2021/03/17『空白』『氷河』『毒』
「ここには、なにがある?」
まっさらなキャンバスを指して、彼はくすりと笑みをこぼした。鼻歌でも歌い出しそうな、そんな雰囲気と声に、表情だった。
「……なにもないよ。ただの空白さ」
僕の声は、白いキャンバスに吸い込まれて消えた。酷く空疎で、どこにも残らない声だった。
「まだまだだなぁ、きみは」
僕が持っていた絵筆を取り上げ、彼は歌い出した。夢を追いかけ、諦め、でも取り戻そうとする物語をえがいた、名もわからない歌だ。
「その中には、たくさんのものが詰まっているんだ。それを見出すのが絵描きじゃないのかい? 取り出せるか否かは、きみ次第さ」
「んなこと言われても――」
――描けないものは、描けないのだ。
「あっはは」
彼はからからと声をあげて、ふと真剣な目つきになるとこちらに詰め寄って、一言。
「一度成功したら、もう過去のことなんて忘れてしまったかい?」
ぽたり、心にどす黒い毒を、一滴落とすように。
「あの苦しい日々を忘れたかい? なにを描いても認められなかったことも覚えていないかい? 歯を食いしばってキャンバスに隠されたものを浮かび上がらせていた自分のことを、あの日抱き続けていた夢のことも、なにも、なにも覚えていないかい?」
ぼたり、ぼたり。
……ぼたぼた、ぼたぼたぼたっ。
彼が歌うように言葉を重ねるたび、心には毒々しい黒が垂らされて染みていく。
「――うるさいっ!」
気づけば、その毒を吐き出すように叫んでいた。
「黙れよっ! お前の言葉なんて聞きたくないんだよ! なにもなにも……全部聞きたくないっ!」
絵筆を奪い返し、すぐそばの水に浸して動かした。
キャンバスに、透明な線をたくさん引く。岩の塊から美しい像を掘り起こすように、石ころの集まりから宝石を探し出すように……。
「……なんだ、まだ忘れていなかったんだね」
彼の声が、聞こえた気がした。
「……うん、これなら大丈夫だね。きみは、目標を見失ってなかったんだ。まだまだやれるよ――」
気がついたとき、目の前のキャンバスには氷河の絵が出来上がっていた。
水にしか浸していないはずの絵筆は、うっすらと青で染まっている。
そして、彼はもういなかった。
僕と瓜二つの姿と声をした、彼は。
彼が歌っていた歌を、僕は随分前から――自分が絵描きになるという夢を叶えるよりもずっと前から、知っているのだということを、ふと思い出した。




