過去の夢
これは「過去の夢」だ。
だって、自分はただの「加代子」であって、彼の言うような「姫神」ではない。
「さあ、おいでなさい。」
手を差し伸べて彼が呼んでいるのは、自分ではないことも分かっている。
それでも彼に手を取られ、絡め取られるようにしてその胸の内に引き寄せられると、加代子は躊躇いがちに顔を埋めた。
時や場所が変わっても、彼がくれる温もりや優しく抱き締めてくる感覚は変わらなくて、何だか胸がいっぱいになってくる。
「神皇産霊神が籠られてから、ずっとお待ちしていました。ようやく貴女にお会い出来た。」
場所は方丈の、彼と自分、それからどことなく雰囲気が少彦名命に似ている女神の三人と祭壇があれば手狭に感じるサイズの部屋で、塗籠か何かに見える。
「気吹戸主神、ここは立入禁止にしていたはずだよ?」
呆れたような声で神皇産霊神と呼ばれた男勝りながら美人な女神が文句をつければ、気吹戸主神と呼ばれた彼は「そうでしたっけ」と茶目っ気たっぷりに笑う。
神皇産霊神は気吹戸主神と気心がしれているのだろう。彼女は深緑色の目を釣り上げて「まだ魂留めも終わっていないというのに、何しに来たんだい?」と悪態を吐いた。
「だから、来たんですよ。」
「ほう? じゃあ、私に怒られに来たってわけだね?」
気吹戸主神は頬を引き攣らせている神皇産霊神にニコリと微笑み、それを後目に加代子の髪を一掬いして口元にもっていくと愛しそうに口付ける。
まるで何かの映画でも見てるよう――。
気吹戸主神の視線が少し低くなったと思ったら、急に自分の視線が高くなり抱き抱えられたのだと気が付く。
そして、予め準備されていたのだろう、祭壇の所に連れていかれると、碁盤の上に下ろされる。それからほぼ同じ目線になった気吹戸主神に「汲めども尽きぬ水底の深淵司る愛しき方」と呼びかけられる。
すると、不思議な事にその言葉と共に、白かった服は裾に行くほど濃い紺色になるようにして夕闇の空のように染まっていき、銀糸で刺繍したようにして流水紋が浮かび上がる。
「どうぞ私と縁を結び、祓えの神の名を受けてくださいませ。」
雅と瓜二つの気吹戸主神に見つめられると、何だか落ち着かない。
それに熱っぽく見つめてくる彼の申し出を断る理由も思いつかなくて、加代子はこくりと頷いた。
気を良くしたのか、気吹戸主神は嬉しそうに破顔する。
ああ、この笑顔だ――。
心の底から嬉しがる笑顔――。
途端にツキンツキンと胸が痛み、同時に胸がきゅうっと引き絞られるような心地がする。
「幾許くの罪を許し、その罪を流離い消さむ、吾妹子が名は《佐須良》。」
気吹戸主神が朗々と名付けする声を聞いていると、加代子は目の前にいる彼ではなくて、右目を金色に染めていた雅の事が気に掛かった。
雅は、何か大事な事を隠してる――。
自分を護るためかもしれないが、いつも彼は肝心な事を教えてくれない。それが寂しくて堪らないと言うのに。
まるで、風のようなヒト――。
雅に近付こうと思えば思うほど、彼を遠くに感じて哀しくなる。
そんな加代子の思いが、ぼんやりと顔に出たのかもしれない。気吹戸主神は「どうしました?」と心配そうに覗き込んできた。
加代子が答えに窮した次の瞬間、「どうしました、は、私が聞きたい台詞だよ」と言いながら、深緑色の目をした女性は呆れ返る。
「元の珠姫と同じ名を付けるなんて、何を考えているんだい?」
「そう、カリカリなさらないでくださいよ、神皇産霊神。」
「そういう問題じゃないだろう?」
