夏空と吸血鬼
二作目となります。また書きたい内容を好き勝手に書かせていただきました。
1
まるで薄めた絵の具で塗ったような青い空だ。所々に空を切り抜くように雲が浮かんで空白を作っている。気温は夏日。先程まで降っていた雨のために、ペトリコールが空気に混ざって、夏なんだと感じることができた。手に持った赤い傘を杖のようにして歩いていく。歩道橋を渡れば住宅街に出て、そうすれば直ぐに家に辿り着ける。歩道橋の半分まで来た所で、欄干に肘を置き、遠くの深緑の山々を眺めた。まだそちらは雨が降っているようで、うっすらとライトグレーの雲が見える。その景色は、何処か中国の奥深く、幽邃の世界を連想させた。絵か写真にして残したかったが、生憎、鞄に入ってるのは財布と自動販売機で購入したミネラルウォーターしかなかった。携帯電話は家の居間か何処かに転がっている筈だ。
氷墨月香は高校三年の夏休みを迎えていた。しかし、もう殆ど学校に通っていない彼女にとって、夏休みという概念やプレミア感は薄かった。いつから通っていないのだろう、と思い返せば、六月の終わりからだと記憶している。何だか急に学校、というより人間関係が面倒になったのだ。あまり広くない彼女の人間関係だったが、親友の退学を期に更に狭くなった。彼女の周囲は、親友が細い糸で繋ぎ止めてくれていただけだったのだ。だから、学校に行かなくても、誰も心配なんかしない。現に誰からも連絡はない。
住宅街を歩いて、何度か角を曲がると家だった。彼女は、あまり家にいない母親とのふたり暮らしだった。厳格な父親は、数年前の夏に溺れた子供を救助しようとして一緒に死んだ。彼女からしたら馬鹿みたいな死に方だった。他人のために死ぬなんて有り得ない。そんなことを考えていると、もう自宅の前だ。やたらと雑草が生い茂り、中でも悪茄子の花が目立った。彼女が自宅へ入ろうとした時、後ろから声が聞こえた。
「ねぇ、お姉さん。お家に入れて」
彼女はびっくりした。唐突な子供の声というのは無駄にびっくりさせてくる。
「え、誰? 君」
「僕はスイ。吸血鬼だよ」
「吸血鬼?」
彼女はその言葉に興味を持ったので、「いいよ、家入って。その代わり、麦茶くらいしか出せないよ?」と言って、自称吸血鬼を招き入れた。
自称吸血鬼は「お邪魔します」と言って、しっかり脱いだ靴を揃えた。礼儀正しい点は好感を持てた。
「じゃ、ここで待っててね。今、麦茶とお菓子を持ってくるよ」
「はーい」
彼女は急いで準備をして戻り、ひとまず、彼の顔を凝視した。
「どうしたの?」
吸血鬼は彼女の用意したどら焼きを食べている。その彼の頬は確かに灰色に見えた。眼も落ち窪んでいるように見える。髪色も金に近い。口元に注目したが、牙があるのかはわからなかった。
「君は本当に吸血鬼なの?」
彼女が訊ねると、彼は少し誇らしげに答えた。
「勿論、本物さ。僕たちはルーマニアの名門一族なんだぜ。それで今回は日本に越してきたんだ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「追い出されたの?」
「……! 何で知ってるんだ? さては、お前、モンリグト家の回し者だな?」
彼は軽くパニックになって叫ぶ。
「違うよ。何? モンリグト家って」
「くそっ、嵌められたのか」
彼はどっかりと座ってから言った。
「まぁ、いいよ。どうせ聞かれても問題ないから。モンリグト家ってのは、吸血鬼勢力で一番大きいグループだ。僕たちのサンリグト家は、立場がとても弱い。で、最近のルーマニアでは、少数派のサンリグト家の放逐を目指して、弾圧を始めたんだ。僕らも危険に感じたから、早々に移住したんだ」
「サンリグトとモンリグトは何が違うの?」
