2020/08/12『電話』『酸っぱい』『姫』
『緊急停止します。ご注意ください。緊急停止します。ご注意ください』
アナウンスと共に、急ブレーキがかかる電車。
止まった瞬間、一部を除き落ちてしまった照明。
薄暗い車内に、車掌の放送が響き渡る。
『ただいま、この先の踏切の危険感知装置が作動したため、緊急停止いたしました。安全のため、パンタグラフを下げております――』
まじかよ、と声に出さずに呟く。
自分も含め、人々は次々にスマホを取り出し、指を動かしだす。この状況をSNSにあげるのだろうか。それとも、家族に連絡をするのだろうか。
……おれは、後者だ。
流石に電話はできないが、メールくらいなら容易く送れる。
《電車止まっちゃった》
妻のスマホにそう送ると、返事はすぐにきた。
《あれま。大丈夫?》
《うん。むしろ貴重な体験ができてる》
嘘ではない。一部の非常灯を除き、すべての電気が落ちている電車内なんて、なかなか見られない。行先などが表示される電光掲示も光っていないのだ。顔には出さないが、結構興奮している。
薄暗い車内は、どこか神秘的に見える。もう薄暗くなっている窓の外の光景が容易く見れることも、その理由の一つだろうか。分からないが、貴重な体験であることには間違いない。
《ふーん、ならいいんだけど。わたしたちのお姫様が待ってるからね。できるだけ早く帰ってきてよ》
《分かってるって。もう安全確認は終わったみたいだし、そのうち発車すると思うよ》
《そっかそっか。気をつけてね》
「――あっちいんだよ、早くエアコンつけろよ」
唐突に耳に飛び込んできた、見知らぬ男の声。
おれの隣に座る、加齢臭の酷い奴が文句を言っている。酸っぱい臭いがふわりと漂ってきた。
……男は不機嫌そうだが、パンタグラフが上がっていない以上、エアコンをつけるのは無理だろう。どう考えても。それくらい我慢すればいいのに。いや、心の中で思うのはいいが、口に出すなよ。
『繰り返し、お客様にご案内します――』
「そんなの分かったから早く運転しろや」
お前はそんなに文句を言うな。
心の中でツッコミを入れながら、薄暗い電車内を楽しむ。
『運転を再開いたします。安全な場所に移動してから再度停止し、パンタグラフを上げ、運転いたします』
アナウンスが流れ、薄暗い車両がぐらりと揺れる。
そのまま発車し、十数秒ほどそれなりに速い速度で動いた後、再び『電車が止まります。つり革、手すりにお摑まりください』の声。ブレーキがかかり停車した瞬間、パッと辺りが一気に明るくなった。
パンタグラフが、上がったのだろう。
行先表示はまだ戻らないが、冷房はかかり始めた。
『大変お待たせいたしました。運転を再開いたします』
再び、電車は走り出した。
《運転が再開したよ》
妻にメッセージを送り、スマホを閉じた。
さあ、帰ろう。
おれたちのお姫様――可愛い娘が、家で待っている。




