天野香久山
「おい、これ、どこまで運ばれるんだッ?!」
初めこそ「下ろせ」と暴れていた少彦名命だが、かなりの高度に上がってから「ここで神威は使えませんから、あまり暴れるのはお勧めしませんよ」と雅に言われてから十分あまり。
試しに反撃しようとして、確かに少しも神威が使えないことに気が付くと、少彦名命は大人しく黒狐に咥えられたまま運ばれることにしたのだ。
(だいたい、神威が使えないってどういう事だよ――ッ!)
神威を封じるとなると、この国は注連縄のような物で封じられている事になるが、もしそうだとしたら、それ相応な呪か魔法を使っている事になる。
(もし、その効力範囲がこの「魔縁の国」だとしたら、国常立尊の力は天照大神よりずっと大きいって事か?)
下手をすれば「海」の神として生きる神皇産霊神よりもずっと強大な力を持っている事になる。
そう思い当たると軽々しく「国常立尊のところに行くしかあるまい」と言った数十分前の自分を呪いたくなる。
「ほら、もう少しですよ。あそこに磐座も見えてきましたでしょう?」
そう話す雅の指し示した先には、五、六メートルはあろうかと思える巨石が積まれている磐座が見えた。
(何だ、あれ――。)
そして、ところどころ霧に阻まれているものの、磐座の周りは開けた平原になっており、奇っ怪な文様が施されている。
(大小の丸に、線・・・・・・?)
そして、それが空の星の写しだと気がつくと辺りを見回す。柄杓星、文昌、三台。中心の磐座の位置はちょうど北極星の位置だ。
「地狐、あの丘に降りていただけませんか?」
雅の声に黒狐は階段を降りるようにして、平原を臨める丘に降り立つ。少彦名命はようやく黒狐にうっかり喰われそうになる事態から解放されて「ほう」と安堵の声を漏らした。
「少彦名命、貴方にはこちらを。」
「護り石か?」
「ええ、それがあれば、魔縁の国の者は襲ってきません。」
そして、黒狐に「少彦名命の事をよろしく頼みますね」と話す。
「おい、ここまで一緒に来たのに、まさかここで《待て》とでも言うつもりか?」
「ええ、ここからは神威が使えないどころか、その護り石があっても危険な無法地帯ですからね。」
ニコリと笑う雅の瞳は、さっきまでと違い、荒御魂と化した時と同じように、仄暗く底光りして見えるから、少彦名命は苦々しげな表情になると「《国盗り》の時以来の悪い笑みだな」とぼやいた。
「《国盗り》とはまた懐かしい話をなさいますね。」
須勢理毘売命を娶るのにあたって、素戔嗚尊と約束させられたのは、葦原中国の平定すること、大きな宮殿を作ること、そこに須勢理毘売命を正妻に据えることだった。
関西の小国ながら重要な場所に位置していた伊波の国と、後継者の居ない関東の大国の刺国。
八嶋士奴美神と連合となり高志の国を平定し、五十猛神と同盟を結び紀伊の国も傘下に入れて、海と陸で倭種の国を囲った時には、傍らで補佐をしていた少彦名命でも「袋の鼠だな」と思ったものだ。
(しかも、武力で押さえつけるのではなく、経済の発展と文化の享受で、支配層だけでなく、被支配層まで心酔させてしまうから厄介と来た・・・・・・。)
どっちに転んだら利があるのか、自分たちが提供出来るものは何で、話に乗らなかった時のリスクは何なのか。
そう言った事を政で支配しているものではなく、まずはその国の財布を握っている側近に提案する。そして、自分に付くことの利を、何度か説明してじわじわと洗脳していくのだ。
「それで? 今回は何を企んでるんだ?」
「そうですね、高天原が再戦を挑んできた時には魔縁の方々にも参戦して頂こうと思いまして。」
三千世界とは全く別の、魔縁の者どもが第三の勢力として参戦する事になったなら、確かに大きく戦況は変わろう。
しかし――。
「そんな事したら、お前、心の太柱が崩れるぞ? 三千世界全てを巻き込むつもりか?」
