閑話5.リストとセイ1
本編を動かす前に、閑話を挟ませて下さい。
今回は閑話4シシリーの恋のお相手の少し後の話です。
清々しい午後のひと時。秋の象徴のような高い空に、綺麗な雲が広がっている。鳥も心なしか羽を伸ばして心地よさそうに大空を飛びまわる。王宮の一室、四角く切り取られた空を、私は見上げていた。
「うーん」
何度目かの唸り声。テーブルを挟んで向かい側に座る殿下は、こちらの存在など気にせず、盤上を見つめる。恒例になりつつあるチェスは、中盤。このままいけば、まず負けないわ。
勉強の後の気軽な一戦から始まったチェスは、いつも勉強よりも真剣だ。私はというと、彼の一手を待つ時間の方が長いわけだけど。
手の付けられていない紅茶が、段々と冷めていけば、侍女が音もなく入れ替える。どうせ飲んでは貰えないのだから、無駄な行為だというのに、それを制することもできず、冷めてしまった紅茶の運命をただ嘆くだけ。
「降参でも良いですよ」
ティーカップを傾ければ、上等な紅茶の香りがふわりと広がる。殿下に存在を忘れられた紅茶を、私は代わりに何度も口に運んだわ。
「黙っていろ。あともう少しで出てきそうなんだ」
何が。とは言うまい。私は小さくため息をついた。何度やっても結果は同じだ、と思うのだれけれど、殿下は性懲りも無く、チェスを挑んでくるのよ。彼はそういう、負けず嫌いな所がある。
「そういえば、先日の視察はいかがでした?」
盤上を見つめる彼の紫水晶は真剣そのもの。だから、返事など期待していなかったけれど、手持無沙汰だったの。一手が長いのよね。
先日、殿下は七日間も王宮を離れていたわ。行先は確か北の王太子領。避暑地だと聞いているけれど、ゆっくりする時間はあったのかしら。
「別に楽しいこともないさ」
チラリと顔を上げたと思ったら、素っ気なく言って、また盤上に視線を戻していったわ。これが美味しかったとか、珍しい物があったとか、そういう話を期待していたのだけれど、残念だわ。
「それより、お前は七日間何をしていたんだ?」
盤上を睨みつつも、私の話には付き合ってくれるようだわ。そういう優しい所はあるみたい。
「私ですか? そうですね、大したことはしていませんが。ああ、カフェに行きました」
「カフェ?」
盤上に向かっていた視線が、勢い良くこちらに向いたわ。「まずい」と思った頃には、時すでに遅し。私は、目線を反らしたけれど、殿下は許してくれなかった。
「市民街に行ったのか?」
「えーっと、そうですね。チラッとですけど」
市民街は、貴族の子女にとって縁遠い。ならば王族に生まれた彼ならば尚のこと。本来ならば一生縁のない場所であってもおかしくはないのだけれど。
「市民街にはどんなものがあるんだ?」
彼の意識は盤上から、遠い市民街へと移ったようだわ。これはまずい。とさっきから警笛がなるけれど、どうしようもない。
「そうですね、市場や商店、カフェ……色々ありましたよ。外国からの品物を出している店もありましたね」
「そんな面白そうな所、一人で行ったのか。狡いな」
「私もたまたま行く機会に恵まれただけですから」
不機嫌そうに眉間に皺が寄る。
「なら、私が一緒に行っても問題ないだろ?」
「いや、さすがに殿下を誘って行く所でもないでしょう?」
落ち着かせる為に飲んだ紅茶で、むせてしまう程、私は狼狽の色を隠せていないようだわ。不敵に笑う殿下に、私は何度も首を横に振ったけれど、殿下は納得いかない様子。
「もし、私も連れて行って貰えないとなると、宰相に口が滑ってしまうかもしれないな?」
あの時の彼の顔を私は忘れないわ。有無を言わせない不遜な態度。いいえ、彼は王太子殿下。この態度が正解なのかもしれないけれど、ここで発揮しないで欲しかった。
チェスには勝てたけれど、勝負には負けてしまった気がする。私は何とも言えない気持ちを抱えながら、帰路へと付いた。
「そもそも、殿下を市民街になんかお連れして良いものか……」
私は、帰ってきて早々、お兄様の隣でベッドの上に寝転んだ。お兄様は、刺し掛けの刺繍を止めて、クスリと笑う。
「男の子というのは、冒険が好きなんですよ。お兄様」
「うーん、それは、わからないでもないかも」
この前シシリーと出かけた市民街は、とても楽しかった。見たこともない物が並んでいて、どれも目新しくて。それを殿下やお兄様にも見せたいって気持ちは確かにある。
「ロザリーが『クリストファー』ならどうする?」
「そうね……、王宮を抜け出して市民街を探検するなんて、物語みたいでドキドキワクワクしちゃうかもしれないわ」
「ドキドキと、ワクワク……か」
お兄様のそんな姿あまり想像もできないけれど。
でも、それも良いかもしれない。広いとは言え、なかなか王宮から出ることのできない毎日。殿下だって冒険の一つくらいしたいわよね。
「怒られたら、一緒に謝るくらいのことはしてあげてもいいか」
王太子殿下が市民街に出たと知れれば、大目玉かもしれないけれど。こういう時、女は度胸よね。ようは、バレなければ良いのよ。
「ふふ、頭を抱えるシシリーが目に浮かぶわ」
私がうんうん、と一人頷いている横で、お兄様は楽しそうに笑った。
お兄様の予言通り、シシリーの頭を抱えた姿を見ることができたのは、次の日の朝だったわ。
「なんて……約束をされたのですか……」
「大丈夫。今回は、変装道具を用意してくれるだけで良いから。ね?」
「『ね?』なんて、可愛く言ってくれていますけど、内容は全然可愛くないですからね?」
大きなため息が自室に響き渡る。今日も良い天気だわ。シシリーは何だかんだ言って、手伝ってくれる。それがわかるから、私は盛大に甘えるの。
「勿論ですけれど、これは誰にも秘密のお話しなのですよね?」
「そうだよ、シシリー。父上にも母上にも誰にも言えない」
私達しかいないというのに、小声で耳打ちしてきたシシリーに合わせて、私も負けじと、真剣な顔で頷いたわ。
「わかりました。ではこっそり変装道具はご用意させていただきます。あとは、市民街についても詳しく説明しますね。ただ、くれぐれもお気をつけ下さいね」
「ありがとう、シシリー。私はシシリーがいないと生きていけないよ」
「おだてても、もう何も出て来ませんよ」
シシリーは、フイッと顔を背けたけれど、少しだけ頬が染まっているのが見て取れた。
「さて、私も色々準備をしないと」
私の不用意な一言で決まった市民街探検だけれど、今はとってもワクワクしているわ。けれど、一緒に行くのは王太子殿下、何もないように万全の準備を整える必要があるわね。
私は一人、拳を握った。
いつもありがとうございます。
明日も閑話の続きを更新予定です。
引き続き、よろしくお願いします。