魚眼レンズの向こう
「どう?終わった?」
黒板を消し終わった桐島は未だ私がにらめっこしている日誌をひょっこりと覗き込んだ。
「まだ。男子って今日体育何したの?」
「体育館でバスケ。女子は?」
「テニス」
科目名の隣の欄に“バスケ/テニス”と書き加えた。そして、私の手はそこで止まった。最後に今日の感想や反省を書く欄があるのだけど、日直に当たる度に私の手はそこで止まる。正直、何を書けばいいのか。だって普通に学校生活を送っていく上で、特筆すべき何かが起こるわけでもない。
「神崎って、キレーな字してるよなぁ」
私の前の席に座った彼は背凭れの部分に頬杖をついて、ボンヤリと私が書いた日誌を眺めていた。
「あと真面目」
日誌とかテキトーでいいのに。彼はそう言っておかしそうに目尻を下げて笑った。
この彼特有の優しい笑い方は、けっこう好きだ。
「そうでもないよ。後でアレが足りないコレが足りないって言われるのが面倒なだけ」
「あぁ、なるほど」
真面目だ、と彼はさっきみたいにまた、目尻を下げた。
「…今日、何か書く事ある?」
トントンと未だ空欄のそこを指差すと彼は納得したように「あー」と気の抜けた声を出して、暫く黙った。
「今日も何の進展もありませんでした、かな」
「進展?何の?」
「神崎には内緒」
「…何それ」
「それより早く日誌書けよー。俺帰れない」
それでも律儀に待ってくれるんだなぁと思って、渋々日誌と向き合う。前回一緒に日直をやった男子は黒板をテキトーにパパッと消すと部活へ消えていった。
さて、今日の出来事を箇条書きにしてその後感想でも書けばそれっぽくなるかと妥協して、シャープペンを数回ノックする。
「….神崎ってさぁ好きなやつ、いる?」
出したばかりのシャー芯がポキッと折れた。
「あ、動揺した」
「…してない。あといない」
「えー本当かなぁ」
ニヤニヤと顔を緩めて顔を覗き込んでくる彼の顔をグイッと押し返した。グキッと変な音が鳴ったけど、たぶん私のせいじゃない。
「いった‼︎」と悶絶する彼に知るかと返すと、彼は無事を確認する為に首をクルリと回した。あ、大丈夫そう。
「んー、じゃあ好きなタイプは?」
「……何なのよ、急に」
「別にぃー、暇つぶし。だって神崎が日誌書くの遅いから俺帰れないんだもん」
早く早くと急かす彼を一旦視界から外して少し考える。
「んー、自分とは違う人、かな」
彼は頭上にハテナマークを浮かべた。
「なんて言えばいいのかちょっと分かんないけど、なんかこう…物事を自分とは違う視点で見てる人っていうか、一緒にいると新しい発見がでいるというか…。まぁ、そんな人」
もちろん、一緒の視点から同じ物を共有できる人もそれはそれで楽しいとは思うけど、どうせ一緒にいるなら少しだけ違う物を共有して自分を少しだけ変えてくれる人がいい。
たぶん伝わってないだろうなぁと思いながら彼に視線を移す。
「神崎って、恋バナ苦手?」
「あー、うん。得意じゃない。好きなタイプとかわりとフィーリングなところあるから、説明するの難しい」
「やっぱり。うん、でも、なんか神崎っぽい」
そう言って彼はふんわりと笑った。
あー、なんか、うん。さっさと日誌書こう。何を言っても私にダメージがきそうな気がして、日誌の欄を埋めていく。半分くらいまで埋めたところで筆記用具をケースにしまう。
「あ、終わった?」と呑気な聞いてくる彼と並んで職員室に日誌を届けた。
「んじゃ、帰るか」
何となく並んで校門まで2人で歩く。
「そういえば、桐島は?いないの、好きなやつ」
「えー、今聞いちゃう?」
「だって私だけ不公平」
「じゃあ特別に好きなタイプを教えてやろう」
彼は彼特有のあの優しい笑い方をして言った。
「他のやつには内緒な」
いたずらっ子みたいにニッと笑って彼は人差し指を自身の口元に当てた。それがまた様になっていて、甘い目眩がする。
「俺の好きなタイプは、字が綺麗で変なところ真面目で、恋バナが苦手でちょっと鈍い子、かな」
「………あー、物好きだね」
「自分で言っちゃうんだ」
「それって、告白?」
「んー、うん」
何だそれ。
何か、ズルイ。
「返事、考えといて」
妙に耳に残る言葉を残して、彼は帰っていった。その背中を見ながら、少し思う。
彼から見る私はどんな風なんだろう。
彼が見てる世界はどんな感じなんだろう。
私と変わりないだろうか。
それとも…。
未だ胸に残るふわふわした感情と彼の声は暫く私から離れることはなかった。