「んー、規模、財産、それから……」
彼は腕を組んで考える。
「モンリグト家は太陽が苦手なんだ。要するに一般的な吸血鬼の想像通りなわけ。でも、僕ら、サンリグト家は月光が苦手なんだ。だからね、昼に行動できる僕らにモンリグトは嫉妬してるんだよ。人間との関係も、サンリグト家の方が安定していたしね」
「君も血を吸うの?」
「吸うよ。でも絶対じゃない。好みによるよ」
「へぇ。私のも吸う?」
「いや、僕、血は好きじゃない。不味いから」
吸血鬼にあるまじき発言をするスイの表情が面白かった。渋柿か脳味噌のような顔だった。
「ちょっと、吸ってもらいたかったんだけどな」
「何だよ、変な人だな。それに人工の血しか子供は飲めないんだよ。生き物が持ってる血の汚染がどうとかこうとか」
「色々と面倒なんだね。それで、君はどうしてこんな所にいるの? 家は?」
「知らないよ。僕はパパと喧嘩したんだ。戻る気はないよ」
「それじゃあ、どうするの?」
「どうするって……」
彼は困惑した顔をして言った。恐らく行き当たりばったりでここまで来たのだろう。その証拠に彼は何も持っていなかった。
「ここにいてもいいよ?」
月香は言った。彼女は単純な好奇心と暇潰しのつもりだった。どうせ母親は滅多に帰って来ない。長過ぎる夏の一幕を飾る手に考え倦んでいたのだ。
「いいの?」
「いいよ。どうせ暇だし」
「それなら、ここにいるよ」
彼の深い青を湛えた眼がキラキラと光る。
「じゃあ、まずは家の中を案内するよ」
彼女がスイに色々教えていると、玄関の方で音がした。スイに待つように言い、月香が玄関の戸を開けると男が立っていた。
「笠城さん! 数ヶ月振りですね」
「そうだね、半年振りくらいかな。この前のメールにあったけど、まだニートしてるの?」
「その表現はやめて下さいよ、人聞きが悪い……」
笠城湊は世界各国を旅している若者(スケールは壮大だが、実質、彼もニート)で、日本には時々しか帰らない。彼が海外で何をやっているのかは誰も知らない。ちなみに、彼は月香の先輩にあたる。
「今回は何処にいたんですか?」
「今回はね、ルーマニアだよ」
変な偶然だったが、気にすることはなかった。
「ルーマニア?」
奥から高い声が聞こえた。祖国が会話に出てきたためか、スイが飛び出して来た。
「誰? 子供?」
ひとまず、月香は笠城の背中に蹴りを入れた。
2
「吸血鬼か、奇遇だね。僕もルーマニアで吸血鬼に関する仕事をしていたんだ」
「え、笠城さん、仕事してたんですね……」
笠城は月香の言葉をスルーして続ける。
「僕はサンリグト家側にいたんだけど……、ハルトマン伯とかわかるかい?」
「うん。何度かパーティーに行ったよ。ハルトマンのおじさんは元気だった?」
「……言いにくいけど、現在のサンリグトの勢力は絶望的だ。モンリグト家側の圧力が強すぎて、サンリグト家は太刀打ちできないんだ。君たちのクローヴ家は早めに脱出したからなんだけど、他のサンリグト勢力は……」
「……僕らはどうなるの?」
「今はどうにもならないよ。ひとまず、この国まで追っ手は来ないだろう。連中も行動制限がある。こう言うのも何だが、まぁ、あまり深く考えるな。ここにいれば、このニートのお姉さんが遊んでくれるからな」
無言で睨んだが、笠城はこちらを見もしなかった。
「笠城さんはこれからどうするんですか?」
「ひとまず、スイ君の父親の所へ行く。クローヴ家も少なからず関係があったからね。あ、そうだ、月香、ちょっと話がある」
笠城はスイに少し遊んでくるように言った。彼は煙草を取り出して火を点けた。
「さて、君には重荷かもしれないが、よろしく頼むぞ」
「うん。言葉も通じるし、大丈夫だよ」
「そうだな。吸血鬼は学習能力が人間より遥かに高いからな」