冷ややかに少彦名命が問えば、雅は「もちろん故意に崩すつもりはありませんよ」と答える。そして「加代子さんがそれを望んでませんからね」と付け加えた。
「ですが、崩れたら、その時は仕方ないでしょう?」
(つまり、須勢理が止めなきゃ、崩す気満々って事か・・・・・・。)
その考えについては、言いたい事は山ほどあるものの、言ったところで須勢理毘売命の言葉しか聞き入れないのは変わらぬところだったから、少彦名命は「崩れる前に罔象女神を逃がしす猶予くらいの時間はくれよ」と伝えた。
「承知しました。万が一の時は、そのくらいの猶予は稼いでみましょう。」
そう言って、呪も使わずにふわりと風を生み出すと姿を消す。後には黒狐と少彦名命だけが残された。
◇
一方、その頃、晴明は紫蘭と紫苑と共に加代子が目覚めるのを待っていた。
「御方様は大丈夫でしょうか?」
心配そうにする紫蘭の様子に晴明は目を伏せたまま「大事ございません」と答えた。
「逆鱗紋の呪に干渉されて、深く眠って居られるだけです。」
そうは言うものの膨れ上がった神威を抑え込むのに晴明を中心に三人掛りになっているのは否めず、晴明がペースメーカー役を、紫蘭と紫苑は余剰分を外に逃がすようにして何とか加代子の身を保っている。
「主様が《何とかします》と仰せですから、我らはここで待つより他にないでしょう。」
晴明とて心配でないと言えば嘘になる。
目を覚まし、自分の事を霹靂と呼んだ雅は、罔象女神の神域で会った時とは違い、愛宕神社で力を暴発させた時のような危うさがあった。
(無事に他の八狐や九曜と落ち合えていれば良いのですが・・・・・・。)
うっかりこの地で雅の逆鱗に触れるような者があれば、この地に封じているあらゆる災厄が表に出てもおかしくない状態だ。
と、余所事を考えた途端に膨れ上がる、加代子の力に紫苑が眉根を寄せた。
「晴明、この状態、《何とかします》と言われてはいるが、何とかなるものなのか?」
「分かりません。ですが、あの方が《何とかします》と仰るなら、何とかして下さるとは思いますよ。」
晴明が「そういう方です」と言い切れば、紫苑もそれ以上は言うのを憚って口を閉ざした。それでもまだ納得できかねているのか、不安そうな二人の気配に「主様がお戻りになるまで昔語りをしましょう」と晴明は話す。
「昔語りですか?」
「ええ、貴女方が目を覚ましたのは、気吹戸主神が大岩で幽世を封じる少し前でしたよね?」
「はい、そうです。速佐須良比売が彼が霊を眠らせる故、国常立尊の邸の留守を頼むと仰せになられて・・・・・・。」
「では、この幽世自体、国常立尊の神域の中にあることはご存知ですか?」
「邸ではなく、この幽世自体が神域ですか?」
「いいえ、幽世自体もほんの一部に過ぎません。我らが主の神域はもっとずっと広く、もっとずっと闇深いものですよ。ただ、その中にあって、この地は姫様のための場所。」
それ故、この地は加代子の力で封印が解け、その護りの御神使いとして任を与えられている天狐、紫蘭と紫苑の力でこの地の崩壊は抑え込まれているのだと話す。
「一方、主様の向かわれたのは心星の玉座のある磐座。」
「心星の玉座、ですか・・・・・・?」
「ええ、その場所こそ、我らが主様の力がフルに使える場所。《幽世主宰大神》の名は、主様がその地で我ら八狐や九曜、七星を産霊し、この星を統治なさっていたからこそ付いた名です。」
地に描かれた天の星は魔縁の者の力を増幅し、心星の玉座に坐わす国常立尊は、そのもの達の王であった。
「と、言っても、思い出せたのは姫様の先程の瑠璃の光を浴びたからなんですが。忘却の川の水は思いのほか強力ですね。」
そう言って苦笑する天狐は、瑠璃の光を浴びるまで、自分が何たるかや、あまつさえ、国常立尊が真の主であることも抜け落ちていたのだと話した。
「記憶を司る紫蘭にお会いしたのに、姫様の解呪の魔法がなければ思い出せぬくらいですし。まだ貴女方も思い出せてない事もございましょう?」
