中で物の位置をチェスの駒を動かすように、部屋の中のあらゆる場所に置き換えてみた。時計を窓際に移動させてみると、人工的な明りが灯ることのない部屋は、一遍に薄暗くなった。教卓の隣のチェンバロを私の目の前に動かせば、手がなくとも弾いてみたい気分になった。旋律を奏でることは出来ぬではあろうが、指さえあれば、音を出すこと位は可能だろう。尤も、相当の時間が経っているので、チェンバロが望むような音を出るのかが、甚だ疑問であるが。


 嘗て生を受けていた頃よりも、思考をする機会が増えたのは、皮肉なことだと思った。だが、思考を巡らせる以外に、私がこの永劫とも言える長い時を過ごす術があるだろうか。答えは明白だった。じっくりと眺め、観察し、想像に耽り、飽きたら取敢えず止め、再開するというだけの日々が、長らく続いた。永久に続くのかと思った。


 *


 暇潰しを始めてどれぐらいの月日が経ったころか。白雪降りしきる季節に、細く軋む音が伝わってきた。


 驚愕した。

 久方ぶりの、この部屋が発する音だったのだ。久方ぶりに、生きた人間が入ってきたのだ。


 音の正体は、一人の少年だった。少年が、何十年も開かれることのなかった扉を開けたのだ。

 唐突に現れてきた少年を、何時もと同じように観察してみた。観察の対象に、新しく、しかも生きた人間が現れたことは、長い間孤独だった私にとって、非常に喜ばしい事であった。何時の間にか、人恋しくなっていたのだろう。

 新たなる観察の対象は、余りにも健康体とは言い難い、青白い肌を持っていた。顎まで伸びた豊かな金髪は、若干の癖があり手入れを怠っているようだった。白いシャツと黒のパンツ姿の少年は線が細く、肉付きも薄く、全体的に華奢な印象を私に与えていた。冬だというのに、随分と薄着なものだ。


 吐く息は当たり前だが白い。窓の向こうの世界は、暫くは白銀の世界であろう。尤も、私にとってのこの「暫く」は、瞬きをする時間に等しいものだが。


 花に関する予備知識も持たぬ私だが、少年のその立ち姿は、付近の沼に咲いていたナルシサスの花を連想させた。寒月の、雪を割って咲き始めるナルシサスは、ひとを惑わす妖しい芳香をおのずから発している。併し私の目の前に立つ花は、妖しく漂い美しい乍も、儚いもののような気がした。あまりにも薄く細すぎるからであろうか、それとも青白い肌がもたらす作用であろうか。


 部屋全体は、厚い埃の鎧を纏っている。当然だ。ここは針を進めるのを辞めたのだから。呼吸すらも出来ぬのだから、眼も眩むほど空気の濁りようだ。


 少年は、暫くは茫然と佇んでいたが、発作的に咳をし始めた。直ぐに治まるかと思ったが、段々と激しくなっていく。埃がもたらす効果だけではなく、何かしらの病を孕んでいるようだった。

時折小さく身を震わせた。当然の結果だ。部屋を暖める様な道具なぞ、ここには存在しない。今は生憎、体温はないが、その時の季節を思い出してみると、身も凍るほどの寒さだった。私の生前がそうであったので、余程の事が無ければ変わってはいないだろう。


 空気の淀みと寒さに耐えきれず、少年は出て行った。

 私はひとまず少年の姿を追いやり、いつもの如く暇潰しに取り掛かろうとした。普段の、部屋を眺め回し想像に耽るという行為を。


 併し浮かんでくるのは、先ほどの痩せた少年の姿だけであった。白い肌が、金の癖毛が、細い体躯が、中々隅から離れてはくれぬ。其の残像は、時間が経てば経つほど色濃く残ってくるのであった。

彼は一体何者で、どう言った経緯でこの、長きに渡って沈黙していたここ(・・)に現れたのか。ここの扉の鍵は何処に在り、如何してここだと分かったのか。私は今までの暇潰しをいったん止め、思考し想像する対象を、あの少年へと移行させた。