彼は少し笑って、真顔に戻ってから言った。
「……あまり考えたくないんだが、モンリグト家は執念深いんだ。こちらに渡って来ている可能性は十分ある」
「何で? もう本国にはいないんだから、追う必要がないでしょう?」
「……アメリカに逃げたサンリグト家の一家が惨殺された。同じようにアルゼンチンへ逃げた家もだ。正直なところ、スイの家族の安否はまったくと言っていいほど保証できない」
「警察とかは?」
「ダメだ。本来、吸血鬼の存在はルーマニアの門外不出の情報だ。まぁ、言ったところで、吸血鬼なんて信じてくれないさ」
彼は煙草を人差し指と中指で挟んで、煙を吐く。
「だから、君が頼りなんだ。彼が家出した理由は聞いたか?」
「父親と喧嘩したって」
「父親は演じたんだ。両親はスイを遠い所に逃がそうとしたが泣き喚いて拒んだ。家族ってのは拠り所だからな、仕方ないことだ。だから、父親は彼を怒らせ、家出するように仕向けた。いくらモンリグトが執念深くとも、単独行動してるガキひとりなんて追えないからな」
彼はまだ長い煙草を指から離して灰皿に押し付けた。
「さて、僕は行かなくちゃいけない。すまない、よろしく頼む」
「わかった。任せてよ」
月香は好奇心と不安が混合した心で言った。長過ぎる夏が短くなる予感がした。
3
スイは庭にいた。氷墨家の庭は決して広くはないが緑が豊かだった。単純に手入れをサボっている、という言い方も出来る。彼は高く成長した金魚草の葉を揺らしていた。
「お腹空いてない?」
月香はカップラーメンをスイと食べようと持ってきていた。彼は「うん」と言うと縁側に座った。カップラーメンを渡すと、最初は怪訝そうに見ていたが、一口食べて笑顔になった。
「何これ、美味しい!」
「君の国にはないの?」
「わかんないけど、僕たちは食べてなかった」
彼は巧く啜れなかったが、月香の食べている姿を見た後は普通に啜っていた。学習能力の高さを見せつけられた感じだった。
「美味しかったぁ」
彼はスープまで飲み干すと、縁側で仰向けになった。
「この国は綺麗だね」
彼は言った。
「ルーマニアも綺麗だけど、また別の綺麗さがあるんだ。僕はこの国の方が好きだな」
「多分、私もルーマニアへ渡ったら、そっちが好きになるよ」
「そうかなぁ」
「何処か、散歩でも行く?」
スイが頷いたので、クローゼットから帽子を引っ張り出して、月香の中学生頃の服を着せた。一応、変装のつもりだ。
「何か新鮮だなぁ。凄く軽いね」
彼は一回転したりジャンプしたりと、ラフな服装が気に入ったようだ。彼がもともと着ていた長袖は、触ってみるとずっしりとしていた。やはり、伝統のある家である以上、着るものは一流なのだろう。
ふたりは外に出て背伸びをした。昼間の住宅街は静かで、鳥の啼く声が幽かに聞こえる程度だった。ふたり分の足音がやけに大きく聞こえて、何故か生きているという実感があった。歩道橋を渡って山の方へ歩く。そちらには彼女が幼い頃から知っている神社がある。段々と蝉の声が煩くなり、夏の様相を呈し始めた。その喧騒の中を、ふたりは雨に打たれるようにして歩いた。もう汗が流れるくらいには暑い。月香は自動販売機を見つけると、スイを呼んで「休憩しよ」と言った。月香は緑茶を、スイは珈琲を選んだ。
「大人だね」
「違うよ。環境のせいだよ」
「それもそうか」
