62.春の嵐2
おまたせしました!
ギリギリ30日の投稿になってしまいました。
人だかりをかき分ける必要はなかった。気を利かせたご婦人達が「さあ、どうぞ」といわんばかりに一人分の通り道を開ける。真っ直ぐできた空白の先では、顔にいつもよりも数倍こやかな笑顔をくっつけて、一人の婦人と対峙しているお父様がいた。
これは、まずい。
私は本能的に察した。お父様は昔から笑顔で怒るのだ。私も何度か経験がある。まだ幼い頃、初めて木登りをした時に、「危ない」と満面の笑みで怒られたことがある。
きっと今、お父様が目の前の婦人に対して怒っているのだろうことは、安易に想像できた。けれど、何が起こっているのか、ここからではわからない。
あの騒動の中に自ら飛び込むべきか否か、少しも迷わなかったと言ったら嘘になる。けれど、私の判断を待つ前に、道が出来てしまった。
仕方ない、行くしかないみたいね。
意を決した私に待ったをかけたのは、隣に立つ殿下だった。何か言いたそうに視線を向けてきたのだ。私は静かに首を横に振る。何が起こっているのかわからないのに、殿下を巻き込むわけにはいかなかった。
私は、まだ何か言いたそうにしている彼を置いて、一人寂しくご婦人方の間にできた細い道を歩いた。お父様の場所まではさほど遠くない。けれど、なんと遠く感じることか。ご婦人方の不安そうな視線も相まって、私の足は鉛の様に重くなったいった。
輪を抜けるまであと数歩、といったところだった。
「――病弱な子に、王太子妃という大役は少し荷が重いのではないかしら。もっとゆっくりと療養させてあげた方が幸せかもしれないわ」
戯言。にしては少し大きな声。大きな声だと感じたのは、その時誰もが輪の中心を、固唾を飲んで見守っていたからかもしれない。少し低めの女性の声は、私の横を通り抜け、空気を伝染して遠くまで走っていった。
こんな時、物語の主人公はどんな風にして、危機を切り抜けてきただろうか。
今まで読んできた本を頭の中で捲りながら、最後の一歩を踏み出そうとした。その時だ。殿下が風を切るように、私の横を通り過ぎたのは。
「リーガン侯爵夫人、ロザリー……いや、ロザリア嬢との婚約を望んだのは他でもない私だ」
殿下は、お父様と対峙していた婦人ーーリーガン侯爵夫人ーーに真っ直ぐその紫水晶の瞳を向けた。示し合わせように、ダンスの開始を知らせる軽やかな音楽が虚しく流れ始める。しかし、誰一人動こうとはしなかった。
「……ですが、お世継ぎのこともありますし、王太子妃が外にも出られないようでは」
リーガン侯爵夫人は、顔を歪めた。彼女は何度も唇を噛み締めていて、今にも血が出てきてしまいそうだった。
「王太子としての役割は充分理解している。ずっと彼女の回復を待つことはできないことも。しかし、国王陛下には十八までの猶予を願い出て、了承を得ている」
誰もが少し低めの静かな声を、聞き逃さないようにと、口を閉ざす。折角奏で始めた音楽は、尻すぼみに消えていった。
「ですが」
リーガン侯爵夫人は、それでも引き下がらない。私はというと、当事者だというのに、何も言えず輪の最前列で彼らの会話を呆然と眺める他なかった。
お父様からは笑顔の仮面が外れていた。臨戦態勢は解かれたようだ。この場を殿下に委ねることにしたのかもしれない。
「ロザリア嬢は屋敷で動き回れる程には良くなっていると聞く。そうだろう? ウィザー公爵」
「はい。殿下の仰る通りでございます」
「ならば、再来シーズンの始めには、皆を安心させることができよう」
今まで一つの音も立てていなかった周囲の人々は、ここで初めて騒めいた。輪の中央から広がるように声が湧き上がり、ずっと遠くまで広がった。こんなに多くの人が殿下の言動に注目していたのかという程に。
「では、殿下はウィザー公爵令嬢と?」
「あら、おめでたいわ」
「いや、しかしまだ決定ではないのだろう?」
「殿下はもう十六、陛下がご婚約した年だわ。あと二年というのは少し不安ね」
群集は好き好きに話始める。肯定的な意見もあれば否定的な意見もある。それ程に、二年という期限は長いのだろう。
巻き起こった騒めきは途絶えることを知らない。舞踏会とは言い難い雰囲気が出来上がってしまった。しかし、この言い知れぬ空気を壊すように、穏やかでありながら、凛とした声が響いた。
「皆の者、静まりなさい。陛下の御前ですよ」
決して大きくはない声だったのにも関わらず、その声はいとも簡単に騒めきを鎮めてしまった。
声のする方向に皆が視線を送る。全ての者の視線の先には、堂々と立つ、王妃様の姿があった。
誰かの喉がゴクリと鳴ったのが聞こえた。
誰もが膝をつき礼を取る中、真っ白の雪のようなドレスをひらめかせながら、王妃様は、優雅にゆっくりと階段を降りている。
私達を囲っていた輪は、王妃様が通る為に大きく割れた。殿下が前に出て、王妃様を輪の中に迎え入れる。
「母上」
「話はこちらまで聞こえて来たわ。アレクセイ。皆も、表を上げて頂戴」
王妃様は、ぐるりと一周見渡してから、リーガン侯爵夫人と、お父様とお母様と、そして私と小さく頷きながら、順番に目を合わせた。
「クリストファー、ロザリアはアレクセイとの婚約に同意しているのかしら?」
「母上、それは私がロザリア嬢に会って直接ーー」
名前を呼ばれて肩を震わせた私よりも先に、殿下が言葉を遮った。眉間に皺が寄っている。しかし、王妃様は殿下の言葉に耳を貸さないようだ。
「アレクセイ、私はクリストファーに聞いているのよ」
すぐさま、私に視線が集まった。お父様やお母様の視線だけではない。取り囲む群集の視線が全て私に注がれる。
公開処刑のようだ。
私は笑顔の仮面をつけることも忘れ、王妃様を呆然と見つめた。殿下とそっくりな、紫水晶の瞳が私をとらえて離さない。何もかも見透かされてしまいそうな二つの宝石に、私の胸の奥がザワリと疼いた。殿下のどこかすがるような視線も、心を掻き乱す要因の一つだ。
王妃様は、別に『ロザリア』に答えを聞いているわけではない。兄である『クリストファー』に聞いているのだ。私は兄として答えれば良いだけなのに、なぜか、『ロザリア』として聞かれているような気分になってしまう。
「クリストファー? 貴方達はいつも一緒にいる程仲の良い双子。今でも仲が良いのは私の耳にも入ってくるわ。貴方なら、ロザリアの気持ちを良くわかっているのでしょう? ロザリアは、アレクセイのことを愛しているのかしら?」
「王妃様……」
王妃様は、もう一度にっこりと笑って確かめるように、小首を傾げた。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
明日の分は八割完成しているので、夕方頃には更新できるかと思います。
よろしくお願いします。