30.薔薇色の憂鬱
王宮の夜会を皮切りに、社交のシーズンが始まった。ウィザー公爵家には毎日大量の招待状が届く。テーブルの上に山積みになっている招待状を、顔色変えずに仕分けをしているセバスチャンの横を通り過ぎ、バタバタと夜会の準備をするお母様を躱しながら、冬篭りを始めた庭園を渡って。私は別邸の庭が見えるサロンの長椅子へと腰を落ち着かせた。
外の世界へ出て季節を二回越えただけの新米の『クリストファー』にも例外はなく、返事を書くだけで一日が終わる量の招待状が届いているわ。
テーブルに積み上げられた招待状はまだ、封すら切っていない。大きなため息が溢れた。
「デビューは大成功。クリストファー様のお名前を知らない人は貴族の中にはいない程になりましたし、何がそんなにお辛い気持ちにさせているんでしょう?」
紅茶の芳しい香りと共に入室したシシリーは、不思議そうに小首を傾げている。ああ、シシリーに相談してスッキリしたい……。
でも、でもよ?
『王子様に、『ロザリアが好きだ』って言われちゃって、しかも次の次のシーズンの始まりまで病気が治るのを待ってくれているの。私、どうしたら良い?』
なんて、この口から言えるわけないじゃない。今の私はロザリアじゃないんだもの。シシリーの前だって、女である姿は見せられない。だって、もしも一人にでも見せたら、きっと、ボロボロと崩壊していくような気がするもの。
「なんでもない」
私は漏れそうになる二度目のため息を、紅茶と一緒に飲み込みながら、首を横に振った。
「「なんでもない」とは、何かある時に使うものです」
今日はやけに突っ込んでくるわね、なんて思いながら、難しそうな顔をしているシシリーをジッと見た。
「私に言えないようなことでも、ロザリア様にならご相談できるのではありませんか?内に溜め込むよりもずっと楽ですよ」
お兄様に? それはもっと無理よ。心の中の私が大きく横に頭を振っている。絶対に無理よ。
「ありがとう、シシリー」
私は咄嗟に、よそ行きの笑顔でシシリーを見上げた。シシリーの形の良い眉がピクリと動く。何か言いたい顔だ。こういう時は深追いはしない。気づかなかった振りをして、封の切られていない招待状を手に持った。
この封蝋のシンボルは、ミュラー侯爵家のもの。ペーパーナイフを使って、封蝋を外し、招待状を開いた。神経質そうな、細くて真っ直ぐな文字だ。十日後の夜会への招待だったわ。
これは多分行かなくてはいけないものね。ミュラー侯爵家の令嬢、カロリーナはリストの上から三番目に書かれていた。お母様の言う必ずダンスをしなければいけない人五名の内の一人。
「ミュラー侯爵家のカロリーナ様は、確か王太子殿下の婚約者候補に名前が挙がっていらっしゃいましたね」
シシリーも、封蝋のシンボルから招待状の相手を察したのかしら。
「ああ、だから真っ赤なドレスを着ていたのか」
真っ赤なドレスを纏って、真っ赤な薔薇を頭に飾っていた。勝気な黒い瞳は印象強かったわ。
「年の頃も王太子殿下の一つ下と、ちょうど良いですし、家柄も申し分ないとの噂ですよ。第一候補はロザリア様ですけど……」
尻すぼみになるシシリーの言葉に、私は肩を竦めて返事したわ。『ロザリア』は社交界に出ていないし、病気で外に出られないことが広まった今、貴族の間では『ロザリア』は婚約者候補から外されているでしょうね。殿下がどう思ってるかは、彼と私しか知らないのでしょうから。
「そういえば、あの賭けの話はいかがでした?」
シシリーはいつもよりも明るい声を出したわ。空気を変えようとしている、彼女の気遣いが伝わる。
「ああ、あれ?会場では、それどころでは無かったから、まだ話してないな……」
