2020/12/22『夜』『旅』『メモ』
夜の静寂を破ったのは、突然吹き荒れた一陣の風。そして、空を切り裂くようにして舞い降りた、一人の女性。
「……本当に、来れたのね」
風が吹きやんだのちに、彼女は呟いた。歳を感じさせる、優しくて柔らかな声だった。
頰に刻まれているシワは、笑顔の形。その女性が笑うことの多かった、その証だ。
「さあて。せっかく旅が許されたんだから、楽しんでこなきゃね」
老女は微笑んで、歩き出す。
けれど、ふと辺りを照らしていた月が雲に隠されたとき、彼女の笑みにふと、陰が差した。
「……あの人は、いま、どうしているのかしら」
「……なにも、変わらないのね」
老女は、かつて自宅だった場所を眺めていた。
庭には草花が生えており、ブルーベリーやブドウの木もある。今は時期ではないから実をつけていないけれど、来年にはまた美味しい果物がなるのだろう。
「ただいま」
家の中に入って声をかけるが、返事はない。
やはりというべきか、この家の住人は、老女の帰宅に気付かなかったらしい。
「……」
何気なく向かった仏間で、老女は思いがけないものを目にした。
ろくに布団もかぶらず、座ったまま眠る、白髪の男性。そして、彼の手にある一枚の写真。床に散らばる写真立てやアルバム。
「こんなに……どうして」
呟いてしまったけれど、老女は分かっていた。
彼は引きずっているのだ。
大切な妻の――老女の死を。
「ねえ、あれから三年経つんだよ」
部屋の片隅に置かれた位牌。
三年前の今日が、老女の命日だった。
「まだ、あなたは……」
彼の頰をつたう、銀の粒。
そっと拭って、老女は困った顔をする。
彼が持っている写真を拾い、近くのペンを手に取った。
「……まったく、困りますよ」
小さく呟いて、言葉をしたためる。
メモという名の、ささやかな贈り物。
写真を元のように戻して、微笑んだ。
「またいつか、旅が許されたら、来ますから」
その時には笑顔を見せてね、と声をかけて。
老女はその場を後にした。
2021/04/20 0:13
誤字があったので修正しました。




