80.大きな手1
お待たせしました。
我が家で目立った夜会が催されるのは、実に六年振りのことだった。元々お父様が激務とあって、大きな夜会を開くことは少なかったけれど、お兄様と私が別邸に身を潜めてからは、その数少ない夜会すらなくなってしまったのだ。
特に、身を潜める原因となったお母様の誕生日は、我が家では禁句の様になっていた。別邸で過ごした五年間。私達はお母様の誕生日を祝う機会を与えられなかった。決まって春になるとお母様は臥せってしまうから。
だから、今日の夜会はお母様にとって最高の一日にして欲しい。それが私、いいえ、お兄様と私、そして、この屋敷で六年を過ごした全員の思いだと思う。
庭園よりも美しく彩られた本邸は、庭園よりも華やかだ。全ての花が今日を祝っている様で、私の頬が緩む。お兄様と私は、二人で本邸を歩いて回った。この日の為にありったけの花を注文したのはお父様だ。朝一番に何件もの花屋が花を抱えてやってきた。その花の多さに、私達もお母様も、この屋敷に仕える全員が驚いただろう。予想以上の花の量に、仕事が増えた使用人達は大忙しだ。
「いつもこんなに飾り立てていたかしら?」
お兄様が広間をぐるりと見回す。私もそれを追うように、一周ぐるりと回った。
「準備中はいつも別邸にいたし、夜会自体には出たことが無いからわからないな」
夜会当日は準備で忙しい。いつもにこやかに相手をしてくれていた侍女達が、わき目も振らずに働くのだ。思えば、同じ年の小さなシシリーですら駆り立てられていた。私達子供の相手ができるわけもなく、二人寂しく別邸に追いやれるのだ。
「残念だわ。私も参加したかった」
お兄様は私のすぐ隣に立った。お兄様の方に顔を向けると、少し寂しそうな瞳とぶつかった。今日の夜会にお兄様は出ない。デビューしていない『ロザリア』を表舞台に出すのは得策ではないと、お父様が判断したからだった。
「私も別邸で休んでいたいな」
「昔みたいに?」
「そう、昔みたいに」
あの頃は、ずっと憧れていた夜会。「早く大人になりたい」と、何度唱えたことか。お母様の夜会のドレスを見ては、素敵なドレスを着て夜会に出る日を心待ちにしていたものだ。けれど、一人で参加する今日は、嬉しくある反面、少し寂しかった。近くにいるのに一緒にお祝いできないなんて。
「私は嬉しいけど、今夜は駄目。シシリーとチェスをする約束をしているの。チェスは三人ではできないわ」
「そうか……それは残念」
「だから、私の分もお母様をお祝いしてね」
お兄様は私の気持ちを見透かしているのかもしれない。笑顔で私の頭を優しく撫でてくれたのだもの。
「わかったよ」
今日は特別な日だもの。笑顔でなかったら、お母様が悲しんでしまう。それに、今夜はきっと会える。
私は最後に見た殿下の不機嫌な顔を思い出す。今日こそキチンと話をしよう。そう、私は決意した。そして、私は花で溢れている広間をもう一度見回して、ゆっくりと息を吸い込んだ。
◇◇◇◇
流行りの楽師による演奏が、我が家の屋敷をより華やかにする。家名を背負った馬車がひしめき合う。いつも広く感じていた広間は、あっという間に人で埋まった。
祝いの言葉と、讃辞。挨拶に来る人は、皆同じような笑顔で、同じような言葉を残す。私の今日の最初の仕事は、お父様とお母様の後ろに立って、にこやかな笑みを作ることだった。
聞くところによると、最初は六年前よりも、こじんまりとしたパーティを予定していたらしい。けれど、どこを見ても『こじんまり』という言葉はとても似合わないように思えた。
「招待客を厳選すると、あちらこちらで火種が生まれるのよ。そんな時は手当たり次第呼ぶのが一番ね」
しれっと言ったお母様の言葉は、勉強になるような、ならないような、複雑な気持ちにさせられたのを覚えている。
