2020/07/02『勇者』『辛い』『戸惑い』
風呂場で髪の毛を洗っていたら、体からプンと、汗の臭いが漂ってきた。
『汗臭さって、木工用ボンドの臭いに似てるって、母さんは思うのよ』
昔、そう言って俺を風呂に入れた母の声が聞こえてきた、気がした。
「えー? こんな暑いのにお風呂ー? やだよっ!」
風呂に入るのを拒んでいた幼稚園生時代の俺に、母さんは近くの戸棚から木工用ボンドを持ってきた。そして、おもむろに蓋を開けると「ユウ、嗅いでごらん」と言った。
当時の俺は、その臭いが大っ嫌いだったから、いやいやほんの少しだけ、鼻から息を吸うだけにした。
「……くっさい」
「おんなじ臭いがしてるわよ、ユウ」
「……うそ」
「ほんと」
母さんはボンドをしまってから、俺に向かって「あのね」と語りかける。
「汗臭さって、木工用ボンドの臭いに似てるって、母さんは思うのよ。ねえ、ユウはこの臭いまみれのまま寝たい?」
「……やだ」
「でしょう? 早くお風呂に入ってらっしゃい」
「はーい」
それ以降、俺は素直に、ごねることなく風呂を済ませるようになった。
それから数年がたった、ある日のこと。
父と母が、大喧嘩をした。
当時は分からなかったが、離婚をする寸前まで来ていたらしい。
二人が喧嘩をしながら「ユウは俺が引き取る」「いや、私が連れて行くわ」などと話していたのを、影で聞いていた。その様子は、まるでおもちゃを取り合う子どものように見えなくはなかった。
「……ねえ」
小学校低学年だった俺に、どうしてあんなことを言えたのか、よく覚えていない。ただ、自分が二人の幸せを邪魔しているのだと、なんとなく直感で分かったのだろうか、と思わなくはない。
過去に戻ってあの時の自分に何か言えるとしたら、きっと「お前、勇者だな」と言うだろう。
「ぼくがじゃまなら、ぼくをころして」
さっきまで大騒ぎしていた二人は、一気に静かになった。父は戸惑いの表情を浮かべ、母は泣いていた。
結局、両親は離婚しなかった。
多分、俺のために。
あれから、両親は冷戦状態だった。
目を合わせないし、話さない。
ただ、別れもしない。子供が、いるから。
そんな家で過ごすのは、正直辛かった。
いっそのこと離婚してくれれば、まだ辛くはなかったのではないかと思う。けれど、二人を繋ぎ止めていたのは、自分なのだ。
今日は、この家で過ごす最後の日。
大学生になってから数ヶ月が経ち、夏休みに突入している今、俺は大学の近くに引っ越すことを決めた。そして、新しい家に移るのが、明日なのだ。
――結局、俺は両親にとって、木工用ボンドのような存在だったのかもしれないな、なんて思う。
不仲の夫婦をもう一度くっつけることは、出来なかったのだから。
木工用ボンドは、人と人を繋げるためのものじゃない。もし、一時的にくっついたとしても、長いことそのままにはできないのだ。
いつか、必ず剥がれてしまう。そして、その時がきっと、今なのだ。
風呂に入る前、見てしまった。
机の上に無造作に置かれた離婚届を。
髪の毛を流した後、石鹸で泡立てたタオルを使って体を擦る。
忌々しいあの臭いを落とすために。