道路脇のコンクリートの壁に背を凭れ掛かり、緑茶を半分ほど消費して、空を見た。夏の空気が空を染めて、青を一層、青くしていた。蝉時雨が断続的に続いて、彼女は夏の魔法に魅せられていた。空気を吸うと、熱い。喉の奥が焦がされるような感覚に酔いしれた。スイはというと、道路脇の待宵草の花を眺めていた。月香はスイの背中を優しく叩いて、「行こう」と促した。夏の空気を手で掻き分けて進んでいく。神社の鳥居が見えて、スイが走り出す。月香も負けじと走った。鳥居の向こうの階も走った。社の前に着くと、別世界のような雰囲気が広がっていた。樹々の揺れる音、大きな鳥の声、ふたりの足音、心臓の鼓動。あまりに鮮明で、立ち眩みそうなほど綺麗な世界。スイも同じだろうか、彼も胸を押さえて泣いていた。ふたりは神様の家で透明な夏の空気に包まれながら、泣いたのだった。
「吸血鬼っていつからいるの?」
ふたりは日陰で話をしていた。
「昔からだよ。ヴラドって王様がいて、彼は国を守った英雄でね、いつしか彼を信奉する人々が出てきたんだ。それで魔術でヴラド王に近付こうとした結果が僕たちさ。長い時間の中で、昼と夜に分かれた僕たちは、互いを忌み嫌って喧嘩し始めた。僕たちは家族の筈なのに、変だよね」
「……家族かぁ。スイのお父さんとお母さんは優しい?」
彼は頷く。
「そっか。私のお母さんって嫌な人なんだ。お父さんが死ぬ前から、たくさんの男の人と付き合っててね、うん、私、知ってたんだよな。お母さんが不倫してたことも、お父さんがそれを知ってたことも。お父さんが死んだ後は、もう自由だもんね、お母さんはずっと男の所にいるの。私のことなんてどうでもいいみたいにさ」
悲しくもないのに涙が零れる。灰色の石畳に黒く丸い染みが出来た。スイが優しく背中を撫でてくれた。彼女もお返しに、彼の背中を撫でてあげた。樹々の間から、透明な月が青に浮かんでいた。彼女は「帰ろう」と言った。ふたりはお願い事をして、ゆっくりと夏の空気を押しながら帰った。
4
笠城からの電話は、予想されていた内容だったが、それでも響くものがあった。スイの両親は、モンリグト側の「人間」によって殺された。犯人は既に捕らえたようだが、それでも帰って来ないものは帰って来ない。笠城は「後でそっちに行く」と言って電話を切った。
月香が部屋に戻ると、スイが泣きそうな顔で立っていた。
「……僕、知ってるよ」
彼は頭がいい。このタイミングでの電話で、全てを悟ったようだった。彼女は、そっと、彼を抱き締めた。腕の中から彼の嗚咽が染み出して、彼女の神経を伝う。これから、彼はどうするのだろう。彼女の心は不安で満ちていた。
笠城は午後七時頃にやって来た。この時間では、スイはもう外出は出来ない。それに今夜は酷く白い月が顔を出している。
「すまなかった」
笠城はまず、そう言った。
「守れなかった。本当にすまない」
「大丈夫」
スイが震える声で言う。悲しいだろうし、きっと、とても怖いだろう。何で不死身じゃないんだろう、と彼は言っていた。
「……ねぇ、僕は遠くに行きたい」
彼はそう言った。
「遠く?」
「そう、遠く。海が見たいな」
「わかった。明日、僕の車で行こう。海を見に行こう」
笠城は赤い痕の残った顔で言った。
月香は縁側に行って、月を見た。青白い円が髑髏のように見えた。スイが毛布を被って、縁側に来た。彼女はスイを抱き締めた。毛布は雨の去った後のようになっていた。
夕飯は素麺で、笠城が作ってくれた。彼の料理の腕は、彼について月香が唯一尊敬している点であった。スイは素麺を初めて見たようで、「髪の毛?」と訊ねてきたことが可愛らしかった。
「明日は朝から出掛けるからな。スイ、早く寝ろよ」
スイはおかずを頬張りながら頷く。箸の持ち方も、長年使ってきたかのように上達していたが、笠城曰く「月香の変な持ち方とそっくり同じ」とのことだった。余計なお世話だ。
食後、デザートとして桃を剥いて出すと、美味しそうに食べた。笠城が桃について教えているようで、スイは真剣に聞いていた。
桃を食べた後、スイは月香と風呂に入った。