私が挨拶から解放されたのは、作った笑顔が張り付いた後だった。残念ながら、まだ王妃様も殿下もいらっしゃってはいない。
今日、殿下は来ないかもしれない。少し落胆していると、お母様がこっそりと耳打ちしてくれた。お忍びの際も、皆に気を使わせてしまうという気遣いから、王妃様はいつも遅れてくるらしい。
会場は既に賑わっている。今日もまた、芸術祭の話で持ち切りなのだろうか。私は少し離れた所から、会話を楽しむ男女を静かに見守っていた。なんだか楽しく話しをする気分になれなくて、壁の染みに徹していたのだ。
それから程なくして、王妃様が殿下のエスコートで入場した。一斉に視線は扉へと向く。待ちに待った王妃様と殿下の登場には、会場が湧いた。私の胸は、人知れず一段と跳ねた。
王妃様をエスコートする殿下の姿は、実に堂々としていたけれど、どこか顔色が悪いように見えた。疲れているような、そんな雰囲気がある。対照的に王妃様はとてもにこやかだ。今にも走り出しそうな程、軽やかな足取りでお母様の元へと向かった。
「お誕生日おめでとう。今年は当日に祝えて嬉しいわ」
「ありがとうございます」
「六年も待ったのですもの。今日は六年分祝わせて頂戴な」
「ええ、楽しんでいって下さいませ」
王妃様とお母様は幸せそうに笑いあっている。二人の笑顔は、周りを巻き込んでいく。どんどん広がっていく笑顔を見ている内に、私も幸せな気分だ。自然と頬が緩んでしまったもの。
王妃様はお母様の横に腰かけ、本腰を入れてお話しする様だ。殿下は、お母様の元へ王妃様をお連れし、今日の仕事を終えたのだろう。すぐに離れていった。
彼は挨拶に来た相手に二言三言返事をすると、すぐに離れる。それを何度か繰り返していた。そして彼は一人になると、少し離れた所から、ぐるりと見渡している。左の方からゆっくりと何かを探すように。その様子に、私の胸が少し高鳴った。もしかしたら、私を探しているのではないかと思ったから。
私を見つけたら、どんな顔をするのかしら。殿下の顔が段々と私の方を向いてくる。最初にどんな言葉を贈ろうかと考えていると、紫水晶の瞳がぶつかった。彼はいつもと変わらない仏頂面だ。いつも通りの顔に、少し安心する。仏頂面を見ていると、会っていない間、何も無かったような気さえした。
殿下は人ごみの間をかき分けて、私の元までやってきた。
「長い急用でしたね。殿下」
「……そうだな」
「皆心配していました」
「すまない」
「それは、皆に言って下さいね」
「ああ」
殿下はバツが悪そうに唇を歪めた。『急用』が何だったのか、ここで良いものなのか。内容によっては二人きりの時に聞いた方が良いかもしれない。けれど、また明日から同じ様に『急用』ができたら目も当てられないではないか。
私が悩んでいる内に、殿下がさっさと話題を変えてしまった。
「ロザリーは……」
殿下は、また会場を見渡す。そうか、さっきも私ではなくて『ロザリア』を探していたのかもしれない。『ロザリア』のことを探してくれて、嬉しいような、私のことを探していたわけではないことに哀しいような、複雑な気持ちだ。
「残念ながら、今日は別邸で留守番です」
「そうか」
探していた割に、殿下の返事はあっさりとしていた。会いたかったわけではないのかしら? 彼の瞳を覗き込んだけれど、答えは見つからなかった。
「なんだ?」
「いえ、いつもの様に『会いたい』と言うと思ったので」
「そんなに会いたいと言っていたか?」
「ええ、結構」
「……そうか。そうかもしれないな」
ふいに殿下が顔を背けた。私の方からでは、プラチナブロンドが揺らめていることしか分からない。けれど、プラチナブロンドから出ている耳がいつもより赤く染まっている様な気がした。