2020/09/07『希望』『童話』『青』
「考えることをやめてはいけないよ」
雨上がりの夜。交差点に立ったとき、不意にそんな声が聞こえた気がした。
――息が、出来ない。
水に飢えた金魚のように、空気を求めて口をはくはくとさせる。
「流されるのは楽だけど、せっかく与えられたものを無駄にしちゃ駄目だ」
濡れたアスファルトに、信号の青い光が映り込む。
ちか、ちか、地面の光がいくつか点滅して、ふっと赤く変わる。残った青も、そのうち黄色くなり、赤くなり。
地面は、血で濡れたみたいに真っ赤に染まった。
――あのとき、みたいに。
「思考は、愚かな人間に与えられた唯一の希望だよ。欲を封じ込め、幸せになるためのね」
地に倒れ伏す、血だらけの友人が見えた気がした。
でも青信号が蘇ったとき、その幻はすっと消えた。
……そう。間違いなく、友人――この声の主は、死んだのだ。
もう、何ヶ月も前に。僕の目の前で。
「もちろん、唯一の希望である思考だって、欲をさらに膨らませるために使われることがある。欲に支配された思考は、愚かさを周囲に見せつけるだけだ」
友人から聞いた最後の言葉たちが、僕の鼓膜を震わせている。
彼はもう、いないのに。
どうして……どうして。
「たくさんの人が思考し続けた。そして考えることによって、いくつもの発見があった。それを多くの人に伝えるために、人々は創作をするんだよ、きっと」
ぽつり、水滴が頰に落ちる。
ぽつぽつ、ぽつぽつ、さああああっ……。
雨が降り始めたけれど、動くことができない。
「あるときは歌に。歌詞にして、音に乗せて。あるときは童話に。子供にも分かりやすいように。あるときは小説に。ふさわしい言葉を選び取りながら」
水が跳ね、光はひたすら乱反射を繰り返す。
もう、自分が今どこにいるのかが分からなかった。
なにもない白黒の舞台上で、緩やかに色が変わるスポットライトに照らされながら、水が目の前で踊っているだけで。
「言葉を受け取る側も、思考を繰り返さなければならない」
友人の言葉が、雨と共に白黒の舞台で舞っている。
「せっかく見つけ出されたものが伝わらなくなるかもしれない。受け手が思考をすることによって、さらなる発見があるかもしれない」
全身びしょ濡れで、かなり寒い。
なのに、頰だけはなぜかとても熱い。
どうして、どうして。
「幸せになるための方法があるんだからさ。自ら捨てるなんてこと、したくはないよなぁ」
口に雨水が入り込む……あれ……しょっぱい?
もしかして、僕は、僕は……泣いているのか?
「……お前、頭いいんだからさ。たくさん考えて、俺よりも幸せになってくれよ」
「うわああああ……っ!」
気がついたときには、僕は獣のような雄叫びをあげていた。
そのまま地面にくず折れて、力が抜けて、もうその場から動けなくなっても、喉から迸る声は止まりそうになかった。




