2023/02/22『苦い』『憤怒』『受難』
黒い水面を、見つめていた。
白く湯気を立てる珈琲は、いつもと同じにバニラの良い香りをさせている。けれど、一口啜れば香ばしい苦味が舌の上を転がっていく。香りに騙されて期待外れの味を摑まされたような、そんな感覚に陥るから、香りをつけられた珈琲を飲むのはあまり好きじゃない。家に大量にある、頂き物のコーヒー豆を放置するわけにもいかないから、仕方なしにこうして飲んでいるのだけど。
きっと、バニラの香りだって、このコーヒー豆だって、私を騙したいわけじゃない。私が香りから味を勝手に想像して、勝手に期待を裏切られた気になっているだけ。
そんなものだ。
もう一度、甘い香りを堪能しながら珈琲を口にしたとき、ふと、裏切られたような苦味とともに思い出が蘇った。
「――ああ、そういえば」
少し前まで付き合っていた彼も、この珈琲みたいなひとだった。甘い言葉で数多の女性を魅了して、けれど、苦い現実を突きつけてくるような、そんな。
私が彼と付き合っているとき、彼は私を含めて3人の女性と腕を絡め、手を繋いでいた。そして、その3人の誰にも、唇へのキスをしていなかった――と、これは彼と別れるときに聞いた話。
『……どうしてもね。僕には、愛するってことが分からないみたいだ』
泣きながら、そう言って私をじっと見つめてきた彼のことは、今でも忘れられなくて、そして、理解ができない。
『愛することを知りたくて、愛されたくて、たくさんの女性と一緒に時間を過ごしてきた。もちろん楽しいけれど、それだけなんだ。友達と遊んでいるのと一緒で、それ以上のなにかを感じられない。そして、たくさんの人を傷つけて、関係はこうやって終わってしまう。
……どうしてだろうね? 僕はただ、たった一つのことを知りたいだけなのにね』
その目があまりに純粋で、嘘などなに一つないと分かってしまったから、怒るとか、憤慨するとか、そんな感情は全部、彼の涙に流されて消えてしまった。
ただ、彼の甘い言葉が空疎な偽りだったことを知って、それに勝手に期待して騙されていた私は、そのとき味わった苦い思いを忘れられなくなった。たぶん彼は騙す気なんてなくて『今は嘘だけどいつかは本当の言葉に変わるはず』と、そう思いながら甘い言葉を口にしていたのだろうけれど。
そう。それだけの話だ。
「……あなたのせいだから」
私は、本気で彼が好きだった。
けれど、私の気持ちは見事に裏切られた。彼は私のことを愛していなかったどころか、私の愛に気づいてすらいなかったのだから。
あのとき味わった苦味を忘れられない限り、私が彼のことを忘れられない限り、私は、再び人を愛することはできないような気がする。
「あなたのせいで、もう、誰にも期待できなくなった。信じることもできなくなった。好意を持たれると、いつか裏切られるんじゃないかって考えるようになった」
本当に、とんだ災難である。たくさんの人に囲まれて生きていく中で、誰のことも信じられなくなってしまうなんて。心安らぐ時間が、こうして一人きり、珈琲を淹れて飲む時間くらいしかなくなってしまうなんて。
……いや、珈琲を飲みながら彼のことを思い出している時点で、心安らぐことなど一生ないのかもしれない。
一つため息をつくと、甘い香りを含んだ湯気が、ふわりと揺らいで消えていった。