そう、私は殿下と賭けをしていたの。何となしに始まった賭け。ドレスの色の数を競う単純な遊びだったんだけれど、ダンスと殿下の突然の告白でなし崩しの状態になってしまったわ。
「でも」
「でも?」
「どのドレスも綺麗だった」
私は、会場に入った時のことを思い出す。色とりどりの花が咲いた会場は、まるで花園だったわ。
「その様子ですと、ご令嬢の皆様を優しい言葉で誘惑していたという噂は、本当のようですね」
ヒヤリとした空気が、流れ込んできたような気がしたわ。冷たいシシリーの視線に、私は背中を震わせた。
「……シシリー?」
「ある令嬢には、『花のように綺麗』だと褒め称え、またある令嬢には『可愛い顔が見たい』と囁いたとか。まだまだ有りますが、お聞きになりますか?」
にっこりと、シシリーが笑った。笑顔なのに、シシリーが一片も笑っていないような気がする。思わず、持っていた招待状をテーブルに戻し、姿勢を正してしまったわ。
「シシリー、私はドレスや髪型を褒めた記憶はあるけど、誘惑するようなことは何一つ言ってない……と、思う」
ドレスや髪型を似合うと褒めるのは常套句でしょう? 恋愛小説でも、会えば必ず何かしら褒められていたもの。それにお父様も、毎日お母様のドレスや髪型を褒めて母に口付けを落としているわよ。
「そうですね。多分、全てご令嬢の皆様の拡大解釈かと存じます。美男子に褒められたら、そりゃあ舞い上がって、勘違いしちゃいますものね」
何でだろう。シシリーの言葉に棘が見えるわ。紅茶に逃げようとして、ティーカップに手をかけた。喉を通った紅茶はぬるくなってしまっていたけれど、今の私には充分だったわ。
「今度からもう少し気をつけるよ。でも、挨拶は必要だし、難しいね」
「……つまり、クリストファー様にとっては、『可愛いね』は『ごきげんよう』と同等の挨拶なんですね」
「ん? うん。そうだね。父上だって、『おはよう』の後には必ず『可愛いね』とか『綺麗だね』ってつけているから、普通のこと……」
だよね? なんて、続けられる空気じゃないわ。シシリーのそんな冷たい目を見たのは初めてかもしれない。
私は身体を小さくして、「気をつけます」と返事するくらいしかできなかったわ。
その後はザッと招待状を、確認して行く行かないと振り分けた。ウィザー家としての都合もあるから、後でお父様とお母様ともお話はしなくちゃいけないけれど。
私は、シシリーを残し、フラフラと別邸の外に出た。冷たい空気が、体にまとわりつき、熱を奪って行く。風に誘われるがまま、最近のお気に入りの場所まで来てしまったわ。
最近、何かに悩むとここに来てしまう。井戸の先、裏庭の端に植えられた大きな木。この木に登るのも、手馴れたもので、いつもの手順で手足を掛け、登って行く。太い枝の上に腰を下ろせば、木々の間から、城が見えた。
ここ数日、夜会が終わってから、私は何かと理由をつけて、殿下から逃げ回っていた。あの告白……まあ、殿下からしてみたら直接の告白ではないのだけれど。あの告白から殿下には会っていない。どんな顔をして会えば良いのかわからないのだもの。でもそろそろ仮病も使えないわね。
「『ロザリア』は手も握れないというのに」
私は両手をギュッと握りしめた。お兄様以外の男の人の手は、もう6年触っていない。不意打ちで殿下に触られた時だって、恐怖に叫び出しそうだった。
「約束を酷い形で終わらせたけれど、もしも約束の日までに『ロザリア』の病気が治ったら、『ロザリア』は貴方の手を取っても、いいですか?」
白亜の城は何も応えない。殿下はあの時のこと、笑って許してくれるのかしら?
私は、その日白亜の城が闇に隠れるまで、木の上で過ごした。寒空の下、日が沈むまで外にいた私は、久しぶりに風邪を拗らせて、ベッドの住人になってしまった。
仮病が本当になるなんて、嘘はつくものでは無いな、と自嘲したわ。