 あの少年は、また、この長きに渡って忘れられた部屋を訪れるだろう。そんな確信が私にはあった。


 *


 確信は正鵠(せいこく)を射る事となった。

 数回、朝と夜を繰り返した後に、再びあの少年がやってきた。今度は、しっかりと防寒を重視した格好をしていた。


 部屋を一巡したのち、彼は一つの物に目を付けた。それは右端の棚に放置されていた、古びた――といっても、私ほど年季の入っているものではない――の、蓄音器というものだった。私の生前は、その様な機器は存在しなかった。膨大な記憶の隅に追いやった断片を引っ張り出すと、それはエクレールという年若い女の置き土産であった。彼女の事はよく覚えている。何せ、私に囚人に成る事を強いた張本人であるからだ。彼女は大の音楽好きで、(たま)にチェンバロの演奏を披露してくれていた。あの若い女も、最早生きてはいまい。


 扱い方が分からない様で、見つけたはいいもの持て余しているようであった。亡きエクレール嬢が散々扱っているのをじっと眺めていた為、一応の使用方法は分かる。併しながら私にはからだが無いので、私が知った所で如何にも成らぬのだ。


 途方に暮れていたが、その機器の彼方此方を弄り出した。どの様に動かせば、音は成るのだろう。思考錯誤を繰り返し、最後はやけくそ気味で動かして――漸く円盤は動きだした。


 エクレール嬢が嫌という程聴かせてくれた、バッハの「マタイ受難曲」だった。エクレール嬢は他にも私が知らない様な音楽を聞かせてはくれたが、鍵を掛けた日に、「マタイ受難曲」一枚を残して他は全て撤収していった。如何して彼女が「マタイ受難曲」だけを残したのかは見当が付かない。

 途方もなく長い曲だ。キリストがピラトに捕まる数日前から始まり、ユダに裏切られ、十字架に処せられるまでを描いていくのだ。壮麗にして繊細なオーケストラが彩り、多量の合唱と独唱が受難の物語を紡いでいく。


 外は変わらない雪景色だ。少年が吐く息すらも、儚く真っ白に揺れた。


 *


 こうして少年は、頻繁にここ(・・)を訪れるようになった。段々と共有していく時間は長くなり、「マタイ受難曲」でキリストが磔刑されるまで共に居る事が可能になった。私には時間よりも、日という概念の方が強く意識している。六回朝を迎え、七回目の朝を迎える日は、日曜日の教会ミサの日であり、この日に扉を開ける軋んだ音を聞く事が多い。


 彼の人格は、非常に大人しいものであるらしい。(ひとり)(ごと)どころか、口を開く素振りさえも見せてはくれない。なので、私は彼の声をまだ聞いていない。其処にひっそりと佇むだけだ。時折、分厚そうな本を広げるが、基本的に何もしない。全身から発せられる病の気も、一向に払拭される予兆を見せなかった。


 私は少年がここ入る度に、その儚い様子を見せる彼の一挙一同を、見逃さぬように観察をした。あたまの上から、爪先までをじっくりと這うように舐めまわす。


 夜毎、好いた男を待ち望む娼婦の気分とは、おそらくこの様なものなのだろう。


 彼の人間構造を、私は殆ど知らぬ。思考するだけの存在の私は、関わりを持つことも儘ならない。彼が、どの様な人間で、どの様な家で育ち、どの様な生活をしているのか、物言わぬ少年からは読み取ることも出来ぬ。唯一わかるのは、からだが弱く、咳を多量にしていることから、肺の病気を持っていること位だろうか。そうすると、実は都会の少年で、この地方には静養に来ているのかも知れぬ。納得の事だ。田舎らしい純朴さというものは、余り伝わっては来ないので。

(しか)(ながら)、何時の間にか、観察の対象である少年がふらりと現れるのを、待ち焦がれている自分が居たのだ。思考を巡らせるだけの存在に成り果てて長らく経ったが、その様な対象に出会ったのは、初めてであった。