「モンリグト家の吸血鬼は、こんなに強い光には耐えられないんだ。笑っちゃうよね」
彼は風呂場の照明を指差して言った。仇敵モンリグト家の話が出来るのも、少しは落ち着いたからということだろうか。それとも、ただ、紛らせようとしているだけか。月香は「太陽の下なんて瞬殺だね」と笑ってみせた。その後、スイは午後十時には眠りについた。
月香が縁側に行くと、笠城が煙草を吸っていた。「頂戴」と彼女が言うと、彼は「仮にも高校生だろ?」と窘めた。月が綺麗だったが、虚しくもあった。夜空にぽっかり空いた白い穴は、さっきよりも輝いていた。髑髏か魂のように白いそれは寂しさを象徴しているように光って、満たされない脱け殻を誘っていた。
5
翌朝、寝惚け眼のスイを笠城が車に運んだ。夏の最も透明な時間は、まだ静まり返って、昨日までの世界と違うように思えた。月香が助手席に乗り込み、笠城が運転を担う。目的地は海。スイは後部座席で寝息を立てていたが、彼女らの声で眼を醒ました。
「おはよう」
「……おはよう」
まだ寝惚けているスイに珈琲を渡す。それは笠城がブレンドしたもので、スイは一口飲んで「美味しい」と言った後、再び眠ってしまった。笠城が煙草に火を点ける。「頂戴」と月香が言うと、「デジャヴ」と彼は言った。彼の煙草が消費された後、車は発進した。行き先の海は彼任せである。途中でコンビニに寄って、サンドイッチを買った。レタスが多めの商品だった。
「どのくらいかかるの?」
「二時間は必要かな」
彼が煙草を吸いながら答える。スイは起きたばっかりで、珈琲を持ったまま、窓の外を見ていた。窓の外に広がるのは、深緑の山々。
「こんな深い緑に人工の道が通ってるなんて、アンバランスで素敵だと思わない?」
スイはそう言った。彼は何処か遠く、死んだような眼をしていた。笠城が窓を開けると、朝の冷たい風が入ってきて、スイは顔をしかめた。
「どうだ? 眼が醒めたか?」
「ばっちりね。お陰で景色が綺麗だ」
スイが微笑んで言う。死んでいた眼は綺麗な深い青に戻っていた。彼の柔らかい髪が風に靡く。君も不公平に綺麗だよ、と月香は思ったが口には出さなかった。
「なぁ、スイ」
笠城が少し優しい声で言う。
「昨日の夜、サンリグト家の生き残りから連絡があった。ルーマニア本国のハノーベル家(モンリグト側)が和平交渉を提案してきたらしい。内容は、全サンリグト家の保護、そして、償い、だそうだ。ハノーベル家はモンリグト側でもかなり発言力のある家だからな、恐らく実行されるとは思うが」
「何でハノーベルのは和平交渉なんて持ち掛けたの? メリットがまったくわからない」
「どうやら生き残りのサンリグト家が、ある軍事力豊かな国と仲が良いらしくてな。ルーマニア政府に直接的な圧力をかけたらしい」
「バカだね。誰も納得は出来ない終わり方になるじゃないか。和平交渉を結んだって、消えたものは帰って来ないんだし」
「まぁ、和平交渉はそっちの勝手だ。僕がスイに訊きたいのは、これからのことだ」
「?」
「いつまでも、こっちにいられるわけじゃないだろ? いずれは帰らなくちゃいけない」
「……やだ」
スイの消えそうな声が車内に揺れる。
「……そうか。なら、そう連絡しておくよ」
笠城もこれっきり、それに関係する話はしなくなって、次に口を開いた時には「そろそろ、海だぞ」と言った。
「綺麗だね」
スイが言う。窓の外には遠くまで青く、空と交ざり合ったような海が広がっている。砂浜などはなく、崖のようになっているエリアが続く海岸線を車はひたすら走った。太陽はまだ低い位置で光っている。次第に砂浜が広がるエリアに入ると、人が急に増え、大抵が浮き輪やパラソルを抱えていた。スイはそれらを見る度に「あれは何?」と月香に訊ねた。特に、鼻の両穴にじゃがりこを突っ込んだ状態で自転車で駆け抜けていった少年を見た時は、「あれは何? 何の罰?」と可哀想なものを見るように訊ねたが、笠城が「夏の風物詩さ」と適当なことを言うと、「変な国だな」と笑っていた。
