2020/02/14『紫』『机』『憤怒』
二月十四日。今日はバレンタインデーだ。
「敏行、今日のバイトは五時までだっけ?」
「おう。遥は九時過ぎるんだっけか。夜道には気を付けるんだぞ」
「分かってるって」
とあるアパートの一室で、仲睦まじい様子で語らう二人。
「じゃ、先に行ってくるわ」
「いってらっしゃい!」
神崎遥は、同棲している飯島敏行を見送った後、一通りの家事を済ませ、机の上に小さな箱を置いた。
黒く大人びたデザインの箱には、バラのように真っ赤なリボンがかかっている。
その近くに「大好きなとしゆきへ」と書かれた封筒を置くと、遥はにっこりと笑った。
「敏行、喜んでくれるかなあ……あっ、私もそろそろバイト行かなきゃ」
時計を見た彼女は、あわてて鞄を摑み、家を出た。もちろん、戸締りはしっかりとして。
ガチャリ、鍵の閉まる音が、誰もいない空間に響いた。
女子大生の神崎遥と、同じ大学に通う飯島敏行は、去年の六月に付き合い始めたカップルだった。十一月には同棲も開始し、二人は幸せな毎日を過ごしていた。
遥は今日、敏行にバレンタインのチョコをプレゼントする予定だった。しかし、敏行のバイトの都合と自分のバイトの都合上、どうしても一緒にいられる時間が短いことに気づいた彼女は、リビングにチョコと手紙を残すという手段をとった。
――敏行はきっと喜んでくれる。帰ってきた私に「ありがとう」と抱き着いてくるだろうか。いや、もしかしたらメールをよこしてくるかもしれないな。
そんなことを考えながら、遥は出かけて行った。
さて、時刻は五時半を少し過ぎたころ。
敏行が、バイトを終えて帰ってきた。
「ただいまー……ん? これは……チョコか!」
リビングに入ってすぐ、遥の用意したものに気付いた彼は箱を手に取り、ぎゅっと抱きしめた。そして手紙を開封し、彼女の愛が詰まった言葉を受け取った。
「遥が帰ってきたら、お礼を言わないとな。……チョコは先に食べようかな」
いそいそと箱を開けると、ふわりと甘い香りが漂ってくる。それを胸いっぱいに吸い込んでから、いただきますと呟いて、美しい細工がされたチョコを手に取り、口を開けた。
――ごとん。
鈍い音を立てて、チョコは、床に落ちた。
「ただいまー」
さらに時は過ぎ、十時半。遥が帰宅した。が、先に帰っているはずの敏行からの反応がない。
「……あれ、どうしたんだろ。としゆきー?」
首を傾げつつ彼の名を呼び、リビングに入った遥は、絶句した。
――敏行が、床に倒れていたのだ。しかも、紫色のリボンを、首に結ばれた状態で。リボンは律儀に蝶々結びになっていたが、皮膚に食い込むほどきつく縛られていた。
「……敏行……? としゆきっ!」
半ば狂ったように彼の名を呼びながらリボンをほどいた遥。しかし、敏行はすでに息絶えていた。
「どうして……どうして!」
『君が他の男を好きになるからいけないんだよ』
彼女の耳元で、誰かが囁く。甘くて優しくて、なぜか背筋が凍りそうになる声。
「――遥稀」
『そうだよ、僕だよ。よかった、忘れてなかったんだね』
嬉しそうに笑う声に、遥は恐る恐る、問いかける。
「遥稀、あなたは……去年のバレンタインの日、死んだでしょう?」
遥稀は、遥の元カレだった。
遥と遥稀は、どちらからも別れを切り出すことなく、離別した。
遥稀の事故死、という形で。
『僕が死んだ? 嫌な冗談は言わないでよ。僕はここにいるよ。ずっと、遥のそばにいるよ』
「嘘じゃない! 私、遥稀のお葬式にも出たのよ」
『嫌な夢でも見たんじゃないのかい? 僕はずっと遥と一緒にいるのに、君はいつの間にか僕のことを見なくなり、声を聞かなくなり、僕のことを忘れたかのように他の男に恋をして、同棲までして……あんな男の、どこがいいって言うんだい?』
――駄目だ、何を言っても通じない。遥は首を振った。
だって、遥稀の目には、怒りしかない。
自分が死んだことを知らないのか忘れたのか、とにかく自分の死に関する記憶がないことが、遥を奪った男への怒りが、そして何より、遥を愛する気持ちが、遥稀を狂わせ、怒りを爆発させる要因となったようだった。
遥稀は紫色のリボンを自分の小指に結び付けると、反対側の端を遥の小指に結んだ。
『これからも、一緒にいようね』
――ああ、遥稀は紫色が好きだったな。
そんなことを考えながら、遥は頷くことしかできなかった。
得体のしれない恐ろしさがこもった笑みを向けられて、恐怖で震えながら。
追記:この小説は多少の加筆・修正をしたのち、ノベルアップ+にて「運命の糸は、深い紅」というタイトルで重複投稿しております。




