72.陽だまりの誘惑
「アレク、手が止まっていますよ」
風が暖かくなるに連れて、庭園が華やかになってきた。庭園をゆっくりと散歩したい気持ちを抑えて、今日私は殿下と一緒にアカデミーに来ている。
一冬忙しかった代償は大きい。授業を休んだ分は、レポートと試験で賄うことになっていたのだ。朝から私は、王室専用サロンに籠りひたすらペンを走らせている。
最近、殿下が物思いに耽ることが増えた。ふと気づくと、ボーッとしている。今もまた、心ここに在らずと言った感じだ。
「あ、ああ」
「疲れているなら、今日は切り上げますか?」
「いや、大丈夫だ」
このままでは、きっと今日中に一つも片付かないだろうな、とため息をつきながら私は目の前の参考書を捲った。
手元のレポートが一つ片付いたところで、ふと顔を上げると紫水晶の瞳とぶつかった。何か思い悩んでいるような表情に、胸がドキリと震えた。
「……アレク?」
本当に今日はどうしたのか。悩みがあるなら相談して欲しい。私は首を傾げて見せた。
「いや、何でもない」
有無を言わさない態度で、殿下は手元に視線を戻したが、何でもないわけがない。開いた参考書が逆さまだ。
私は心ここにあらずな彼に、肩を竦めるしかなかった。けれど、彼の持つ紫水晶には既に私の姿など映っていない。逆さまの参考書だけが揺らめいていた。
予想通りレポートが白いまま、彼は剣術の授業を受けに行ってしまった。こんな状態で怪我でもしたら大変だと止めたけれど、「大丈夫」の一言で済ませられてしまってはどうしようもない。
広いサロンに一人きりになると、ガランとして妙に寂しく感じた。侍女が控えてはいるけれど、置物のように佇んでいて、気安く話しかける雰囲気ではないのだ。
こんな時は図書館に行こうかな。
私は一つ伸びをしながら、天井の豪奢な模様をなぞった。
図書館の書庫の奥。私にとって既に特別な場所となっていた。アカデミーの中はどこを歩いていても声を掛けられるというのに、何故かあの場所だけは誰も声をかけてはこない。まるで、不可侵領域のようなのだ。
時間を見つけては許可を得て、少しずつ絨毯やテーブルまで設置してしまった。既に、私の楽園と言える。
適当に楽園へ持ち込む本を見繕っていると、何人かの令嬢とすれ違った。図書館という場所柄か、小さく挨拶される程度。その居心地の良さに、いつもより頰が緩んでしまう。
あまりだらしのない顔を晒すと、『クリストファー』の名に傷がついてしまうから、気をつけないといけない。けれど、令嬢達は小さく「キャー」と声を上げて、楽しそうに去って行ったので、今の顔は問題無かったのかもしれない。
令嬢の背中を見送ると、一冊の小説を選んで、私は楽園へと向かった。毛足の長い柔らかな絨毯と、本を置くのに最適な小さな円形のテーブル。元々あった長椅子には、柔らかいクッションを付け足した。
春の柔らかな日差しが差し込み、空気の入れ替えの為に開けた窓からは心地いい風が流れ込む。日差しの差し込むこの場所は、本を保管するには適さないけれど、本を読む分には最高の楽園だった。
レポートで疲れた頭を和らげるように、小さな頃に読んだことがあった小説を捲る。自分自身が本を捲る音にすら心地よさを感じながら、冒険を主体とした物語に没頭した。
しかし、最近忙しかったせいだろうか、この暖かな日差しのせいだろうか。段々と眠気が勝り、文字が歪んできてしまった。
何度か瞬きをしたり、目を軽く擦ってみたりしたが、効果はあまりない。どうにか一頁捲った頃には、欠伸が口からこぼれてしまう程だった。
眠いわ。
書庫の奥とあって、人の足音すらしない。まるで別邸のサロンにでもいる心地良さだ。私はとうとう睡魔に逆らえず、瞼を閉じた。その後坂道を転げ落ちるのは簡単だった。寝心地の良い体制を探して、長椅子には寝転んだ挙句、読みかけの本は開いたまま、腹と腕で支える。
二人掛けの長椅子は、全身が入る程には長くなかったけれど、肘置きに足を掛けるとちょうどいい。
暖かい日差し、柔らかい風。そのまま夢の世界に旅立つのは、自然の理のようなものだと思う。私は、二人の友人以外は不可侵となっている楽園で、夢の世界へと旅立ったのだ。
どのくらいに眠ったのかはわからない。読みかけの小説が右手と腹の間から溢れ、床に落ちた鈍い音で目が覚めた。
「ん……」
私の声と重なるように、近くで聞き覚えのある声がして、驚いて目を見開く。霞む視界に最初に映ったのは、私の足元で腕を組んで眠る殿下の姿だった。私が横になっている長椅子を背もたれ代わりにし、こともあろうか絨毯の上に座り、長い足を組んで目を瞑っている。
何故ここにいるのかしら?