車を適当な所に駐車して外へ出ると、夏、海の匂いが流れてきた。スイは大きく息を吸い込んで、「これが海か」と言った。眼が輝いているのがすぐにわかった。笠城に促されて、三人で写真を撮った。「変な顔」とスイは笑っていた。
「ひとまず、早いけど昼飯だな」
笠城がそう提案したので、三人は海の家まで歩いた。スイは焼きそばを、月香はカレーを、笠城はビールとラーメンを頼んだ。まだ、時間が早いためか、海の家は空いていた。店のおばちゃんが「息子さん? 綺麗な子だね」と言うので、月香は「息子じゃありません」と言おうとしたが、それより先に「そうでしょう、こんな美少年は他にいませんよ」笠城に言われてしまった。スイも満更でもない顔をして彼女を見た。食後は、笠城が「磯の方でも見に行こう」と言うので、そちらへ歩いた。
「こういう海水が溜まった窪みをタイドプールって言うんだ。見てみると面白いぞ、海草や岩の陰に生き物が潜んでいるんだ」
スイは屈んで、タイドプールを凝視していたが、すぐに指を伸ばして「これ何?」と言った。
彼の指の先には赤いヒトデがいた。
「こいつはヒトデって生き物なんだ」
「星みたいだね」
「そうだろ? クリスマスツリーのてっぺんに飾っても違和感がないだろ?」
「……それは怒られると思うな」
「冗談さ。触ってみるか?」
スイが頷くと、笠城はヒトデを渡した。最初は恐る恐る触っていたが、慣れると指で押したり、抓ってみたり、振り回したりしていた。「生き物だからね、それ」と軽く窘めると、「あ、それもそうか」と言って、優しく水に戻した。彼は次から次に、「これは何?」と訊ねた。その度に笠城が「それはウニだよ」「それはヒザラガイ」「それはハゼだな」と答えていた。微笑ましい風景で、さっきの「親子」というのも悪くないなと思ってしまった。
スイが「海に入りたい」と言うので、さっきの海の家で水着を買った。ふたりが着替えている間に、笠城は「浮き輪を持ってくるよ」と言って車に戻った。
「楽しい?」
「うん。今までで一番」
着替えて外に出ると笠城が待っていた。
「よく似合ってるじゃないか。……おや、待てよ? 月香、お前、少し、ふと……」
急いで笠城の口を塞ぐ。
「成長しただけ。いいね? それより、笠城さん、水着は?」
「最初から着てるよ」
彼は大きな浮き輪とシュノーケルを二個を持ってきていた。
「生憎、パラソルは持ってないから、僕たちは海の上に浮きっぱなしになる運命だぞ」
笠城がそう言うと、スイは「最高だよ」と答えた。
海に入ると、ひんやりとしていて、足がつかなくなると急に恐怖が襲ってくる。浮き輪があるとはいえ、水面下に何がいるのかわからないというのは非常に怖い。しかし、スイは躊躇せず潜ったり浮いたりを繰り返している。
「怖くないの?」
「何が怖いの?」
彼は平然とそう答えた。その彼の側では、笠城が深く潜っては「見てくれ、でっかいカニだ」なんて言っている。スイよりこの男の方が楽しんでいるようだった。陽はすっかり南中していた。月香は日焼け止めを塗っていないことに気付いたが、見せる相手もいないや、と気に留めなかった。ふと、吸血鬼も日焼けするのだろうか、と気になったが、スイが潜ったり沈んだりしているので、訊ねるのが面倒になり噛み殺した。
時間がどんどん過ぎて、身体が冷えた頃、陸へ戻った。熱い砂が気持ちよかった。スイはまだ元気に燥いでいたが、笠城はアルコールの入った身体で長時間泳いでいたためか、唇が変色して、見るからに窶れていた。三人は着替えた後、夕方まで眠ることにした。砂浜に持ってきたシートを敷いて、三人、川の字になった。
