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2024/08/18『海』『憤怒』『毒』

「――なぁんもできねぇなぁ、このクズが! 誰かこの紙クズをゴミ捨て場に捨ててこいよ!」

 言葉と同時に、肩への衝撃。足元が揺らいで、わたしはふらり、数歩後ずさる。目の前に舞うのは、真っ白な――いや、わたしが涙を流して倒れそうになりながらも、ようやく作り上げた書類で。

 蛍光灯の光に照らされながら、たった今白紙になったその紙はエアコンの風に流されながら、ひらり、ひらり、落ちていく。

 ああ、綺麗だ。

 そして、残酷だ。

「……失礼します」

 小さく呟いて、その場をあとにする。

 ひそやかな嗤い声、悪意の混ざった憐憫の目、全てが針のようにわたしを刺す。


 ああ、昔からわたしはこうだった。

 悪いことひとつしていないのに、誰からも好かれたことがない。

 学友は些細なことを理由にわたしをいじめ、先生は悪い意味で面白そうな目をして、その様子を見ていた――下手したら、加担していた。親は常にわたしを蔑み怒鳴りつけ、手癖のように傷つけた。そして社会人になった今は、理不尽に上司に怒鳴られて同僚には嗤われる日々。

 どうして、周りの人々は――世界は、わたしを傷つけたがるのだろう。そうやってわたしを嘲笑って、楽しそうにしているのだろう。


 こんな世界から、わたしは消えてしまいたい。


 そんなことを思いながら、夜道を歩いていた、そのとき。

「どうも。そんな絶望した顔して、一体どうしたんです?」

 聞いたことのない声に後ろから呼び止められて、足が止まった。

「よければ、お話聞かせてもらえません?」

 男とも女ともつかない、不思議なほどに感情の読めない、けれどその代わりに奇異も好奇心もない、そんな声。

 思わず振り返ると、そこにいたのは、黒づくめの服に身を包んだ、棒のようにひょろながい男性。燕尾服のような服の裾をひらりと揺らして、彼は真っ直ぐにわたしを見つめる。

 その底なしの目に吸い込まれるように、わたしは、ぽつりぽつりと話し出した。

 今までのこと、今日のこと。もう、この世界にいたくないこと。

「なるほど、なるほど。……ではね、そんなあなたに、いいものをあげましょう」

 唇に三日月を浮かべて、なのに声はちっとも笑わないまま、彼は懐から小瓶をひとつ取り出した。

「飲んでみるといい。きっと、変わりますよ」

 中にはラムネのような錠剤がたくさん。振ってみれば、からころと虚しくも楽しい音がした。

「……なんですか、これ」

「変えてくれる薬ですよ。少なくとも、あなたを。そして、あなたの周りを。もしかしたら、世界すら変えられるかもしれない。……全ては、薬を飲んだあなた次第です」

 さっきまで平坦だった彼の声は、いつのまにか、蠱惑的な響きを帯びてわたしの耳に届いていた。

 小瓶に彫られた飾り文字が、ふと目の端に映る。

【Wrath】

 その言葉の意味を、わたしは知らない。

「一日一回、一粒だけ。いつでもいいです。飲むだけで、全てが変わりますよ」

 その声に導かれるように、惑わされるように。


 私は、その白い錠剤を飲み込んだ。


 瞬間、腹の底から熱い感情が湧き上がってわたしを飲み込み、喰らい尽くしていく。

 ――あぁ、憎いなぁ。

 ――わたしのことを傷つける奴らも、そんな奴らにしか出会わせてくれない世界も。

 ――全部全部、憎らしい。

 ――こんな世界で生きていくなんて馬鹿馬鹿しい。おさらばしてやろう。

 ――でも、そのときには、わたしを蔑む奴らも道連れだ。

 ――そして、できることならこの世界も、道連れにしてやろう。

 そう思ったら、どこからかぷつんと音が聞こえてきて、どこか分からないところから笑い声が響いてきた。

 わたしの、笑う声だった。


 それから、わたしの世界は一変した。

 誰になにを言われても、わたしの中に降り積もっていくのは、絶望ではなく怒りと憎しみになった。その怒りをどうやって世界にぶつけてやろうか、考えて、考えて、わたしは毒を飲むことにした。

 死ぬためではない。殺すためだ。

 ほんの少しずつ、毎日、毎日、あの薬と一緒に死なないくらいの毒を飲んだ。

 長く長く、時間はかかった。それでもわたしは、自分を毒に作り変えていった。


 そして、ある夜。

 わたしは、職場に猛毒入りのお菓子を残して退勤した。明日休みをとっている同僚の筆跡を真似て、「差し入れです、皆で召し上がってください」なんてメモもつけてきた。皆は私と違って早々に退勤するから、この差し入れが誰の置いて行ったものなのかなんて分からない。きっと、食べるはずだ。

 わたし自身は、近隣の海から沖の方へと小舟で漕ぎ出した。

 そして、今日だけは、わたしが死ねるだけの毒を飲み込んで。


 すぐに、海へと飛び込んだ。


 息が、苦しい。

 吐き気と頭痛と痛いほどの心臓の鼓動と、ああ、なにもかもがおかしい。体が熱いのに冷たい。血の巡りがうるさいのにひどく静かで、感覚が冴え渡るようなのに目の前はもうひどくぼんやりとして薄暗い。

 ああ、でも、だけど。

 口が、勝手に弧を描く。

 猛毒となった私の体を、きっと魚が食べてくれる。魚は他の魚に食べられて、それを何度も何度も繰り返せば、ちっぽけな毒でも人が死ぬほどの猛毒になるはずだ。


 ――どれだけの人が、わたしと共に死んでくれるかなぁ。


 そんな思いと共に、わたしは。

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