 *


 誰かを焦がれる程想い、其れを抱き締めずには居られない感情。若しかすると、この感情こそが恋というものではないか。私はふとそう思った。其れならば、今までの私は、それをした事が無かったのだ。


 *


 雪が融け、季節は春へと移行しようとしていた。変らぬ様子で「マタイ受難曲」の円盤に針を置き――俄かに、床に寝そべった。眺め始めて其れなりに時間が経っていたが、この様な行動に出たのは初めての事だった。

 初めは天を仰ぐように眼を確り開いていたが、やがてトロリトロリと瞼を落とした。寝息はマタイ受難曲を合唱と共に彩り始めた。

若し手に入るのならば、此の世の全てを捨て去っても悔いは無い。それほどに美しい寝顔だった。

 彼を眺め、空間を共有している時ほど、もう一度肉体というものを切望したことはない。

 私に肉体があり、この世にもう一度ひととして存在する事が許されるならば、真っ先に彼の細いからだを抱きしめて、白い肌に直に触れてみたい。そして、彼という人間を、真っ白なキャンパスで一から描いてみたい。

 水のような旋律に身をゆだねている彼のからだを、私が徐々に侵食していく様子を、数え切れない程に想像していた。

 先ず後ろから近づいて、陶磁のような白い頬に触れる。青白くも微かに桃色に染まり、肌荒れと無縁のそれは、さぞかし滑らかな心地がするのだろう。両手で頬を包み込み、片方の手を背中に回す。全身で、繊細な硝子細工でも扱うかのように優しく、されど離すまいとする強固たる意思で確りと。

 後ろに回した手をシャツの中に侵入させる。雪よりも冷えた肌を、下から上へと、最低限の力以外入れずに、背骨を伝ってゆっくりと中指でなぞっていく。指はやがてうなじへと到達する。

 其の侭の状態で、静かに彼のからだを横たえる。背中ではない片方の手で顔を固定して、みずからの顔を近づけていく。華奢で薬品のにおいを纏ったからだに、私が被さるかたちになった。

柔らかく引き締まった少年の唇に、私のそれを押し付ける。舌で閉じた儘の唇を押し開き、口内に侵入していく。私の舌は彼の中で蛇のように蠢き、歯の隙間を塗ってその感触を味わっている。顔を固定していた手を下へと滑らせる。(ボタン)を一つ一つ外していき、ねっとりとした手付きで、掌で彼の腹を優しく撫でまわす。唇を一先ずスッと離し、細く、喉仏が出ていない首筋へと移行させる。

 屹度(きっと)あの少年は、私が何をしても抵抗はしないだろう。大人しくじっとしているのだろう。それは恐らく、水を抱くようなものだが、彼のからだからは、甘く儚い香りを発している事だろう。

 その、人形のような彼を、飽きるほど抱いてみたい。描いてみたい。彼見るたびに、私は何度もその想像を巡らせている。

 唐突に、過去の出来事を思い出した。


 *


 独学だが、私は絵を勉強していた。芸術とは関係の無い家系だったが、何故かその方面に才能が行ってしまったらしい。割かし近辺でも有名になっていた。(いづ)れは何処かの学校に入れればいい、と考えていた。


 簡単にスケッチをし、家業の仕立て屋で働いては道具を揃える日々が続いた。

 毎週日課で向かう教会の隣には、遠くの貴族の子息が勉強する様な、荘厳な造りの学校が建っていた。元々は矢張(やは)り貴族の別荘で、手放す際に勉学が励む場所にしてくれと、家主が言って来たという話を聞いた。


 学園にはカールという友人が居た。カールとは、村に一軒のパブで知り合った。裕福な育ちの割に気さくで、中々に柔軟な思考を持つ人物だった。黒髪で、中肉中背の容姿だった様な覚えがある。

カールは私に、良い処を紹介する、と言い、夜の学園の中へと案内した。内心、関係の無い人間である私が入っていいものか、肝を冷やした覚えがあるが。


 カールが案内したそこは、使われていない教室であった。此処なら、誰も来ないから、絵描き場に使うと良い但し、寝静まった深夜以外は辞めた方がいいがね、と進めてきた。自室で油彩を行うには、弊害が多い。匂いがきつく、自室狭すぎる上に身内に見られたくないと思っていたので、カールの申し出を有り難く受け取った。