6
笠城に起こされた頃には、すっかり陽は傾いていた。肌が焼けてヒリヒリしたが、あまり気にならなかった。三人は帰宅する準備をして、車を発進させた。再び数時間掛けて氷墨家に戻った。着いた頃には、サンリグトを殺す月の光が静かに降り注いでいたため、月香と笠城は慎重にスイを運んだ。スイは家に入ると眼を醒まして、「おはよう」と言った。そして、再び眠った。
笠城は家に入ってくると月香に言った。
「一応、スイの意思は伝えたんだが……、どうにも向こうの生き残りの家が引き渡せって言うんだ」
「どうして?」
「どうやら、話を聞く限り、生き残りの家には子供がいないらしくて、本人たちも高齢なんだそうだ。で、生き残っているサンリグトの子供を探すと、スイぐらいしかいないらしく、スイが帰って来ないと、サンリグトの血筋は絶えたとみなされるらしい」
「絶えるとどうなるの?」
「サンリグト家の財産、土地は没収だよな。恐らく、モンリグト側もこのことを読んで和平交渉を提案したんだろう」
「狡賢いのね」
「ひとまず、スイに事情を話して、再度、確認しないと」
彼がスイの寝ている部屋を開けると同時に、玄関から音が聞こえた。
「スイ?」
ふたりは急いで外へ出た。
「スイ!」
笠城が大声で叫ぶ。
「ここだよ」
暗闇の中、月に照らされたスイが立っていた。身体から蒸気のようなものが噴き出している。ふたりは彼のもとへ駆け寄った。
「部屋に戻れ、死ぬぞ!」
「やだ。話が聞こえたんだ。今更、僕が何を言おうと、連中は必ず僕を連れに来る。連中は恐らくふたりに危害を加える。それに、僕はサンリグト存続のために生きてるわけじゃない」
スイの身体が火傷したように爛れていく。
「ずっと、ここで暮らしたかったなぁ……」
スイがぽつりと呟く。
「まだ遅くないよ、早くこっちへ!」
月香も叫ぶ。
「いや、もう遅いよ。全身の肌が爛れているだろ? もう、皮膚呼吸が出来ないからね。遅かれ早かれ、どの道、死ぬんだよ」
月香が腕を引っ張ると、簡単に取れてしまった。
「うわっ」
取れた腕はすぐに砂のように風化していく。
「もう、お仕舞いだね。火傷の後は、灰になって消えるんだ。場所が要らないから便利だろ?」
彼は笑う。悲しみや苦しみ、怒り、喜びのどれも存在しない、全てを悟った笑み。彼の身体はどんどん灰になっていく。笠城が壺のようなものを持ち出して来た。
「せめて、灰だけでも集めさせて貰うぞ」
「いいよ。それぐらいしか残せないけど」
足の灰化が始まり、彼が崩れていく。
「月香、笠城。ありがとう。僕は、僕として死ぬよ。ふたりは僕の第二の親だ。短い間だったけど、忘れられない思い出になっただろ? 笠城、いろいろ教えてくれてありがとう。素麺、美味しかったよ」
彼は月香の方を向いた。この時点で、彼の顔はもう輪郭がなくなり始めていた。
「月香、本当にありがとう。このまま一緒に暮らしたかったよ。だけど、ごめんね。月香は月香なりの悩みがあると思うけど、それでも幸せになってくれよ。そうでもしないと、僕が報われないじゃないか」
月香は頷いて、「ありがとう」と言った。彼の口、鼻が灰になった。そして、眼も灰になって、遂に全てが消えた。残された灰の集められる限りは笠城が壺に収めた。
本当に残されたものは、灰だけだった。
7
今日も空が青い。
例の生き残りからの連絡は、笠城が事情を伝えて以降、途絶えた。
「ほら、写真」
笠城が一枚の写真を渡してきた。それは、あの日、海に着いた時に撮った写真。スイが「変な顔」と笑っていた写真。その背景には、短くも鮮明な青い夏が広がっていた。