40.マリーとマリアンヌ3
マリアンヌと一緒に侍女が一人同乗する。馬車とは言え、未婚の男女が二人きりになるのは些か外聞が悪いから。
奥にマリアンヌ、その横に私が、マリアンヌの向かいには侍女が座ったわ。侍女は、空気の様に静かにしている。なんならマリアンヌとお話ししてくれても良いのだけれど、さすがに侍女に丸投げになってしまっていけないわね。
マリアンヌは、馬車が出発してからすぐにマリーと遊びはじめた。
初めての相手にはいつも警戒するのに、マリーは既に彼女の打ち解けたみたいで、ひざの上で快適そうに丸くなっている。
「では、この子も『マリアンヌ』という名前なのですか?」
「ああ、そうなんだ。……やっぱり、同じ名前は困るかな?」
猫と同じだと聞いたら気分を害してしまうかと心配した。けれど、マリアンヌはにこやかに笑って首を横に振ってくれたわ。
「いいえ、こんな可愛い猫と同じ名前だなんて光栄です」
「そう、よかった」
私はホッと胸を撫で下ろした。ここで嫌がられてしまっては、マリーをクロードの所に預けなければならないところだったわ。
「でも、知りませんでした。クリストファー様がこんな可愛い猫ちゃんを飼っていらっしゃるなんて」
「そう? まあ、余り周りには言ってないからね」
今まで、わざわざマリーの話を持ち出すこともなくて、余り知られていない。お父様やお母様が外で話題に出しているかもしれないけれど。
「でも、こんなに可愛いマリーちゃんを飼っていらっしゃるって聞いたら、皆さんお屋敷に見に行きたいと仰るでしょうね」
彼女のグレーの優しい視線はずっと、マリーに向けたまま、ゆっくり頭を撫でる。マリーも随分慣れた様子で、マリアンヌにされるがままになっていたわ。
「ああ、そうだね。うーん、それは困るな。マリアンヌ嬢、マリーのことは秘密にして貰えるかな?」
家に沢山の人が押しかけられたら困っちゃうわ。マリーは臆病だから色んな人に構われるのはきっと嫌がるもの。
「はい、わかりました」
マリアンヌは、私を見て小さく頷いた。やっと、彼女のグレーの瞳に私が映る。
「ようやく、私のことも見てくれたね」
「……えっ」
私がにっこり笑うと、マリアンヌの瞳は大きく見開かれたわ。
「もう、私のことは慣れてくれた?」
「は、はい」
マリアンヌの声が僅かに上擦っている。やっぱり私のことがまだ怖いのかもしれない。でも、最初の頃よりは大分良くなっていると思うの。
「良かった。君に怖がられてしまうの悲しいから」
「あの、怖がってなんて、ないです」
今にも消えてしまいそうな声で、マリアンヌは否定してくれたわ。なんて優しい子なのかしら。
「ありがとう。今日は困ったら、すぐに声をかけて。私は父君の代わりなんだからね?」
「……はい、よろしくお願いします」
私は彼女の返事に頷いて微笑むと、彼女の頬が朱に染まった。
「今日は、本当にありがとうございます。この話は、昨日の夜に決まったとお聞きしています」
私が聞いたのは今日の朝だけどね。きっと、マリアンヌも同じ様に夜のうちか、朝にでも聞かされたんでしょうね。
「良いんだよ。どうせ私の父が無理を言ったんだ。だから、今日は遠慮なく私を頼って。君の父君に比べたら頼りないかもしれないけどね」
「そんなっ! クリストファー様のお名前を聞いた時、お母様も大喜びでした」
「そうなんだ。それは良かった」
私はそっとマリアンヌの手を握る。マリアンヌの目が大きく見開かれて、グレーの瞳に笑顔の私の顔がしっかりと映っているのが見える。
グローブ越しだけど、私の手は冷たかったかしら。
「今日はよろしく」
「はい。よろしくお願いします」
