2020/06/17『サバンナ』『現実』『メモ』
「は……?」
呆けた音が、口から零れ落ちる。
幻でも、見ているんじゃないかと思ってしまう。
――サバンナの真ん中に、グランドピアノ。
そんなの、現実ではありえない。
ありえない、はずなんだ。
手の甲をつねり、その痛みを感じながら、ゆっくりと足を踏み出した。
グランドピアノに向かって。
軽やかな音が、風に乗って届いてきた。
「な……なんで、この曲が」
耳を、疑った。
世に出ることもなく、録音したデータも存在しない、楽譜も失われてしまった、そんな音楽が流れてきたのだから。
――走った。
走らずにはいられなかった。
一人の女性が、ピアノを奏でていた。
その人のことは、忘れようがなかった。
「――あら」
その人は手を止めると、こちらを振り向いて笑う。
「きっと会えると思っていたわ。よかった、もう一度会えたのね……こんなに大きくなって」
「お母さん……」
遠い過去、病気で死んだはずの母だった。
「今、弾いてたのって」
「あら、覚えてる? そう、母さんがあなたのために作った曲。久々のピアノだったけれど、指がちゃんと覚えててくれたみたいで弾けちゃったわ」
なんてことないように、自分の細い指を眺めながら得意げな顔になる母。
もう一度鍵盤に手を置いて、音を奏でだす。――なんて懐かしくて、恋しい光景だろうか。
「ねえ、覚えていてね」
音色に身をゆだねながら、歌うように、呟くように、母は言う。
「死はね、私たちが出会ったという縁を切ることはできないのよ。絶対に私たちは、もう一度会うことができる。もう会えない人たちにも、ね」
目覚ましの音にたたき起こされる。今日はなんだか、起きるのが惜しかった。
――いい夢を、見たな。
目覚めてしまったから、夢の内容はもうおぼろげなものになっていた。けれど、『夢日記』と名付けたメモ帳を、今日も手に取る。
『2020/06/17 サバンナ。ピアノの音。優しい声が「もう会えない人たちにも必ず会える」みたいなことを言っていたような気がする。このことを忘れないで、と。』




