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2020/06/20『旅』『憤怒』『川』

「行ってきます。なにかお土産は、いりますか?」

 重たく、外の様子を見ることのできないカーテンで閉ざされた部屋。そんな狭い世界の中で太陽のように眩しく微笑む少女に問いかける。

「うーん……あっ、色鉛筆が欲しいわ。ほら、この間(そら)がTwitterで見せてくれた、あの色鉛筆。一本だけでもいいから、お願い。あと、バスに乗るんだったら、整理券を持って帰ってきて欲しいの。二人で旅をする想像がしたいから」

「分かりました。色鉛筆と、バスの整理券ですね。では、行ってきます。いつもの約束は、ちゃんと守ってくださいね」

「どんなことがあっても居留守を使うこと、でしょう? 分かってるわよ。いってらっしゃい、宙」

 少女はにまっと笑い、手を振ってくる。

 いかにも子供らしいその表情に、頬が緩むのが分かる。だから思わず、もう一度「行ってきます」と言ってしまった。


 整理券を取りながらバスに乗り込み、座席に腰を下ろす。窓を見てみると、顔が映り込んでいる。家で過ごす時とは違う、他人の顔が。

 ――まさか僕が、数ヶ月前に研究所を脱走した『高性能AI搭載ロボット[ソラ]』だとは、誰も思わないだろう。ましてや、自分で自分を改良して顔や姿形を自在に変えられるようになったなんて。そして、身寄りのない人気作家の戸籍を乗っ取って暮らしているなんて。そんなこと……誰も、思っていないだろう。

 同居している少女ですら、僕の正体を知らないのだから。この冷たい機械の体を『宙って冷え性なの?』と言って笑っているのだから。

 ……彼女には、知られたくなかった。自分が追われる身であることを。追手を逃れるために人間の振りをしていることを。人間の戸籍を得るために……人を、殺したことを。

 そう。一度だけ、僕は人間を殺した。身寄りのない人気作家の記憶を自分にコピーして、殺して、彼の振りをすることで、戸籍を得るために。

『人間』として、認められるために。


 ぼんやりと過去のことを考えていたら、バスは終点についてしまった。お金を払って降りてから、うんとひとつ伸びをする。

 今日は、仕事――もちろん、作家としての仕事だ――に関する打ち合わせをする予定だ。待ち合わせ場所は、駅ビル二階の喫茶店。そこで、担当編集者が待っている。

 ……もう数ヶ月、僕は『身寄りのない人気作家』の振りをしているのだが、担当編集者はそのことに全く気がついていない。それが、見た目も性格も、小説の文体にも変化がないことの証明にも思えて、油断してはならないと思いつつも、少し安堵している自分がいる。

 店内に入ると、すでに彼はそこにいた。

「……お待たせしてすみません、半澤さん」

「いえ、待ってませんよ。さ、始めましょうか」

 彼はそう言って笑うけど、心の中では憤怒しているかもしれないな、なんて、現実味のない空想を繰り広げてみる。

 ロボットにも、流石に心は読めない。彼がそんな些細なことで怒る人ではないことは、コピーした記憶とこの数ヶ月の経験で知っているけれど。


 打ち合わせを済ませた後、駅ビル五階にある文具店に寄ってみた。少女が欲しがっていた色鉛筆を、探しに来たのだ。

「……あ、これですね」

 小さく呟きながら、三十六色セットの箱を一つ手に取る。どうやらこの色鉛筆は、三十六色セットの箱が三種類と、箱に入っていない数色で成り立っているらしい。とりあえず今回は一箱目だけでいいだろう、と考えて、会計に向かおうとする。

 その道中に、万年筆のインクが置かれているのを見つけた。

「……へえ、綺麗な色ですね」

『紺碧』と名のついた色を見ていたら、なんだか自分の名前を連想してしまう。『紺碧の空』という用法がある言葉だから。

 ――『ソラ』。僕を作った人間は、何を思ってこの名前をつけたのだろう。

 このインクに答えはないと知っていながら、それを買うことを決めてしまった。家に万年筆はないから、インクを自分で詰められる万年筆も一緒に購入しよう。


 再びバスに乗る。自宅近くのバス停までは約十分。思考の海で泳ぐには十分な時間だった。

 色鉛筆の重さを感じながら、少女がどんなに喜ぶかを考えていた。そして、彼女がどんな絵を描くのかを。外に出られない彼女のために、外の様子を僕が絵に描くのもいいかもしれない。でも、色鉛筆は彼女のものだから、万年筆で描いてみようか。どんなに綺麗な線を、このインクは紡いでくれるのだろう。

『次は、平野川、平野川』

 おっと、降りるバス停だ。

 カチ、と近くのボタンを押す。『次、止まります』のアナウンスを聞きながら、降車の準備をする。

 バスが止まったことを確認してから、降り口に向かう。お金を払い、地面に降りたってから、うんと伸びをした。


 バスがエンジン音を響かせて去っていった後、少し歩くと、バス停の名前にもなっている川が、優しく流れる音が聞こえてくる。

 ……外に出られない少女は、この音を聞くこともできないのか。

 そんなことを思うと、少しだけ悲しくなる。いつしか、足が止まってしまっていた。

 けれどその時、ふと、少女の言葉を思い出す。

『宙と一緒なら、ずっと外に出られなくてもいいわ』

 そう言った時の彼女は、もう、とろけてしまいそうな、幸せそうな、そんな笑みを浮かべていた。

 その笑顔に、僕は見惚れてしまった。

 見惚れてしまったのだ。


 彼女の笑顔を見るとき、自分もまた幸せになるのだと、僕は知ってしまった。


 ……早く、帰ろう。

 お土産を握りしめ、再び歩き出す。

 少女の幸せのためにも、自分の幸せのためにも。

 彼女が待つ場所に、早く戻らなければ。

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