2020/09/13『紅茶』『暴食』『海』
バイト帰り。夜中の海岸沿いは、星が綺麗に見える。何故って、街中よりも街灯が少ないうえに、その光も真っ白ではなく、さびた鉄のような赤茶けた色をしているから。さらに言ってしまえば、今は冬。空がきれいだから、いつも以上に星が輝いて見えるのである。
車は走らない。ひとは眠りについている。そんなしんとした道に響き渡る潮騒。冷たい風に吹かれながら歩いていると、波の音に紛れて人の声が聞こえたような気がした。
耳を澄ませてみる……空耳じゃない。たしかに誰かが歌っている。
その誰かは、波の音と自分が発する音を混ぜるようにして、人の眠りを妨げぬように優しく、わたしの知らない音楽を奏でているのだった。
わたしはふらふらと、光に吸い寄せられる虫のように、その声に向かって歩を進めた。
こうしてその日、わたしは不思議な女性『小坂田奏』と出会ったのである。
あの日以来、わたしは夜中のバイト帰りには彼女の元を訪れるようになった。
「――こんばんは、小坂田さん」
声をかけると、堤防の上に腰かけていたその人は、にこりと笑って自分の隣をとんとん、と叩いた。さらさらで長い黒髪が、月に照らされてつややかに光る。
「あなた、律儀」
わたしが隣に座るのを見た彼女は、桜貝のような唇を開き、そう呟いた。
「私のこと、『おさかな』と呼んでいい、言っているのに」
「でも、あなたは『おさかな』さんではなくて『小坂田』さんでしょう?」
「だから、あなた、律儀」
くすくす、と彼女は笑った。その楽しそうな表情も、彼女の片言な日本語も、わたしはとても好いている。
彼女はふと、どこからか古ぼけたボトルを取り出すと、ホタテの貝殻に似た器に中の液体を注いだ。そして、月の光を受けて輝くその液体を一気に飲み干す。すると、彼女の頰は赤く染まる。いつもと、一緒だ。
けれど、今日はなぜか、ホタテの貝殻の形をした器にほんの少しだけその液体を注いで、こちらに差し出してきた。
「……たまには、分けてあげる。ちょっとだけ。ひとには、少し強すぎる」
器を受け取って、ほんの少し茶色っぽいそれを飲みこむと、紅茶にそっくりな味がした。それと同時に、体が火照るのが分かる――これは、お酒だ。
「……ひとは昔、おさかな、たくさん食べた」
彼女はいつも、お酒に酔うと『おさかなの話』を始める。何故かはわからないけれど、彼女は魚を好いているようだった。
「おさかな、たくさんとった。たくさんたべた。おさかな、海から消えた」
いつもと同じ話だった。だから、この後はきっと『でも、いつのまにか、ひと、おさかなきらいになった』と続くのだろう、と思っていた。普段なら、必ずそう続くから。
でも、今日は違った。
「……私、ずっと見てた」
驚いて、彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。
彼女の目には、宝石のように美しい滴があった。
「でも、いつのまにか、ひと、おさかなきらいになった。すこしずつ、おさかなもどってきた」
泣いているのか笑っているのか、よく分からないけれど、彼女の表情はただ美しかった。
「私、うれしかった。でも、嫌われたは、悲しい」
宝石が、彼女の頰を伝って落ちる。けれど、それに気がつかなかったのだろう、にっこりと笑って彼女は歌いだした。波の音と自分が発する音を混ぜるようにして、人の眠りを妨げぬように優しく、わたしの知らない音楽を口ずさむ。
「――ねえ、私、嘘ついた」
歌い終わった後、彼女はそんなことを口にする。
「私、『小坂田奏』、違う。奏、歌が好きだから。小坂田……私、おさかな、仲間だから」
「じゃあ、本当の名前は……?」
お酒のせいか、少しぼんやりとした頭で必死に考えながら、言葉を発する。どうして彼女は嘘をついたのか、どうして彼女は魚を仲間だと言ったのか……。
「名前、教えない。あなた、ひとだから、名前、聞き取れない」
けれど、と彼女は言葉をつづける。
「ひと、私たちのこと、こう呼ぶ」
急に酔いが回ってきたのか、目の前の光景がぼやけてきた。……参ったな、わたし、お酒に弱いんだっけ。
「『 』」
……いつの間にか、堤防で眠ってしまったらしかった。
気がついた時には彼女の姿はなく、ただ波の音が静かに響き渡るだけで。
あの日以来、わたしは『人魚』だと名乗った彼女に会えていない。