マリアンヌがほんの少しだけ手を握り返してくれたわ。グローブ越しに温もりが伝わってきて、私は目を細めた。
「ミャー」
私達の間を割って入ってきたのは、「構え」と言わんばかりに声を上げて、主張を始めたのは、マリアンヌの膝の上で、優雅に寛いでいたマリーだったわ。立ち上がって、私の腕によじ登ろうとしている。
「マリーはお留守番だよ」
マリーの頭を撫でてやると、自ら頭を擦り付けて私の膝に移動してきた。
「やっぱりご主人様の膝の上が、一番お好きなんですね」
マリアンヌから自然と笑みがこぼれる。やっぱり笑顔の女の子は可愛い。
思わずマリアンヌの頭に手が伸びそうになって、慌てて手を引っ込めた。危ない、危ない、と思いながら、誤魔化すように微笑めば、私が何をしようとしたのか気づいたみたい。私が撫でようとした頭を自分の手で押さえている。
彼女が口を開きかけたその時、丁度良いところで、馬車が止まった。扉に目をやれば、クロードによって、到着が告げられる。
「さあ、行こうか」
マリアンヌの喉が鳴った。それに、僅かに肩を震わせている。さっきまでの柔らかい表情が嘘のように、顔まで強張ってしまったわ。こんなガチガチに緊張した状態で、馬車を降りるなんて到底無理よ。
「怖い?」
肯定の言葉も、否定の言葉も返されなかった。彼女の瞳を覗き込むと、言葉なんて要らないくらい、グレーの瞳がゆらゆらと不安そうに揺れている。
「マリーに代わってもらおうか?」
冗談めかして言ってみたけれど、まともな反応は貰えなかったわ。
昔から人前が苦手なのか、それとも以前何かあったのか。その二つが考えられるけれど、今はもうミュラー家の前。それを聞いている暇は多分ないわ。
こんな時、『物語の主人公』ならどうするかしら? 緊張を解く魔法が使えれば良いのに。
「そうだ、マリアンヌ嬢。今日一日頑張れる魔法をかけてあげる」
今日の私の役割は、魔法使い。マリアンヌが堂々と夜会に参加することができるような魔法をかけてあげるのよ。
「魔法……?」
「そう。実はね、私は魔法使いなんだ。いいね? 皆には秘密だよ。さあ、目を閉じて。私が「良し」と言うまで決して目を開けてはいけないよ。魔法が失敗してしまうからね」
片目を瞑って見せると、マリアンヌの表情が少しだけ和らいだ。
「さあ、目を瞑って」
マリアンヌは、私の言葉に従ってそっと瞳を閉じた。彼女が瞳を閉じたのを確認すると、彼女の剥き出しの両肩に手を添える。少し、彼女の肩が震えた。グローブ越しとは言え、冷たかったのでしょう。
マリアンヌの顔に自分の顔を近づけて、そっと彼女のおでこに口づけを落とした。
次は、少しなんてものじゃなく、大きくマリアンヌの肩が震える。それなのに、言いつけを守って頑なに瞳を瞑る姿はなんともいじらしい。耳まで真っ赤にさせながら、震える姿は、猫とはまた違う小動物を彷彿とさせる。
私はすぐに彼女から離れた。これ以上触っていたら、側に控える侍女に腹を刺されそうだもの。
「さあ、良いよ。君の綺麗なグレーの瞳に私を映して」
静かに開かれたグレーの瞳にはしっかりと私の顔が映っていた。
「今日の君は、物語のヒロインだよ。さあ、胸を張って。怖がらなくて大丈夫。隣には、青薔薇の王子に化けた魔法使いが付いているんだから」
私がにっこり笑えば、マリアンヌは拳を握りしめた。今の彼女の瞳には、不安が感じられなかったわ。
「さあ、マリアンヌ。この馬車を出たら物語の始まりだよ」
「はい、クリストファー様」
馬車から降りると、近くにいた貴族が私を見ている。今日、私がマリアンヌをエスコートすることは勿論誰も知らない。ウィザー家の嫡男として初めてのエスコートだわ。
さあ、私も物語の時間よ、『クリストファー』