表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
208/430

2020/05/26『コーヒー』『海』『本』

 波が押し寄せて、引いてを繰り返す。

 潮の香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。

「魔女さん、来たよ」

 海に向かってそう呼びかけると、魔女さんの優しくて、でも少ししゃがれた声が聞こえた気がした。

『いらっしゃい、茉美ちゃん』

 ほんのりと、コーヒーの香りがした気がした。




 昔、私が中学生だった頃。

 なぜか、学校に行けなくなった時期があった。

 特にいじめられていたわけではない。

 けれど、なんとなく居心地が悪かった。

 自分だけ、仲間外れのような。

 一人だけ、浮いてしまっているような。

 苦しくはなかった。けれど、楽しくもなかった。

 ある日、学校に行こうとすると足が動かなくなった。

 足も心も、鉛のように重たくて。

 けれど、家には帰りたくなくて。

 そんな時、私は『魔女さん』の家に行った。


『魔女さん』の戸籍上の名前は(いぬい)まり。けれど本名はマリーというのだと、彼女は言っていた。

 どこか海の向こうの街で生まれた人の血を引くから、そういう名をつけられたらしい。けれど、その名前のせいでいじめられることもあったから、大人になってから改名して、音だけでは日本人の名前に聞こえるようにしたのだという。

 両親のどちらか、「どこか海の向こうで生まれた人の血を引く」人が『魔女』と呼ばれる血統の人だったらしい。だから、自分も魔法が使える『魔女』なのだと彼女は言っていた。


『魔女さん』と初めて会った日のことはいまだに忘れられない。

 学校に行けず道で立ち尽くしていた私に、彼女はこう声をかけてきた。

「あら、心が悲鳴をあげているじゃない! そんな時は休まなきゃダメよ。家に帰りたくないなら、うちに来ない? 私、そこの角の家に住んでいる乾まりっていうんだけど」

 何も事情を話していないのにも関わらず、彼女は私の考えていることを言い当ててきたのだ。

 あまりに疲れていたからだろうか、すんなりとその言葉を聞き入れ、私は彼女についていった。


 それからは、毎日のように『魔女さん』の家に通った。私がやってくると、彼女はいつも「いらっしゃい」と微笑み、そして温かなコーヒーを淹れてくれた。使い込まれて艶を放つ木の机には、いい匂いのするクッキーをカゴに入れて置いてくれていた。

 コーヒーを飲み、クッキーをつまみ、私は毎日『魔女さん』と話をした。

 自分のこと。家族のこと。友達のこと。先生のこと。将来の夢。学校の息苦しさ。

 どんなにつまらない話でも、彼女は黙って聞いてくれた。そして、必ず心のこもった相槌を打ち、返事をしてくれた。

 一緒に草花がたくさん植えられた庭に出ることもあった。私に分からなかったけれど、そこにある植物は全て薬草だと『魔女さん』は教えてくれた。

『魔女さん』は毎日、違う植物を少しずつ採取した。そして、それで私に特別なハーブティーを作ってくれたのだ。もちろん、魔法を使って。

「疲れた心を癒す」ものもあれば、「幸運を引き寄せる」もの、「勇気を引き出す」なんてものもあった。

 私が体調を崩しかけている時には、庭の薬草で薬を調合してくれた。未来を予知して「これ、きっと今晩役に立つからね」などと言って薬を手渡してくれることもあった。その予知が外れたことは、一度もない。


『魔女さん』の家に通うようになって、どれだけ経ったのだろう。ある日、彼女は「明日から旅に出るの」と言った。

 遠い海の向こうの街で、魔女の集会があるから、それに出席するの、と笑っていた。

「何しろ魔女の集会は長く続くものだから、しばらくは帰ってこられなくなるわ。残念だけど……何日か、会えなくなるわね」

『魔女さん』に会えないことが悲しくて泣いた。逃げ場がなくなることが苦しくて泣いた。

「嫌だよ、そんなの。ここにいて」

「ごめんね、茉美ちゃん。けれど、魔女は全員が出席する決まりなのよ。そして、人間を連れていけない決まりもある……どうしても、何日かは会えないわ」

 あまりに私が泣き続けるものだから、『魔女さん』は私に魔法をかけてくれた。

「明日からの毎日が、幸せでいっぱいになる魔法よ。これでも明日からの毎日が辛かったら、家の鍵を預けておくから、ここにいつでもいらっしゃい。私はいないけれど、あなたの心の逃げ場になるはずだから」

 そう言って、金色に輝く鍵を私に渡してくれた。

「私が帰ってきたら、返してね」


 ――鍵は返せずじまいだ。

『魔女さん』は、遠い海で死んだから。


 彼女がいなくなってからというもの、不思議と学校に行けるようになった。クラスで浮くことも、一人になることもなく、楽しい毎日を過ごせていた。

 そんなある日、登校中に『魔女さん』の声を聞いた。

 帰ってきたのだ、と思い振り返ったが、彼女はいなかった。

『茉美ちゃん、時間がないからよく聞いてね。

 ……私は今、遠い海で死にかけているの。きっと、どんな魔法を使っても私は助からないわ。魔法にも、限界があるの……』

 驚きで、声が出なかった。

『私の家は、あなたにあげる。大切にしてね。そして大切な茉美ちゃんに、最期の贈り物をさせて。

 ……いつだったかに、夢を教えてくれたでしょう? それが叶うように、おまじないをしてあげる』

 私なんかのためでなく、自分のために魔法を使えばいいのに、とその時は思ったけれど、あとでゆっくり考えると『自分のために魔法を使っても助からないなら、あの子のために』と思ってくれたのかもしれない、と気づいた。

『幸せに生きてね、茉美ちゃん』

 ――それが『魔女さん』の、最期の言葉だった。




 あれから何年も経った今、私は『魔女さん』にお礼を言いたくて海に来ている。

「魔女さん、ありがとう。あなたのおかげで作家になりたいっていう夢が叶ったの。ほら、これが私の書いた本だよ。綺麗でしょう?」

 高々と本を掲げたあと、私はそれを海に流した。

 こうすれば『魔女さん』に届くだろう、と思ったのだ。なんとなくの直感でそうすることを決めてしまったが、悔いはなかった。

「今ね、あなたの家に住んでいるの。私には使い方が分からないけれど、薬草たちも元気だよ」

 最後に、思いっきり叫んだ。

「魔女さん、茉美は今、本当に幸せだよ!」


『ありがとう、茉美ちゃん』


 そんな声が、聞こえた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