そうして晴明がポツリポツリと話し始めたのは、紫蘭と紫苑の産まれる前後の「幽世」について話だ。
その頃、現在「幽世」のあるところは「天野香久山」と呼ばれていて、国常立尊の神域で守られた空間だったのだという。
「主様が降り立ってすぐの頃はこの星は激動期。山は火を噴き、川は濁流りし、海は常に時化ていて、主様の神域以外は何も無い状態でした。」
食物を育てようにも、旱魃で土は荒れ、国常立尊の守る土地の中でのみ安寧に過ごせたのだという。
「初めて私が主様にお会いした時、私はしがない雷の精のひとつに過ぎず、茫漠と空を漂っていたのですが、運悪く主様に捕まったのですよ。」
そうして集まり、産霊された精が増えていくにつれて、この星は統治されていったという。
「主様は我らにその身の神威を分けてくださり、代わりにこの星の安寧を求められた。」
それ故、晴明、いや、霹靂は逆らう者は喰らい、弱者は支配下に置いて管理していったのだという。
「八狐はそれらの精の中でも力強き者に与えられた最高位でした。」
中には艶狐のように産霊された事を厭う者も居たものの、大方は自分の意のままに神威が使える事を喜んだし、天野香久山に居られることを誇りに思っていた。
「あの頃は主様が居て、多少の意見の食い違いはあれど、皆、思い思いに暮らしていたんです。」
しかも霹靂は実験好きの国常立尊が生み出すあれこれが楽しくて、引っ付いて回っていたから、よく色んなところに連れ回された。
空気の圧縮で温度が下がる事が分かったり、燃やす金属で炎の色が変わる事を見つけたり、驚きの毎日で飽きる事はなかったと、晴明は懐かしげに話していたが、不意に表情を曇らせた。
「そうした安寧の日々がすっかり変わってしまったのは、姫様が瀕死の状態でこの星に運び込まれてからでした。」
龍の珠姫の神威を何とか高皇産霊神から取り戻したものの、国常立尊は彼女を救うのに間に合わず禁忌を冒した。そして、変わってしまった。
「変わってしまった?」
「ええ、お会いした頃は地鎮めの神に過ぎなかった主様は、多くの力を持たれ、それら全てを投げ打たれた。」
一つ目は地鎮の力、二つ目は天常立尊の張力の力、三つ目は天之御中主神の千里眼、四つ目は龍の珠姫の歯車の力。
それらを八狐、九曜のみならず、七星、二十八宿に至るまで全ての魔縁の者に自らの身を捧げる代わりに一世一代の大規模な魔法を使ったのだ。
「一世一代の大規模な魔法・・・・・・?」
「ええ、自らを魔縁の者に喰らわせる代わりに、この地に溢れていた魔法で持って、龍の君の玉置きを願われたのです。」
この星の所有権を手放す代わりに、龍の君をこの星と縁付け産霊させる。
残った国常立尊は言わば元神の残滓に過ぎず、あとは消え去るのみだった。
「ですが、私はそれが許せなかった。」
天狐は辛そうな表情になると「主様を魔縁の者としてしまった事が私の罪」と懺悔した。
◇
龍の珠姫の胸元に金色の矢が刺さったかと思うと、次の瞬間、枝葉が伸びていく。
龍の君が吼え、突如として現れた男へ斬り掛かる。
しかし、その刃はその男には届かず、同じように金の矢が龍の君を貫いた。
それはほんの一瞬の出来事――。
東屋に居た国常立尊は複数の魔法陣を起動し、八狐および九曜ら自らの神威を喰らい尽くせと命じる。
それは誰もが国常立尊の神威を欲する中、自殺行為にも等しい命令だった。
代わりに求められたのは龍の君と、この星を縁付けて救済する事。
その命令にいち早く従ったのは産霊された事を厭うていた艶狐だった。
国常立尊の神威の多くを喰らい、邪魔立てした白狐を引き裂き、自らの渦の力と白狐の氷結の力で龍の君を結ぶ。
それに怒った白狐付きの九曜共が、一斉に国常立尊から神威を得て艶狐に跳び掛かる。
あとは艶狐の九曜が同じようにそれに応戦し、国常立尊の神威を次々と削っていく。
