83.赤薔薇の蕾1
アレクセイ視点です。
俺は足を止めると、静かに星空を見上げた。走る心臓はまだ落ち着かない。肺一杯に大きく空気を吸い込んだが、鼓動はまだ、走るのを止めてはくれなかった。
「だからこういうのは、向いてないんだ」
口からは大きなため息が出た。誰もいないにも関わらず、思わず呟いてしまう程には冷静ではないらしい。俺はそれを消すように、頭を左右に何度も振った。
俺自身、嘘が下手なのは分かっている。今回だってうまくやれていたのかも怪しい話だ。それに、結局俺はロザリーの為に何もしてやれなかったのだという事実に、もう一度ため息をついた。
たかが芸術祭に、これ程苦しめられることになろうとは予想もしていなかった。
生まれた時から王族として生きる俺にとって、人前に出ることはさほど問題ではない。演技をするとなれば、少し勝手は変わってくるが、今回の演劇は『王太子殿下』の登場が重要なことであって、俺の演技力は今回重要視されていないのだろう。ならば、適当にこなして終わらせてしまえば良い。そんな風に思ってさえいた。
今回の芸術祭の成功は、俺の出演が鍵を握ることは十分に承知している。しかし、俺の出演があんな風にロザリーを巻き込むことになろうとは。男役ならまだしも、女役。さすがにそれは弊害が大きすぎる。どうにかして彼女を守らなければならない。俺はこの数日、ずっと対策を考えていたのだ。
しかし、あがけばあがく程上手くいかない。いっそのこと、王太子殿下という権力を使って演劇自体を中止してしまおうかとさえ考えた。そんなことをすれば、非難の嵐で有ったことは、俺にでもわかっている。今回のロザリーの決断は正しい。いや、今は他に選択の余地が無かったとも言える。
彼女の目はいつだって真っ直ぐで、何事にも逃げない強さを感じる。だからこそ、俺が守らなくてはいけない。
俺は風に揺れる青い花を見ながら、先日の母との会話を思い出した。
◇◇◇◇
アンジェリカ達に、芸術祭の話を聞かされた日のことだ。俺は、芸術祭について考えを巡らせていた。どうしたらロザリーを守ることができるのか。そのことばかり考えてしまう。あの日の俺も、静かに風に揺れる青い花を見つめていた。
「あら、今日は一段と機嫌が悪いのね。もう少しにっこりなさいな」
「母上」
突如現れた母の姿に、口からこぼれそうになる「なぜ、こんな所に」という質問は、寸での所で留めた。ここは、王宮の庭園。制約の多い母と言えど、散歩くらいするのだろう。少し離れた所には、数人の侍女や護衛が控えているのが見て取れる。
「どうかしましたか?」
出来ることなら、ただの通りすがりの挨拶であって欲しい。今悠長に話をしている暇等無いに等しいのだから。だが、母はそんな俺の心情をも見透かすように笑った。
「あら、息子と話しをするのに理由が必要?」
「いえ、そのようなことはありません」
「そう? 良かったわ。では、母の相手をして頂戴な」
母の唇は、綺麗な弧を描いた。母の笑顔はいつだって有無を言わせない強さがある。俺は今までこの笑顔に勝てたことが無い。歩き出した母の後ろについて歩くことだけが、今の俺にできることだ。後ろから着いて行く俺には何も言わず、母は真っ直ぐ歩いた。俺の後ろには侍女や護衛が続く。けれど、足音以外が聞こえることは無い。居心地の悪さに、俺は早く解放されることばかりを願っていた。
母が目指した先は、温室であった。母の気に入りの場所はいくつかあるが、ここも好きな場所であると聞いたことがある。この温室に入れるのは、数少ない選ばれた者だけなのだとか。
母と共に温室の中に入ると、当然の様に二人分のお茶の準備ができていた。もしかしたら、母にとって俺とのお茶は決定事項だったのかもしれない。口から漏れ出そうになるため息をグッと飲み込み、これから訪れるであろう苦痛の時間の為に、少し背筋を伸ばした。
「さあ、アレクセイ。貴方の大嫌いなお茶会をしましょう」
