2020/10/06『人肌』『青』『妖精』
「……あのね、ずっと秘密にしてたんだけど……お姉ちゃん、妖精のお友達がいるんだ」
姉がわたしの手を優しく握りながらそう言いだしたのは、わたしが重い病にかかって入院していたときのことだった。
「……えっ? 妖精?」
「そ。本当は私とその子だけの秘密なんだけど、菜月にだけは特別、教えてあげる。だから菜月も、誰にも言わないでね」
「うん!」
それからというもの、姉は毎日、妖精が教えてくれたという異国の物語を語ってくれた。わたしの手を優しく握りながら。
姉の手はひんやりとしていて、あまり人肌を触っている感覚にはなれなかったけれど、でも、妖精の話を語るにはぴったりの温度のようにも感じた。だってほら、妖精の手ってあまり温かくなさそうだし。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
「妖精さんに頼んで、病気を治してもらうことはできないの?」
わたしがある日そう訊くと、姉は悲しそうに微笑んだ。それはまるで、自分がその妖精であるかのように。
「ごめんね、菜月……妖精といっても、大したことができるわけじゃないんだって。できることは、小さな火を起こしたり、身の回りの風をほんの少し操ったり、自分たちが飲むための水を生み出すくらい。あとは色々なお呪いができるくらいって言ってたよ。怪我や病気は治せないんだって」
「じゃあ、病気を治すお呪いはないの?」
「――ごめんね、ないんだって」
その代わりに、と姉はわたしの手をぎゅっと握って、なにか祈るようにした。
「……なにしたの?」
「妖精の呪いみたいに効果があるかは分からないけど、お姉ちゃんなりの、おまじない」
「ありがとう、お姉ちゃん」
わたしは嬉しくて、思わず笑みをこぼした。
けれど、やっぱり人間のおまじないには効果がなかったようで、病状は悪化していった。
あれは、雲ひとつない青空が窓の外に広がっていて、目を閉じれば天上に昇っていけるような気がした、ある日のこと。
「……ねえ、お姉ちゃん」
いつものようにお見舞いに来た姉に、わたしは一言。
「わたし……生きる意味って、あるのかな」
戸惑いの表情を浮かべながら、姉はわたしの名を呼んだ。
「どうして、そんなこと」
どうして……だって、あまりにも辛すぎたのだ。苦しすぎたのだ。幼いわたしにとって、いつ終わりが来るか分からない闘病の日々は。死ぬかもしれないという恐怖との戦いは。
「なんで元気にならないの? わたしの命に意味なんてないってことなの?」
「――そんなことないっ!」
鼓膜を突き破りそうなほど大きな、声。
「……ねえ、菜月。妖精さんが、お呪いをかけてくれるって」
「ほんと?」
「本当だってば」
姉がわたしの手をぎゅっと痛いくらい握り締める。その日も、ひんやりとした感覚が伝わってきていた。
「目を閉じて」
厳かな口調で言われて、まぶたを下ろした。
「これは、菜月が必ず生きる意味を見つけられるようになるお呪い。生き抜いて、幸せを見つけられるようになるお呪いでもある。でも、忘れないで。これは、菜月が死んだらなんの意味もなくなってしまう。だから、どんなに辛くても、苦しくても、生きることを考えて。必ず、菜月の生きる意味が見つかるようになるから」
その言葉から数拍あけて、「目を開けて」という言葉が聞こえた。
そこに広がる世界は、今までと変わらないはずなのに、何かが違って見えた。
「はい、お呪い終わり! さ、今日も妖精さんから聞いた話を教えてあげるよ」
にこにこと笑う姉に、わたしは「ありがとう」と呟いた。
それ以降は、どんなに苦しくても、辛くても、生きる意味なんかないんじゃないかと思っても、あの日かけられた呪いの言葉が蘇ってくるようになった。そして、絶対にいつか生まれた意味が分かるからと自分に言い聞かせ、身を切られるような思いをしながら立ちあがり続けた。
それを、もう数え切れないぐらい繰り返した後、わたしの病は治り、退院することになった。
……あれから何年も経った今、わたしは思う。
妖精がいる、というのは姉のほら話だったのだろう。物語を書くことが好きで、それが高じて今では童話作家となった姉が、入院するわたしを励ますために吐き続けた、優しい嘘。
それは、簡単に予想ができる。けれど、問題はそれではない。
姉のあの言葉――お呪いは、果たして本当におまじないだったのだろうか?
もしかしたらあれは、姉がわたしにかけた呪いだったのではないだろうか?
姉はわたしに呪いと呪いのどちらをかけたかったのだろう――。
……そんなことは、分からない。姉はもう自分がかけたお呪いのことを忘れてしまったらしいし、わたしは姉ではないのだから。
ただ、確実に分かっていることがある。
わたしにかけられたあの呪いは、今でも解けていないこと。
おそらく、この呪いはわたしが死ぬまで解けることはないであろうこと。
そして、この呪いのおかげで、わたしは今も生きているのだということ。
2020/10/07 8:13
表記ぶれの修正をしました。
2020/10/17 1:11
表記を一部改め、前書きを削除しました。




