2020/06/06『黒』『人肌』『甘い』
元喫煙席のエリアには、誰もいなかった。
栗色をしたトレーを手に、深呼吸。ほんのりと煙草の香りがして、心地よかった。
一番奥にあるカウンター席に腰かけ、アイスのカフェラテをかき回す。白黒のグラデーションが均一な茶色になるまで混ぜたら、ランチタイムの始まりだ。
パンが二つとドリンクで五百円。なんてお手軽なんだろう。値段も量もちょうどいいから、何度もこの喫茶店に通ってしまう。ここに来るのが何回目かなんて、もう数えていない。
でも、この席に座るのは、初めてだ。
仕方がない。もうすぐ二十歳とはいえ、まだ未成年。喫煙席に座ることは不可能だった。
ほのかに漂う煙草の苦い香りを楽しみながら、トマトシチューブレッドにかぶりつく。口の中に広がった爽やかな酸味に、思わず口角が上がってしまう。
「――美味しい」
ぱくり、ぱくり。時々カフェラテをごくり。食事を楽しみながら、ふと、考える。
煙草を吸ったことはないし、吸いたいとも思えないのに、どうしてこの香りが好きなんだろう、と。
……きっと、父の影響だろう。
受動喫煙を気にしてか、いつも家の外か換気扇の下でしか吸わないけれど、服や体や、部屋にほんのりと煙草のほろ苦い香りが残っていた。
幼い頃、父に抱っこしてもらった時も、泣いている時に温かな手で背中を撫でてもらった時も、えらいえらいと褒められた時も、煙草の香りはすぐそばにあった。……そうか、だから好きなのか。
人肌の温かさと共にある記憶だから。
気がつくと、手に持っていたパンはもうなくなっていた。美味しかったな、と思いつつも、もう少し味わえば良かった、とほんのり後悔した。
パンと後悔の味をカフェラテで流して、次はチョコを包んだクロワッサンをいただく。
かりっ、さくさく、という食感は、何度食べても楽しい。しょっぱいものの後だからか、チョコの甘さが余計に引き立って、幸せな味がした。ずっと甘いと味覚が麻痺してしまうから、時々苦めのカフェラテで口の中をリセットするのが、チョコクロワッサンを最後まで楽しむコツだ。
「――ごちそうさまでした」
そっと手を合わせてから、まだ半分ほど残っているカフェラテを一口。そして、レジカウンターで貰ったガムシロップをプチッと開け、とろりと一つ流し込んだ。
……本当は、ガムシロップの甘さは苦手だ。甘いものは好きだが、私の好みは砂糖の甘さ。けど……今日は暑いからとアイスのカフェラテを頼んでしまったのだから、仕方がない。
お日様色のストローでかき混ぜ、一口。どうしても馴染めない甘さに、次からはホットのカフェラテに戻そうと決めた。