 夜中の学園に忍び込み、未使用の教室を勝手に使って数カ月、漸く本格的に油彩が出来て、充実した日を過ごしていた。

 ――へぇ、巧いものじゃないか。

 或る日の晩の事だ。

何時の間にか、入口の処にカールが立っていた。着崩していたシャツは、意図的にそうしているのだろう。脅かすなと軽く言っている間に、中に入ってきた。

 ――此の、髪飾りを付けている女のモデルは居るのか?

 居ないよ。適当に描いただけさ。カールの質問にはそう答え、その間に私は撤去する準備を始めていた。素描なら兎も角、真面目に絵を描いている場面を他人に見られるのが、一等に嫌いなのであった。描き途中の物を見られるのも、其れも又然りである。

 一気に描く気力を削げられてしまった私は、手早く立ち去ろうとした。

 その私の手首を、カールが素早く捕まえた。

 ――成程、お前は美しいな。

 苦い笑いを漏らした。知り合ってから長らく経っていると云うのに、今更如何したのか。其れだけを言う為に引き留めたのかと思うと、滑稽で仕様が無い。内心呆れて居ると、私の手を捉えている彼の腕が、ぐっと力を増した。


 互いの顔の距離が短くなる。改めて見ると、中々整った顔立ちだと再確認をした。彼は、もう片方の手で私の髪を撫でる。其の手が頬にとするりと滑り落ちてきた。カールは何時になく奇妙な、腐り掛けの林檎の様な、甘くとも禁忌的な気配を纏っていた。


 その瞬間、カールが何をするのかが明らかになった。

 其れをする相手は私ではないだろう。私は溜息交じりにカールに言い放った。すると彼の、先ほど迄の滑らかな動きがぴたりと止まった。腕を掴む力も格段に緩んだ。その隙に、私は彼から直ぐに離れ、御休み、と一言残して立ち去った。


 その後も、私用にしてしまっている学園の絵描き場には通ったが、カールの姿は見てはいない。私に会う事を、頑なに拒んでいるようだった。

 雪深い季節が、其の年も到来した。

 咳をすること、多くなった。


 何時の間にか、私は肺を病んでしまっていた。風邪だと高をくくっていた咳が何週間も止まらず、果ては発熱さえも繰り返す様になった。医者に診断して貰った処、肺の病だと断定された。症状が進んでからの発見であった。


 当時、其れは死に向かう道行が最も短くなる事を表していた。私は医者に掛かりながら、出来るだけ絵を描き続けたが、時間が経つに連れ肺の中で魔物が肥大化して暴れ出し、筆を持つ事が困難になった。自然と足は遠のいた。病魔は、私を無気力にさえさせた。


 絵が描けないのが、何とももどかしい。筆を持てぬ私など、死人も同然ではないか。

 血痰が、私の運命を知らせてくれた様に思えた。


 病身の私を、カールが見舞いに来た。姿を見るのは、あの夜以来になる。枕元に座り、済まん、と一言言って沈黙してしまった。非常に居心地の悪そうにしていたのが印象的だった。

 一体何を謝るというのか。私が漏らした笑いは、呆れる感情を大半に含んでいた。別にいいさ。気に留めてないから。カールは私の言葉を聞いて、何とも云えない悲哀の表情を表に出した。

 ――もう、描けんのか?

