2020/08/17『酸っぱい』『ベッド』『黒』
「迎えに来たよ。さあ、帰ろうか」
「うん!」
小学生のころから駅に近い塾に通っていた私は、いつも帰宅時間が奇跡的に重なっていた父と一緒に、家に帰っていた。
仕事終わりで疲れているだろうに、塾の前で待つ私に元気よく声をかけ、日によってはおんぶしてくれて。そうでなくとも、必ず私と手をつないでくれて。
それが、とても嬉しかった。
真っ黒の空を見上げて、巡っていく星座を眺めながら、その日にあったことを父に話す。
父は、年のせいか少しだけ酸っぱい臭いがしたけれど。煙草の煙たい匂いもしたけれど。
そんなひと時を、私は好いていたのだ。
「今日も疲れただろう。さあ、帰ろうか」
「……」
中学生になると、反抗期に差し掛かったこともあって、会話が減った。
それでも、父はバイクに乗って私を迎えに来た。塾から出てきた私にヘルメットを差し出して、その代わりに荷物を受け取り座席の下に入れて。
しっかり摑まってろよ、と言われ、座席後ろにある持ち手を握りしめて。
暗闇を引き裂くようにして、私たちは家へと向かった。
帰宅後は服や髪に排気ガスのにおいがついたけど、別に気にしていなかった。
「お疲れさま。さあ、帰ろうか」
「いつもありがとう」
高校生になると、反抗期も過ぎ去って再び会話をするようになった。
塾の前で待ち合わせをして、ヘルメットと塾の荷物を交換して。
そして、風となり闇の中を進むのだ。
大学受験を控えた私に父は厳しく温かい言葉をかけてくれた。私は学校や塾であったことを語り、話を必ず感謝の言葉で締めくくるようになった。
しっかり摑まってろよ、という声に、私は頷いて父にぎゅっとしがみついた。
暗闇の中、空を見上げると星座が瞬きながら巡っていくのが見えた。
大学生になってからは、父の迎えがなくなった。
帰宅時間は友人との食事やサークル、バイトで不規則になったし、日によっては終電を逃して家に帰れなくなることもあったからだ。
その後は社会人になり、独り立ちをして、家族を作って、両親と別れて、ゆっくりと年老いて、孫の顔を見て、そして、寝たきりになって。
ベッドの中でうつらうつらしているとき、ふと、声を聞いた。
「迎えに来たよ。一緒に行こうか」
懐かしい父の姿が、ぼんやりと見える。
「――もちろん。一緒に行こうね」
父の手をそっと、握りしめて。
私は目を閉じて、答えたのだった。