珠姫の神威の欠片を寄せ集めて産霊をし、ようやく終わりが見えたところで、どこからともなく風が吹き込んできたと思ったら、気吹戸主神が攫うようにして姫神と縁を結んでしまった。
神皇産霊神は頭が痛そうな顔をして、「まさか乱入して、縁を結び、名を与えるなんて」と苦言を呈すると、気吹戸主神はこてりと首を傾げた。
「貴女の思惑通り、《祓えの神》として名を与えたのですが。」
その言葉に神皇産霊神は目を見開き、それから警戒の色を露わにその目をすうっと細めた。
「その話、地狐にでも聞いたのかい?」
「いいえ。ですが、私を風の神として産霊せざるを得なかったのはそのためですよね?」
そう言って真っ直ぐに見つめてくる気吹戸主神の眼差しに、神皇産霊神は怯む。
「何をどこまで・・・・・・。」
警戒の色を解くことなく、神皇産霊神が尋ねれば「そうですね、この世界が不完全に滅び、不完全に修復されるまで」と答える。
「全ては天之御中主神のお言葉通りですよ。」
国常立尊の魂は《栄枯盛衰の理》の下に置かれ、《創造》と《滅び》を繰り返す。
「滅びの様を積み木に例えられたあたりも、主上は比喩がとてもお上手だ。」
気吹戸主神は皮肉混じりにそう言い、「しかも主上が見ていた未来は今ではないのだから、どこまで先を見越しておられるのか」と苦笑するから、神皇産霊神は青ざめた。
「その子をどうするつもりだい? その子は、最早、元のあの子ではないというのに。」
国常立尊と気吹戸主神が違うように、産霊された姫神は龍の珠姫とは別物だと神皇産霊神は言う。気吹戸主神はその言葉には静かに頷いた。
「ええ、理解しております。この方は龍の珠姫とは別の方。しかし、それでも、根源は元の神と同じ。」
そして、気吹戸主神はゆっくり瞬きをする。
「祭祀と政治、祝事と葬送が同じように、この方は《最初の姫神》であり《最後の姫神》。」
気吹戸主神は、加代子の見知った悲しげな笑みで「我らは天之御中主神の見た宿命からは逃げられませぬ」と苦しげに話した。
「私が《創造》と《滅び》を繰り返す者なら、この方はそのきっかけを与える《変革》と《希望》の女神。」
「変革と希望・・・・・・。」
神皇産霊神が呟くように応じると、気吹戸主神は頷き「ですから、宿命は変えられずとも運命は、或いは変えられるかも」と話す。
「さて、神皇産霊神はお疲れのようですから、我らはそろそろお暇致します。」
「まだ話は終わっていない」という神皇産霊神に、気吹戸主神はにこりとする。
「我が吐息は、祓えの風。」
途端、祭壇に置かれていた丸鏡の表面が、ゆらゆらと虹色に輝き、そこから風が吹き始める。神皇産霊神がそちらに気を取られている合間に、気吹戸主神は祝詞を上げる。
吹かば 禍事 罪 穢れ
在らじ 残らじ 消え果つる
それから「ごゆるりとお休みさいませ」と言うと、短くふっと息を吹きかけた。
「お主、一体、何・・・・・・を・・・・・・?」
神皇産霊神はそう訊ねたが、視界が大きく揺れ、急激な眠気に襲われる。
「気吹・・・・・・戸・・・・・・主・・・・・・。」
神皇産霊神が崩れるようにして眠りに落ちると、気吹戸主神は「恩人の貴女に酷いことをするつもりはないですよ」と告げ、「良き夢を」と告げた。
◇
気吹戸主神に抱えられて連れられて、外に出ると渡殿を進む。
先程まで饒舌だった気吹戸主神はピタリと話すのを止めてしまって、通せんぼするようにして立ち塞がった天狐と相対した。
「これより先は主様のお住まい。貴方とはいえお通しするわけには参りませぬ。」
