2020/05/26『コーヒー』『海』『本』
波が押し寄せて、引いてを繰り返す。
潮の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
「魔女さん、来たよ」
海に向かってそう呼びかけると、魔女さんの優しくて、でも少ししゃがれた声が聞こえた気がした。
『いらっしゃい、茉美ちゃん』
ほんのりと、コーヒーの香りがした気がした。
昔、私が中学生だった頃。
なぜか、学校に行けなくなった時期があった。
特にいじめられていたわけではない。
けれど、なんとなく居心地が悪かった。
自分だけ、仲間外れのような。
一人だけ、浮いてしまっているような。
苦しくはなかった。けれど、楽しくもなかった。
ある日、学校に行こうとすると足が動かなくなった。
足も心も、鉛のように重たくて。
けれど、家には帰りたくなくて。
そんな時、私は『魔女さん』の家に行った。
『魔女さん』の戸籍上の名前は乾まり。けれど本名はマリーというのだと、彼女は言っていた。
どこか海の向こうの街で生まれた人の血を引くから、そういう名をつけられたらしい。けれど、その名前のせいでいじめられることもあったから、大人になってから改名して、音だけでは日本人の名前に聞こえるようにしたのだという。
両親のどちらか、「どこか海の向こうで生まれた人の血を引く」人が『魔女』と呼ばれる血統の人だったらしい。だから、自分も魔法が使える『魔女』なのだと彼女は言っていた。
『魔女さん』と初めて会った日のことはいまだに忘れられない。
学校に行けず道で立ち尽くしていた私に、彼女はこう声をかけてきた。
「あら、心が悲鳴をあげているじゃない! そんな時は休まなきゃダメよ。家に帰りたくないなら、うちに来ない? 私、そこの角の家に住んでいる乾まりっていうんだけど」
何も事情を話していないのにも関わらず、彼女は私の考えていることを言い当ててきたのだ。
あまりに疲れていたからだろうか、すんなりとその言葉を聞き入れ、私は彼女についていった。
それからは、毎日のように『魔女さん』の家に通った。私がやってくると、彼女はいつも「いらっしゃい」と微笑み、そして温かなコーヒーを淹れてくれた。使い込まれて艶を放つ木の机には、いい匂いのするクッキーをカゴに入れて置いてくれていた。
コーヒーを飲み、クッキーをつまみ、私は毎日『魔女さん』と話をした。
自分のこと。家族のこと。友達のこと。先生のこと。将来の夢。学校の息苦しさ。
どんなにつまらない話でも、彼女は黙って聞いてくれた。そして、必ず心のこもった相槌を打ち、返事をしてくれた。
一緒に草花がたくさん植えられた庭に出ることもあった。私に分からなかったけれど、そこにある植物は全て薬草だと『魔女さん』は教えてくれた。
『魔女さん』は毎日、違う植物を少しずつ採取した。そして、それで私に特別なハーブティーを作ってくれたのだ。もちろん、魔法を使って。
「疲れた心を癒す」ものもあれば、「幸運を引き寄せる」もの、「勇気を引き出す」なんてものもあった。
私が体調を崩しかけている時には、庭の薬草で薬を調合してくれた。未来を予知して「これ、きっと今晩役に立つからね」などと言って薬を手渡してくれることもあった。その予知が外れたことは、一度もない。
『魔女さん』の家に通うようになって、どれだけ経ったのだろう。ある日、彼女は「明日から旅に出るの」と言った。
遠い海の向こうの街で、魔女の集会があるから、それに出席するの、と笑っていた。
「何しろ魔女の集会は長く続くものだから、しばらくは帰ってこられなくなるわ。残念だけど……何日か、会えなくなるわね」
『魔女さん』に会えないことが悲しくて泣いた。逃げ場がなくなることが苦しくて泣いた。
「嫌だよ、そんなの。ここにいて」
「ごめんね、茉美ちゃん。けれど、魔女は全員が出席する決まりなのよ。そして、人間を連れていけない決まりもある……どうしても、何日かは会えないわ」
あまりに私が泣き続けるものだから、『魔女さん』は私に魔法をかけてくれた。
「明日からの毎日が、幸せでいっぱいになる魔法よ。これでも明日からの毎日が辛かったら、家の鍵を預けておくから、ここにいつでもいらっしゃい。私はいないけれど、あなたの心の逃げ場になるはずだから」
そう言って、金色に輝く鍵を私に渡してくれた。
「私が帰ってきたら、返してね」
――鍵は返せずじまいだ。
『魔女さん』は、遠い海で死んだから。
彼女がいなくなってからというもの、不思議と学校に行けるようになった。クラスで浮くことも、一人になることもなく、楽しい毎日を過ごせていた。
そんなある日、登校中に『魔女さん』の声を聞いた。
帰ってきたのだ、と思い振り返ったが、彼女はいなかった。
『茉美ちゃん、時間がないからよく聞いてね。
……私は今、遠い海で死にかけているの。きっと、どんな魔法を使っても私は助からないわ。魔法にも、限界があるの……』
驚きで、声が出なかった。
『私の家は、あなたにあげる。大切にしてね。そして大切な茉美ちゃんに、最期の贈り物をさせて。
……いつだったかに、夢を教えてくれたでしょう? それが叶うように、おまじないをしてあげる』
私なんかのためでなく、自分のために魔法を使えばいいのに、とその時は思ったけれど、あとでゆっくり考えると『自分のために魔法を使っても助からないなら、あの子のために』と思ってくれたのかもしれない、と気づいた。
『幸せに生きてね、茉美ちゃん』
――それが『魔女さん』の、最期の言葉だった。
あれから何年も経った今、私は『魔女さん』にお礼を言いたくて海に来ている。
「魔女さん、ありがとう。あなたのおかげで作家になりたいっていう夢が叶ったの。ほら、これが私の書いた本だよ。綺麗でしょう?」
高々と本を掲げたあと、私はそれを海に流した。
こうすれば『魔女さん』に届くだろう、と思ったのだ。なんとなくの直感でそうすることを決めてしまったが、悔いはなかった。
「今ね、あなたの家に住んでいるの。私には使い方が分からないけれど、薬草たちも元気だよ」
最後に、思いっきり叫んだ。
「魔女さん、茉美は今、本当に幸せだよ!」
『ありがとう、茉美ちゃん』
そんな声が、聞こえた気がした。