母はニコリと笑った。その笑顔は決して外行きの笑顔ではない。『可憐な王妃』の顔は今ここには無い。母は優雅に長椅子に座ると、隣の空席に俺を促した。
このお茶会は何杯飲み終わったら、解放されるだろうか。俺は、そのことばかり考える。母は楽しそうにティーカップを口元に運んでいるが、俺は今日何杯目になるかわからない紅茶にうんざりしていた。
どうして女性というのは、こうもお茶会が好きなのか。そういえば、ロザリーもカフェテリアでアンジェリカとお茶を飲んでいるという話を、時折耳にする。ロザリーが好きだと言うのなら、誘っても良いのかもしれない。思い返せば、二人でお茶会の真似事は、今までしたことが無かったのだから。
クリストファーと二人でお茶会などと考えれば、ごめん被りたい話だが、中身がロザリーであるなら話は別だ。俺はなかなか話出さない母をよそに、お茶会の計画を立て始めていた。
「あら、少し機嫌を持ち直したのね。大方、ロザリアのことでも考えていたのでしょうけれど」
母は心を読むことでもできるのか、はたまた俺が分かりやすいのか。眉を顰めると、母はコロコロと笑った。母の手元に有ったティーカップは既にテーブルに戻されていた。母の喉が潤ったのならば、ここから始まるのはただの長話か、はたまた説教か。
「貴方はもう少し、演技力をつけなさいな」
「演技力ですか」
母の言葉に、俺は頷くことしかできない。演技――それは、俺が一番苦手とするものだ。その自覚くらいはある。
「今まで逃げてばかりの貴方には必要の無いものだったのでしょう」
「そんなことは――……」
無いとは言い切れなかった。俺は静かに奥歯を噛み締めた。母は気にも留めていない様子で、胸元に垂れた髪を、手でクルクルと弄っている。
「アレクセイ、本当に不器用な子。そろそろ殻に篭っているのはおやめなさい。あのアカデミーはいわば小さな国。ただお嫁さんを探させる為だけに、貴方をあそこへ放り込んだわけではないのよ」
母の白くて細い腕が真っ直ぐに伸びた。俺の頬に微かに触れた白い手は、驚く程に冷たかった。
「己の力で王太子の仮面くらい用意なさい。好きな人を守りたいのなら」
母はどこまで知っているのか、これ以上踏み込んだ話をすれば、要らぬことを言わされそうで、俺は頷く程度で、何も言えなかった。
「そうだわ。今度の芸術祭は主演なのでしょう?」
「芸術祭の話をもう聞いていたとは」
「王妃の耳は大きいのよ」
母は不敵に笑う。どこまでの話が母に行っているのか。背中に冷や汗が流れた。乾いた喉を潤す為に、俺は冷め始めた紅茶を一気に飲み干した。
「芸術祭は、ひよっこの貴方にとっては良い練習の場になるでしょうね。貴方の周りには個性豊かな未来ある若者が多いわ。あの子達を貴方がどう使うのか、楽しみだわ」
きっと、母に試されているのだろう。俺の王としての器を。俺は小さく頷く。こんな事になるのならば、アカデミーに通う事など了承しなければ良かった。心の中で何度後悔しても、現状は変わらない。やるしか無いのだ。母は尚も言葉を続ける。
「芸術祭の演劇は、貴方のお父様が作った新しい伝統。それを守るのも、壊すのも貴方次第よ。貴方の持っている武器は、人を動かす力。その力をうまく使えるかどうか見せて頂戴な」
あの日の母の笑顔は、当分忘れないだろう。威厳有る父の顔よりも数倍は怖かったのだから。
◇◇◇◇
「人を動かす力か……」
風がふわりと優しく吹いた。青い花がゆらゆらと揺らめき、菜の花の香りが風に乗ってやってきた。俺は、香りの先にある別邸を見据える。
一際強く風が吹いた。その風はまるで、別邸に誘っているようにも感じたのだ。俺はふらりふらりと、見えない力に引かれるように、歩き出す。
「クリストファー」
俺は嫌いな男の名前を呼んだ。別邸の前には、まるで少女のような姿をした男が立っていた。
「お久しぶりです。殿下……いや、アレクセイ様?」