「全く、天狐は忠狐で困りますね。」
お互いニコリともせず、抑揚のない声色で応対しているものの、睨み合うようにして立ち止まる。
加代子は気吹戸主神と天狐を交互に見る。
「地狐は貴方を主様のように具しているようですが、私には全く別物に見えます。」
見た目も、声色も、根幹も似ていても、自分が雅と大物主神が違ったように、天狐は国常立尊と気吹戸主神に違いを感じているのだろう。
威嚇する天狐から放たれた妖気に、気吹戸主神は不快そうに顔を顰めた。
雅とは異なり、もう一段階淡い色の薄紫色の神威が細く立ち上る。そして、幾つかの魔法陣が展開すると気吹戸主神は「疾風の壁」と告げる。
すると、庭から風が吹き込み天狐から放たれている妖気を遮るようにして風の壁が生まれた。
「私を別物と思うのは、一向に構いませんが、彼女がいる時に干渉してくるのは感心しませんね。」
気吹戸主神が「彼女にお前の妖気は障ります」と言えば、天狐は金色の眼を猫のように縦に細くする。気吹戸主神が再び攻撃の魔法陣を展開したところで、加代子は慌てて止めに入った。
「晴明、止めてッ!!」
途端、ビクリとして天狐の動きが止まり、気吹戸主神も驚いた表情で加代子を見る。
「二人とも邸ごと、吹き飛ばすつもり?」
天狐は何とか抗おうとしているのだろう。しかし、加代子が課した名縛りが上手く破れぬようで苦悶の表情をしている。
「天狐と話させて?」
加代子は天狐を見据えたまま、気吹戸主神にそう言うと、彼はそっと加代子を簀子に下ろし、「風の内ならば構いません」と話した。
目を逸らさぬまま、静々と天狐に近付けば、天狐は苦悶と困惑の入り交じったような表情を浮かべる。
「お願い、大人しくして。」
天狐は「抗えぬ」と判断したのだろう、先程までの殺気を解いた。
「貴女は一体・・・・・・? 主様では無いのになぜ私を縛れるのです?」
「訳が分からぬ」という表情が、加代子の知る天狐と同じだから、加代子はふっと笑みを漏す。そして、一度、振り返り、気吹戸主神を見ると「その辺り、説明するためにも、お部屋を一つ貸してくれないかしら?」と訊ねた。
「・・・・・・分かりました。ご案内致しましょう。」
そう言って、天狐が完全に大人しくなったのを確認すると、今度は気吹戸主神の元に戻り「もう大丈夫」と告げる。
気吹戸主神は少しばかり逡巡した様子だったが、加代子が手を取り「部屋を貸してくれるって」と言うとようやく風を緩めた。
「今のは貴女の《神威》ですか?」
「え? あれは《名》を使った《呪》でしょ?」
「《呪》?」
気吹戸主神が聞きなれぬ言葉だと言わんばかりに訊ねてくるから、今度は加代子がキョトンとしてしまう。
「《呪》、知らない?」
「ええ、残念ながら。無意識に使ってるやもしれませんが、どういうものか教えて頂けませんか?」
「それは良いけど・・・・・・。」
そう口にしてから、自分が過去の出来事に関わっているように思えて、気吹戸主神の手をぎゅっと握る。
「ねえ、これって、いつもの夢、だよね?」
「いつもの夢?」
「そう、雅や晴明が見せてる・・・・・・。」
不意に襲ってきた不安に耐えかねて訊ねれば、気吹戸主神はすうっと目を細め、にっこりとし「詳しくは部屋でお伺いします」と答える。
そして、そこで加代子は愕然として脱力した。
(ああ、これ、いつも見てきた《過去の夢》とは違うんだ。)
気吹戸主神は顔を強ばらせたままの加代子を再び抱き上げる。天狐は二人を空いている部屋へと案内を始めた。