 首を縦に動かした。叶うのであれば、もう一度筆を取りたい。この病が治らぬ限り、死へと向かっていく以外に、私は何も出来ないのだ。病身の我が身が疎ましい。無理だ、と掠れる声で呟いた。

 ――あの日の夜な。

 カールが言い辛そうに、ぽつりと吐き出し始めた。あの日、とは、最後に会った夜の事だろう。

 ――夜中にお前は一人で絵を描いていただろう? 惑わされたんだ。あの時のお前が、如何にも、ひとのように見えなくてな。何かの化身と思わせる程に。

 その言葉に、静かに耳を傾ける。

 部屋に、蝋燭を持った母が現れた。息子のからだに触りますので、と言ってカールに退出するように、控えめに促した。

 ――あの儘お前を抱いていれば、お前のからだからは、花の様な、甘い芳香がしたのだろうな。……本当に、美しかったんだ。

 それが、私がカールを見た最後になった。


 次の日、私は自室を抜け出した。


 私は部屋を訪れてくれた友人に感謝した。

この身が有るならば、病身でも描いてみるべきだ。

 嘗ての私をその様に美しいと思える人間がいるのであれば、私は其れを描いてみるべきだ。

 純粋に、そう思った為だ。


 *


 小柄なキャンパスとイーゼルを用意する。雪というものは不思議だ。人間の生活に多大に影響を与える以上に、外界の全ての音を、封じ込める効果が有るからだ。その恩恵か、何にも煩わされずに済む。隣の教会から響いているであろうグレゴリオ聖歌にも、他者のかしましい嬌声にも、みずからのからだの様子にも。最低限のものは身につけずに。どうせ厚着をしても、絵を描いている熱で熱くなって仕舞うから必要無い。

 手元に一つ、蝋燭を灯す。

 これから描くのは、我が人生で唯一の肖像である。

 ひとしきり瞑目したのち、筆を走らせ始めた。ここ(・・)に居ることを誰一人にも気づかれぬ内に。雪が続いている内に。一切の静寂が訪れている内に。肺が痛まぬ内に。――この身が、砕けてしまわぬ内に。


 数時間掛かって、絵が完成した。窓硝子に映る外の世界は、白一色から炭を一面に塗りたくった様な黒一色へと真逆に色変わりしていた。蝋燭は半分以上融けている。キャンパスの裏に、万年筆で署名(サイン)を記して、全ての作業が終了した。自画自賛だが、之まで描いた中で、最も良い出来栄えに成った。

 息を吐いた途端、激しい目眩と胸の痛みに襲われた。口を押さえて咳込んでいると、のどの奥から血が絡まった痰が出てきた。其れを切っ掛けに、体内を形成し循環する赤い水が逆流してきた。赤く、点々とした模様が地を描いていく。からだに浮かび上がった斑点の様だ、とぼんやり思った。併しその斑点は、あろうことか、完成したキャンパスまでを少しばかり汚してしまった。袖で赤い斑点を懸命に叩く。完全ではないが、何とか目立たないまでに落ちた。

 からだが熱くなる。目が霞み、ゆっくりと全身が傾いていくが、自身を支える様な力は、私には残っていなかった。

 これが己の末期かと、口の端だけで笑った。絵に僅かでも残ってしまった、赤い斑点だけが悔やまれた。自然に瞼が落ち、視界と意識は完全なる暗闇に支配された。


 *


 ――併し私の意識だけは、何故か最期に、肖像を描いた部屋へと戻ってきた。部屋には、青白く痩せ細った私の肉体は存在しなかった。床に染付いて落ちなくなった赤い斑点だけが、そこに居た私の存在を明確に伝えていた。

 一面を見渡しても、私の絵は見付からなかった。当たり前か。現在は深夜の様であった。一応、視覚は取り戻せたらしい。その他の五感が働くか否かは、その時には分からなかったが。

 窓の外が白み初め、暗闇が姿を消し始めた。朝日が差し込んでくる。窓硝子は鏡のように反射してきらめいた。

 鏡を見て、私は気付いた。

私は、私が描いた絵と同化したのだと。


 *


 私の絵は、其の儘部屋に放置されていた。一体誰が、私を壁に掛けたのであろうか。私の遺体を発見したのは誰なのであろうか。考えて、直ぐに答えが出た。あの私に惑わされたといった友人しかいまい。其れよりも、今のみずからに置かれた状態の方が気になった。

