8.兄の涙
キリが悪くなってしまうので、少し短めです。
よろしくお願いします。
肩の痛みで目が覚めた。いつの間に、眠っていたのかしら。すっかり治った筈の肩に違和感を覚えて、左肩をさすった。
「肩が痛むの…?」
すぐ側で声がする。少し掠れた声。慌てて起き上がると、ベッドで眠っていたお兄様が、目を開けてこちらを見ていた。看病しながら眠ってしまったのね。ベッドの端にうつ伏せになって眠ってしまっていたみたい。
「いいえ、おに…」
お兄様と視線がぶつかる。そうだ。私は『クリストファー』。お兄様しか居ないとは言え、ここで『クリストファー』が出来なければ、大勢の人の前でデビューなんて夢のまた夢よ。
お兄様を見て、頭を左右に振ると微笑んでみせた。
「いいや、ロザリー、大丈夫だよ。変な格好で眠っていたから、肩が凝ってしまったみたいだ」
わざとらしく肩をさする。首を左右に傾けてほぐしたりもした。起きた時は痛いと思った肩も、今はもう何ともない。
不思議。きっと、欠け行く月と、菜の花のせい。あの日とそっくりの夜だから。
「お兄様、一緒に寝ましょう?そんな所では冷えてしまうわ」
お兄様が布団をめくって誘ってきた。熱がある日は別々のベッドで眠る約束。今日は破っても、良いかしら……。ここで断ったら『お兄様』として失格のような気がするの。
私は促されるままに、お兄様の横に寝転んだ。いつもとは反対の位置。いつもお兄様は右側に眠るの。今日からはわたしが右側よ。だって、私は『クリストファー』ですもの。
それにしても、お兄様の『ロザリア』の演技は完璧だわ。いつもより高めに声を出す所まで拘ってる。お兄様が『ロザリア』を演じると、こんなに上品になるのね。馬には絶対に跨りそうにないし、剣も持たないのでしょうね。普通の令嬢は馬に跨がらないし、剣も持たないから、これが普通なのね。
いつものお兄様がしてくれるみたいに、手を握る。ああ、熱があるのに冷たい手で握られたら辛いかしら?
手拭いの代わりにしかならない冷たい手が憎いと感じた。
お兄様が私の手から逃れて、そっと、私の頭に手を伸ばす。お兄様ったら『ロザリア』になっても、頭を撫でる癖は抜けないのかしら?
頭を撫でると思っていたけれど、お兄様は私の髪の毛を少しすくって弄るだけだった。
「メアリーに、切って貰ったのね。とっても素敵」
お兄様は昼間眠っていたから、まだ見せて無かったわ。
「ありがとう、頭がとても軽くなった。今なら空も飛べそうだよ」
お兄様はずっと、短くなった、お兄様より少しだけ軟らかいこの髪の毛を、楽しそうに弄っていた。
「お兄様のデビューを間近で見られないのは、とっても残念ね」
「私も、ロザリーと一緒にデビューしたかったよ」
私は優しくお兄様の頭を撫でてあげる。お兄様が目を細めて笑った。
「デビューの日は出かける前に、顔を見せてね」
「ロザリー、勿論だけど……まだ一年も先の話だよ」
「そうね。でも一年なんてあっと言う間よ。五年ですら、経つのは早かったもの」
たった二人だけの世界に閉じ篭っていた五年間は、本当にあっという間に過ぎていった。ずーっとこうしていられるなら、どんなに幸せだったかしら。
外に出るのは本当に怖いわ。だって、この五年一度も本邸にだって行っていないのだから。それなのに、突然沢山人がいる社交場に出るなんて、考えただけでも震えてしまう。
私が今幸せなのは、この世界をお父様とお母様と、お兄様が護ってくれていたから。次は、私が皆を護る番ね。
「ごめんなさい。お兄様」
ポツリ、とお兄様が呟いた。どうして謝られているのかわからない。
「ん?」
「全部、全部貴方に背負わせてしまう」
お兄様の声が震えている。泣いているの? お兄様。優しく頭を撫でると、二つの瑠璃の宝石が揺れる。
「ねぇ、私の『お兄様』は、少し早く生まれただけなのに、私をずっと護っていてくれたんだよ、ロザリー」
すごいだろう?と私は笑った。ほんの少し先に取り出されたというだけで、お兄様は『お兄様』になった。誤差みたいなものなのに、お兄様は私の『お兄様』でいてくれる。
「いつも強くて、優しくて、頭を撫でてくれる。いつも甘えさせてくれる『お兄様』が好きなんだ。憧れなんだよ。だからね、ロザリー。君が『ロザリア』でいる時は、私に君の『お兄様』をさせてくれないかな?私が甘えた十五年分、甘えて?」
お兄様の目から涙が溢れた。涙が止まらないのか、お兄様は何度も何度も瞳を擦る。慌てその手を止めなければ、明日の目は腫れて酷いことになっていたわ。
「『男は人前でないては駄目』って父上…お父様に言われてるのに」
「今は女の子なんだから、大丈夫だよ。私の泣き虫まで移ってしまったのかな?」
何度も何度もお兄様の頭を撫でる。私が泣くと、お兄様はいっぱい撫でて甘やかしてくれるから。今日からは私がいっぱい撫でる番。
「私の代わりに沢山泣いて。そうしたら、毎回私が頭を撫でてあげるよ。私はね、十五年間沢山甘やかされてきたから、甘やかすことに関しては、知識は沢山あるんだよ」
お兄様は沢山、涙を流した。お兄様の涙を最後に見たのはいつだったかしら?ずっと、ずっと見ていない。ずっと見ていないから、私はお兄様が強い人なのだと勘違いしてたわ。
五年間も病気と闘っていて、辛くないわけ無いのに。私はただ頭を撫でることに集中した。優しく、優しく。きっと、もう言葉はいらないから。
眠っても尚、流れ続けるお兄様の涙を見つめて、私はそっと誓った。私が、護ろう。と。
すっかり看病の任など忘れてしまった私は、お兄様の隣で、両手を握り合いながら、眠った。
そのせいで、朝来たシシリーに怒られ、布団を出て、夜着に着替えてないことをまた怒られ、『クリストファー』としての朝が始まった。