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2020/07/14『コーヒー』『嫉妬』『夕陽』

 とある土曜日のランチタイム。その日は珍しく、アイスコーヒーを注文した。無意識のうちに、だ。口からその単語が飛び出てきて初めて、普段と違うものを買おうとしていることに気づいたのだから。

 なぜ自分が、いつものホットカフェラテを頼まなかったのか。それが分からなくて、思わず首をかしげてしまう。その様子を見た店員さんが、ドリンクを変えるかを丁寧に尋ねてきたが、そこでも変えなくていいと答えてしまったから不思議なものである。

 チョコクロワッサン、バジルとトマトのピザ、そして飲み物が一杯でランチ料金五百円だというのだから、安くて便利、しかも量もちょうどいい、ということでよく利用する喫茶店。すっかり行きつけになってしまったものだから、店員さんの方も自分の顔や注文内容を覚えてしまったらしい。「今日はホットカフェラテじゃないんですね」という言葉とともに、茶色のプラスチックトレイにアイスコーヒーとお日さま色のストローが置かれた。ドリンクの横にはすでに、クロワッサンとピザが仲良くくっついて座り込んでいる。

 ガムシロップとミルクポーションはいかがなさいますか、という声に「砂糖を二つ」という的外れな回答をする。そりゃあ冷たい飲み物に砂糖は溶けにくいことくらいは分かっているのだが、コーヒーにガムシロップを入れるのが苦手なのだ。店員さんは困惑していたようだったが、このことを話すとすっきりしたような顔になってシュガースティックを二本用意してくれた。

 会計を済ませ、前もってとっておいた席に着く。そこは、店外の様子が見えるカウンター席だった。

 少しだけぼんやりと窓の外を眺めて、すっとトレイに視線を移す。

 ……本当に、何でアイスコーヒーにしたんだろうか。

 結露して水滴がびっしりと付いたグラスを見ながら、考える。

 それは一瞬だったのか、それとも、長い時間そうしていたのか。分からないけれど、考えても結論は出ないと判断し、思考を放棄してピザにかぶりつく。

 トマトの酸味と甘み、バジルの香り、チーズの塩味、焦げの苦みが、口の中で心地よい五重奏を奏で始めた。


 昼食をとり終わったら、アイスコーヒーとストロー、砂糖を残してトレイをさげる。机の上を手持ちのティッシュで軽くふいてから、持ってきたノートパソコンを置いて電源を入れる。パスワードを打ち込めば、見慣れたデスクトップが『お帰りなさい』と出迎えてくれた――といっても、決して喋るわけでも、文字を画面に映し出すわけでもない。ただ、パソコンがそう言ってくれるような気がするのだ。

 さて、Wordを起動させて小説投稿サイトに投稿する小説を書こうか、なんて思いながらタスクバーにカーソルを動かそうとしたその時。

 画面右下に、通知が表示された。

『菊池優香 命日』

 小さくて、でも存在感のあるその文字と、近くに置かれたアイスコーヒーを見比べる。

 ……そうか、だからこれを頼んだのか。

 今日は、彼女の命日だから。


「ここの表現はこうしたほうがいいんじゃない?」

 自分が書いた小説を覗き込み、アドバイスをくれた彼女の声がよみがえる。

「……本当だ、こっちのほうがより臨場感が出るね。やっぱりすごいなあ、菊池さんは」

「そんなことないわよ。ほら、お互いにさっさと書きあげなくちゃ。部誌に乗せる小説、締め切りが明後日なんだから」

 彼女と自分の関係を表すならば、『大学時代の同期で、同じ文芸部に所属するサークル仲間』だ。それ以上でも、それ以下でもない。

 同い年なのに彼女を「菊池さん」と呼んでいたのは、尊敬の念を抱かずにはいられなかったことと、『サークル仲間』よりも近い関係性にはなれなかったからではないかと思う。サークル活動以外の場所ではまったく関わりがなかったから、心の距離はあまり詰められなかったのだ。

 いつも彼女には尊敬と、ちょっとだけ嫉妬をしていた。

 小説を書けば読む人すべてを唸らせてしまうようなものを創り上げ、他の部員に的確なアドバイスができる彼女のことを、素直にすごいと思い敬いたくなる気持ちと、どうして自分は彼女のようになれないのかとねたむ気持ち。そんなものが、ごちゃまぜになって存在していたのだ。

「ねえ、菊池さん」

「なあに?」

「ここのシーン、ちょっと納得がいかないんだけど、どうしよう?」

 サークル仲間以上の関係になれなくとも、どんな感情を抱いていようとも、サークル内で一番仲が良かったのは彼女だった。それは間違いない。何度も彼女と会話をして、お互いの小説を批評しあって、時には合作したりして、濃密な時間を過ごしたように感じる。

「少しは自分で考えなさいよ、じゃないと私の小説になっちゃうじゃない」

「あ、確かに」

「小説を書くためには、どれだけ迷ったとしても、結局は自分と向き合って言葉を探していくしかないんだから。まあ、それが苦しくなったら、少しだけお手伝いすることはできるかもしれないけれど」

 彼女はいつも、コンビニで買ったアイスコーヒーをお供に原稿を書いていた。彼女曰く、これがないと落ち着いていられないのだとか。この会話をした日もそれは例外ではなく、彼女は冷たいコーヒーをあおりながら小説を書いていた。

「じゃあ、本当に苦しくなったら菊池さんを頼るよ」

「うん、そうしてね」

 彼女はその日のうちに部誌に乗せる小説を書きあげ、提出まで済ませていた。

 その原稿が、彼女の紡いだ最後の物語だった。

 この会話をした数時間後、菊池優香というひとは、この世からいなくなってしまったのだから。


「『小説を書くためには、どれだけ迷ったとしても、結局は自分と向き合って言葉を探していくしかない』――今でも覚えているよ、菊池さん」

 あれから五年経った今でも小説の執筆を趣味にする理由。それは、彼女の言葉を忘れないためなのではないかと思う。

 この言葉を覚えている限り……自分と向き合うことをやめない限り。

 菊池さんは自分の中で生き続けると思うから。

「物語を紡ぐことはやめないよ。一生、ずっと」

 砂糖が入っていないアイスコーヒーを、一口飲みこむ。

 そして、窓の外で夕陽が美しく燃える時間になるまで、パソコンと向き合って言葉を紡ぎ続けた。

追記:ノベルアップ+にて、この小説を一部抜粋した「コーヒーを泳ぐ」というタイトルの小説を投稿しております。

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