2020/04/30『揺らぎ』『伝説』『辛い』
伝説の歌姫、柊莉乃。
黒々とした長い髪を揺らし、どこか青みがかって見える不思議な黒い瞳を輝かせ、彼女は今日も歌う。
彼女の歌声は、聴く人全てを魅了する、艶やかで美しいものだった。
だからだろうか、莉乃は「セイレーン」の異名を持っていた。
この世のものとは思えないほど綺麗な歌で人を惑わす、海の住人の名を。
今スポットライトを浴びて輝く莉乃は、所属事務所の所長に拾われたのだと、とあるバラエティー番組に出演した際に語っていた。
「……実は、昔は私、歌が下手だとずっと思っていました。歌うことは好きだったけれど、いつも両親は私の歌を聞いて、下手くそだ、音痴だと罵っていたんですね。それからは、人前では歌わなくなりました。学校の音楽の授業では、歌えないふりをしていました。歌が下手な友達が他の子にからかわれているのを見て、わたしが歌ったら、あんなふうに嗤われるんだと思うと辛くて……」
一つ目の転機は中学生のころだった、と彼女は言う。
「廊下で一人歌っていたら、音楽の先生がたまたま聞いていて……涙を流しながら私の手を取って、あなたはなんて素晴らしい歌声の持ち主なの、と言ってくださったんです。歌声を褒められたのは、この時が初めてでした。それからは、人前でも歌を歌うようになりました。少しだけ、自信をもらえたんです。友達もみんな、莉乃ちゃんみたいに歌いたいなって言ってくれて。歌手になりたいと思うようになったのは、この頃でした」
高校は市内トップ校に進学したという。その理由は、行ける大学の選択肢を増やすため。
「高校で進路の話をするときに、私は音大を志望しました。けれど、両親は猛反対しました。あんたの歌は下手だから誰も聞いてはくれないよと、あんたは私らの仕事を継ぐために生まれてきたんだから、と。両親の言葉を聞いて、気づきました。両親は私が幼いころからずっと、わたしの歌声を恐れていたのではないかと。もし周りから評価されて歌手を目指してしまったら、自分たちの仕事を継ぐ人がいなくなる、そのことを恐れたのではないかと」
当時のことを思いだしたのか、青みがかった黒い目から、ほろりと彼女は涙を流した。
「私の心は揺らぎました……どうして私は生まれてきたんだろう、と。私はこんなにも歌いたくて、歌手になりたくて仕方がないのに、両親はそこに私の生まれた意味はないといったんです。自分たちの代わりとなるべき人として生まれたんだから、と……」
結局、彼女は夢を諦めたのだという。そうしないと絶縁すると言われたのだ、と莉乃は言った。
大学は経営学部のある場所にした――いや、そうさせられた、というのが正しい――そうだ。
「けれど歌うことだけはやめられなくて、ずっと続けていました。大学の構内、駅の近く、街中……家以外の場所でなら、たくさん歌っていました。奇跡が起こったのは、大学二年生、二十歳の誕生日のことです。たまたま、歌っていた私の近くを、今の事務所の所長さんが通ったんです。私の歌声を聞いた所長さんは、涙を流しながら私の手を取って『君の歌は素晴らしい。うちに来てくれないか』と言ってくださったんです。――こうして私は、今ここにいます」
今日も、セイレーン・柊莉乃は歌っている。
満面の笑みを浮かべながら、どこかで、魔性の歌声を響かせる。