私が死に、ここに戻ってくる迄一体どの位の時間が経っているのであろうか。暫くその様な思案に暮れていると、年端の行かぬ少年少女たちが現れた。


 ――止めろよ。入ったら呪われるんだぞ。


 ――そんな事無いって。此処(ここ)だろ? 最後の怪談の場所って。確か、此処で貴族の女の子に失恋した画家が自殺したんだよ。だから床に血の痕があるんだ。


 若し顔が動くのであれば、私の口は皮肉に歪んでいた事だろう。その、話している画家が私だという事に、目の前の少年たちは誰が気付くであろうか。確かに私が此処でいのちを落としたのは、紛れもない事実である。併し、自殺でなければ、貴族の女性に恋した覚えもない。恋愛という行為すら、無縁だったのだ。絵を描き、家業を手伝い、適度に友人と戯れる程度の、短い人生だった。

 私はじっと、少年達の会話に耳を傾けた。私に対する偏見的な噂話ではない。()が一体どういった時代なのかを知りたかった。根気よく聞いていると、どうやら私が死んでから、ゆうに五十年は過ぎたらしかった。成程、其れでは根の葉もない噂話が横行していても可笑しくは無い。

 そうして偶に人が入っては出ていき、捲るめく歳月が流れた。最後の客人であったエクレール嬢が去り、再び私は孤独になった。思考の合間に何度も考えた。如何して私はこの様な状態に成ったのだろう、と。

 その時に、あの少年が入ってきたのだ。身に病を孕ませた、私の愛しの人が。


 *


 少年が頻繁に立ち入りするようになって、数か月が経った。

其の日、何時も以上に無気力に部屋に入ってきたかと思うと、壁に背を預けてずるずると力なく座り込んだ。豊かな金の髪が、前へと垂れてくる。

 頭を抱えているので、表情は窺えない。時折肩を震わせた。手の甲で瞼を拭う。涙と痰が混ざって、口から洩れた。

 彼が何故泣いているかは知らぬ。彼の抱える病が、今の時代に完治するものかは知らぬ。だが、病に倒れた時の私と同じもどかしさを抱えているのだろう。当時の私も、其れが厭で仕方がなかったものだ。厭になる自分も、また弱い存在だと思っていたのだ。

 這うようにしていた視線の力を、今度は包み込むような、温かなものに変えた。

 泣く必要はない。嘆く必要はない。人のこころが強く成るには、切っ掛けが必要だ。――だから、弱い自分を卑下することはないのだ。

 ひとしきり泣きはらし、落ち着いた後、彼は出て行った。

 入る時と出ていく時で、随分と顔が違って見えた。


 *


 暫くは、少年が訪れる事は無かった。

だが併し私には一つの、或る確信が有った。

即ち、次が最後であろうと。


 *


 更に季節は過ぎ、初夏へと入って行った。

 清々しい日差しを浴びていると、ドアノブが開く音が空間を支配した。

 あの少年だ。

暫く見ぬうちに、随分と健康体になった気がする。元々の病的な青白さは変わらぬが、私を死に至らしめた病の姿は、大分薄れたような気がする。

 部屋をこころの映像に収めるように、じっとりとなぞる。

 彼は私の目の前に来て、じっと私を見つめている。植物の茎のようなほそい手で、私を外した。

 私と彼の距離が近くなる。散々眺めまわした彼の顔を見つめる。儚げな印象を与える青白い肌を。筋の通った鼻梁を。柔らかく引き締まった唇を。黒真珠のような瞳を。しっかりと記憶に焼きつける。

 私をもとに戻し、再三、部屋をぐるりを眺め、そして――



 ◆



 ――僕がこの部屋を訪れるのは、屹度(きっと)最後になるだろう。数か月に渡る静養を終え、一応は健康体になった僕は、明日には此の地を去る。其の最後に、もう一回だけ会いたい人がいた。

 数ヶ月間、何度も好きで訪れた場所だ。かつては貴族の別荘で、かつては上流階級の子息たちの学園で――今は図書館へと変身した建物。その中の、忘れ去られた一室。従兄にその話をしても、まるで存在を信じてくれなかった、秘密の部屋。この淀んだ空間がからだには悪いと知っていても、それでも辞められなかった。