きっと、サロンに居ない私を探してここに来たのだろう。けれど、何故一緒に寝ているのか。
そっと音を立てないように身を起こし、椅子の端っこに腰掛け直した。彼はまだ眠りから目覚めない。床の上で眠らせておくのは、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。けれど、気持ち良さそうに眠っているところを無理に起こすのは、もっと申し訳ない。私は、絨毯の上に落ちていた本を手に取ると、眠る前に開いていた頁を探した。
規則正しい寝息が聞こえてくる。何と無防備な姿だろうか。プラチナブロンドよりも少し濃い睫毛が、目元に影を落としていた。
疲れがたまっていたのかもしれないわ。
今は真っ白だったレポートのことは忘れ、私は安らかな眠りの番をすることを決意した。
殿下の眠りから覚めたのは、小説も終盤に差し掛かる頃だった。段々と日差しが傾き始めた頃だ。
「ん……」
低い唸り声と共に眉間に皺を寄せたと思えば、薄っすらと目を開ける。状況を察することができていないのか、薄い目のまま周囲を見回していた。
「おはようございます。アレク」
「……ああ。寝てた……のか」
彼はまだ眠たそうに目頭を押さえている。
「相当お疲れだったんですね」
にっこりと笑って見せると、殿下はバツが悪そうに顔を背けた。
「クリスこそ」
「そうですね。私もうっかり眠ってしまいました」
「……眠い時はサロンを使え。ここは人目につき過ぎる」
殿下は、顔を背けたまま言い放った。さすがにこんな所で眠ってしまって、殿下にも迷惑をかけてしまったかしら。
「……もしかして、間抜けな顔で眠っていましたか?」
「いや……ああ、そうだな。公爵家の子息とは思えないふやけた顔をしていた。だから、次から眠る時はサロンにしておけ」
そんなにだらしのない顔で眠っていたのか。私は思わず頬を何度も触って確かめてしまった。殿下は私に物言いたげな目を向けている。けれど、何も言ってはこないのだ。私が首を傾げると、小さくため息をついて立ち上がった。
「戻るぞ」
「ええ」
殿下の言葉に頷くと、私は読みかけの本をパタンッと閉じた。先導する様に歩き始めた彼の背中を追っていると、誰も居ない廊下で彼は歩みを止めた。
何か有ったのかと、彼の横に並び顔を覗き込むと、目の前に一通の手紙が差し出された。宛先は、ロザリア・ウィザー。
「渡しておいてくれ」
「ええ、構いませんよ」
封筒を受け取り、上着の内ポケットにしまい込む。彼はまだ何か言いたげに私の顔を見ていた。
「何ですか?」
「見るなよ」
「わかっていますよ。今までだって見てませんから。安心して下さい」
殿下とお兄様の何度かのやり取りを、私は伝書鳩の様に配達しているけれど、一度だって覗いたことはない。勿論、中身は非常に気になっている。
「……そうか」
殿下はフイッと顔を背けると、さっさと歩いて行ってしまった。
サロンに戻ると、殿下は午前中のことが嘘のように、サラサラとレポートを進めている。その姿を見て私は思わず口を滑らせてしまった。
「まさか、手紙のことで一日中悩んでいたんですか?」
彼は一瞬眉間に皺を寄せるだけで、何も答えはしなかった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
有り難いことに、日間ランキングに載っているみたいです。ありがとうございます。
明日は朝から忙しいので、次回更新は月曜になる予定です。
よろしくお願いいたします。