2023/11/29『姫』『しょっぱい』『温かい』
――逃げ出した。
私をぎゅっと摑んで離さないその人が怖くて。
逃げ出した。
たくさんの、たくさんの人に追いかけられた。
『姫を逃すな!』
たくさんの人の目を、なんとか欺いて逃げ出した。
見知らぬ街に飛び込んで、走って、走って。
「――どうしたのですか?」
聞いたことのない優しい声に、足を止める。
「――貴女は、貴女さまは、恐らくは高貴な出なのでしょう。どうしてこんなところを、走っているのです?」
私に声をかけてくれたのは、着古されたエプロンを腰に巻いた婦人だった。不思議そうに首を傾げてはいるし、笑顔を見せようとしてくれてもいるけれど、その目は、不安げに揺れている。
……この人は、きっと分かっているのだ。
私が、この国の姫であると知っていて、それでも、声をかけてくれたのだ。
「追われているんです」
その一言に、目の前の婦人は息を呑む。
ごめんなさい。でも、余裕も時間もないのだ。
だから、彼女のその優しさに漬け込むことにした。
「お願いします。私を助けて――少し、匿ってください」
「こんなみすぼらしい家で申し訳ないです。食べ物だってきっと、貴女さまが普段召し上がられているものよりもずっと貧相ですが……」
「いいえ! 気にしないでください。むしろ、こちらは事前に連絡もなく押しかけ、無理を言って匿って頂いている身です。それなのに食事や寝床を用意してくださって……感謝しかありません」
婦人は、果物屋の裏にある家に私を案内してくれた。どうやら果物を売って生計をなんとか立てているらしい。そして、「つまらないものですが」とパンとスープまで用意してくださった。きっと大切な売り物だろうに、私に甘酸っぱい香りの立ち上る柑橘まで出してくださったのだ。
パンはお城で食べているものの何倍も固かったし(スープにつけて柔らかくしながら美味しくいただいた)、スープの具材は少し肉が入っている程度。けれど、どうしてだろう、お城で食べるものよりも、美味しく感じられた。
「……お訊きしていいのか分からないので、答えてくださらなくても良いのですが……貴女さまは、この国の……姫様、ですよね?」
素朴ながら優しい味を堪能していると、婦人は恐る恐るといった様子でそんな質問をそっと投げかけてきた。
手にしたスプーンを一度置き、頷く。
「――ええ。そうです。ご想像の通り、私はこの国の姫として生まれました」
「では……なぜ、姫様は、追われていたのですか? どこかから、逃げておられたのですか?」
もう一度、頷く。
「はい。……私は、父から、逃げておりました」
私の父――国王は、国民のことを見ていない人だった。
私も、城から出ることが出来なかったから、許されなかったから、国民のことを知っているとは言い難い。けれど、それでも国民のことを大切にしていないことが分かる法律や規則を作り、重税を課して当たり前のように笑う人だった。
そんな父が私を呼び出したのが、ついさっきのこと。
父の元に向かうと父は、私の手を、ぎゅっと握って。
『お前ももうすぐ成人の歳だ。わたしの跡を継いでくれるね? 幸せを信じて、わたしと同じ道を歩んでくれるね?』
にたり、と、笑ったのだ。
父の言う幸せは、誰にとっての幸せなのだろう。
私にとっての幸せだろうか。
国民にとっての幸せだろうか。
――否。それは、父にとっての幸せでしかない。
自分のことしか見ていない父が、怖かった。
怖くて仕方がなくて、逃げ出した。
父の怒声、追いかけてくるたくさんの兵たち、慌てて逃げ込んだ王族しか知らぬ隠し通路、そして、その通路を抜けた先で初めて見た国民たち。
皆、苦しそうで、貧しそうだった。
その姿を見て、私まで心が苦しくて、そのとき、初めて理解したのだ。
私の心は、国民の心と一緒なのだ。国民が幸せでなければ、私もきっと幸せにはなれない。
「……すみません、長々と語ってしまって」
これまでの事情を全て話して、再びパンとスープを口にした。けれど、さっき食べた時よりも、なんだかしょっぱい。
「……姫様。貴女さまは王様と違い、とても優しい方なのですね。ありがとうございます、私たちのことを考えてくださって」
婦人はそっと私の頰を拭い、私をギュッと抱きしめてくださった。
「恐れ多いことですが、お許しください。――貴女さまは、1人でずっと、辛いことを抱えてこられたのですね。ありがとうございます、私にさまざまなことを語ってくださって。……私は、もし貴女さまがこの国を治めると決めたならば、必ず応援いたします。小さくて頼りない力かもしれませんが、どうか、力にならせてください」
――なんて、なんで、優しい方なのだろう。
この気持ちに、私は、応えなくてはならない。
「いいえ……こちらこそ、ありがとうございます。
私、決めました。しばらく私は城に戻らず、この国のことを知るために身分を隠して旅をしようと思います。私は、城の外に出たことがなかったのです。まず、国民のことを知ってから城に戻り、父の跡を継ぎます。そして、きっとあなたたちのことを幸せにしてみせます。国民の幸せが、私の幸せです。――どうか、皆様方の力にならせてください」
きっと、この言葉を現実にしてみせる。
温かく優しいこの国の人々が、いつまでも、笑顔でいられるように。