鍵穴に差し込み、足を踏み入れる。初めて入った時は、肺の病の事もあったけど、五分も居る事が出来なかった。

 強くかみしめるように、時間をかけて一歩一歩踏み出す。

 一枚の絵の前に立った。

 この部屋の、主のような絵に。


 壁に飾られたそれ(・・)を外してみた。

 若い男の絵だ。否、男と表現するにはまだ未成熟で、微妙な年頃の青年だ。本一冊ぐらいの小さい絵だが、其れでも丁寧に、凝って色を塗られているのが分かる。証拠に、髪の毛一本一本までが描かれているのだ。

 絵の裏には殴り書きのような署名(サイン)と、簡単に半生が記されていた。

 署名(サイン)は、緻密な絵を描いたとは思えない位乱暴な字だ。どうにかして読み解いてみると、この絵の作者はパーシヴァル・リヒターというらしい。自身を描いた――つまりは肖像画であるらしい。筆跡が署名(サイン)と短文では違うのが妙に気になった。

 じっと、肖像画を眺める。それまでこの(・・)()が、僕を舐めるように見つめていたように。

赤みが差した血色の好い頬に、筋の通った鼻梁。砂金を(まぶ)した様な金の糸。肌蹴た胸元を、髪と同じの金色の細い鎖が飾っている。聡明そうな瞳は柔らかく微笑んではいるが、寧ろ意思の強さを感じさせる。それ以上に、全身からは群青に灰を混ぜたような哀愁を漂わせている。


 彫の深い、神秘的な美しい青年の肖像だ。

 僕は絵の人物の、先ず髪の部分に触れた。次は優雅な曲線を描く頬に。頬のラインをなぞると、綺麗な半円が完成する。

 顎から首、首筋を人差し指だけで、下へ下へと指を滑らせていく。


 この部屋に入る度に、何かの強い視線を感じていた。それは、屹度気のせいではなかったのだろう。其の視線は、ぼくのからだを、あたまから爪先までを、じっくりと舐めまわしていた。だけど僕は、その視線がけして嫌いではなかった。


 屹度(きっと)、此の絵の人物は、僕に似ている。

 夭折した青年画家の肖像画を、元の位置に戻し、ぐるりと視線を一周させる。小さなチェンバロ、一枚だけのレコード、其れが設置された蓄音器、粉雪を降り積もらせたような埃。

もう一度、絵の中の、蒼いしずくの様な瞳と眼を合わせる。

 (ふち)を両手で抱え、自分の顔を、絵の人物に近づける。そして――


 バタンと明確な音を立てて外に出た。きっと、もう入るとのない部屋に別れを告げる。鍵穴に差し込んで、ぐるりと半回転させた。

 日の光が、いやに眩しかった。



 あの絵があったから、此処に何度も来てしまったのだろう。

 彼に視られる事に、一種の喜びを感じている自分がいた。この部屋があり、彼がいたからこそ、長い静養生活も切り抜けられたのだ。



 もしかするとあの絵は、僕の鏡のようなものだったのかもしれない。

 彼を初めて見たとき、この近辺の沼に咲いていた、白い水仙のような印象を受けたのだ。其れは、甘い香りをかもしつつも、直ぐに消えてしまうような壊れやすさも孕んでいた気がしたのだ。



 ◆



 足音が遠ざかっていく。

 何度この、軽い足音が近づくたびにこころを躍らせたであろうか。彼は恐らく、此処を訪れる事は無いのだろう。


 小指の先が僅かに触れるだけの短い接吻の後、私は悟った。

私がここ(・・)に再び戻されたのは、おそらく彼という鏡に向き合う為だったのだ。

 彼という花は、此れからも弱くとも美しく咲いていくだろう。私は短く散ってしまったが、どうか彼が、長く咲き続ける事を願うばかりだ。そうして、私は再び、何かしらの生を受けて、咲き続けている彼に会いに行きたい。

 思考を意識の下へ下へと沈め、私は()であることを止めた。もう一度、生を受けられんことを願って。


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