しかも、その事を国常立尊は全て受け容れていると言わんばかりに、どの八狐、どの九曜の求めにも応じるようにしてその神威を蝕まれていった。
天狐は、空狐が艶狐に飛び掛ったところでようやく我に返り、地を蹴り、空を蹴り、天に舞い上がると一直線に離れの花園から、母屋の方へと急ぐ。
時じくの香ぐの木の実――。
あれがあれば、もしくは国常立尊も助けられるかもしれない。
しかし、いざ母屋の前に着いてみれば、結界の綻びから勢いよく瘴気を孕んだ風が吹き荒れていて、いつもは散る事のない花橘の花弁が乱れ散り、時じくの香ぐの木の実のほとんどが黒く変色し始めていた。
「天狐ッ! 結界が破れたが、国常立尊は如何したッ?! 」
離れの庭の方を見れば、珠姫の神威を糧にした神籬が国常立尊の神域を巻き込みながら成長し、ドーム状に庇護されていた結界が崩れていく。
天狐には為す術もなくて、途方に暮れ、神皇産霊神に縋るようにして「主様をお助け下さい」と悲痛な声でひと鳴きした。
《同胞共が主様の神威を次々と奪っております。》
「なぜそのような・・・・・・。いや、話は後だ。時じくの香ぐの木の実はないのかい?」
《ございましたが、今は瘴気に当てられて黒く変色しております。》
「それは私が何とかしよう。まずは結界の修復だ。手伝っておくれ。」
天狐は二つ返事で了承すると、神皇産霊神を背に乗せて上まで昇る。神皇産霊神は神威を使って瘴気を祓うと、海を操り、波を壁とし、綻びた結界を補った。
「時じくの香ぐの木は、そう柔な木じゃない。内側の方に残っている若い実がないか、棘に気を付けて探しておくれ。」
そうしてあれこれ探していると、葉の下に辛うじて、まだ青い小さな実が残っているのを見つける。
《ございましたが、まだ未熟にございます。》
「構わない。」
そう言うと神皇産霊神は呪を唱え、青い実の成長を促し、黄色く熟させる。
「さあ、これでいい。次はお前の主の元へ連れてっておくれ。」
その言葉に天狐は「御意」と短く答えると、他の者の争いに巻き込まれぬように気をつけて翔び、国常立尊の元へと急いだ。
刻々と空の様子は変わっていく。
天狐が再び元の花園近くに着いた頃には、神籬を中心にして、まるで三つ編みをするかのように瑠璃色の光と共に国常立尊の薄緑色の光が立ち上り、心の太柱を形成し始めている。
(主様、もう少し・・・・・・、あと、もう少しだけ・・・・・・ッ。)
そして、気を揉みながら辿り着いた時には、国常立尊の姿はかなり透けていて、すぐにかき消えてしまいそうに見えた。
《主様――ッ!!》
吼えるようにして、周りに叢らんとする悪鬼共を蹴散らしながら駆けていく。そして、ようやく傷だらけの他の八狐に護られている国常立尊の元にたどり着くと、神皇産霊神をその背から下ろした。
《天狐、戻ったかッ!》
一番内側で風の壁を作り、辺りに迫っていた瘴気を吹き祓っていた風狐は国常立尊が「二つの卵を割るように仰っていた」と告げる。
《それを高皇産霊神に渡してはならぬと厳命なさった。》
神皇産霊神はそれを聞くと「天狐、その卵とやらをお見せ」と話した。
《ですが・・・・・・。》
「お前の主を産霊し直すにも、あれでは神威が足らぬ。」
それを聞くと天狐は意を決して、国常立尊に託された二つの卵を神皇産霊神に見せた。
《いかがでしょうか?》
「確かにこれが高皇産霊神に渡ったら恐ろしい事になるね。だが、これはあの子には使えない。あの子が《新たな神》になってしまう。」
《では、主様は消えてしまうのですか?》
「いいや、そうはさせないッ! あの子は絶対に産霊し直すよ、そういう約束だからね。」
その姿はまるで緊急オペを決めた女医か何かのようで、天狐からは雷の力を、風狐からは風の力を分けるように言い、時じくの香ぐの木の実の力を使って産霊し直そうとした。
だが、そう上手くは行かなかった。