29.伯爵令嬢と青薔薇の王子様
レベッカ視点です。
冷たい風、暖炉の火、水に張る薄い氷。冬の訪れを感じるものは沢山あるけれど、セノーディア王国の貴族が「冬が来た」と、明確に表現するのは、シーズン最初の夜会の招待状を受け取った時だと思うの。
お父様もお母様も、毎年招待状を開きながら「もう冬が来たのね」と何となしに呟く。そんな両親を見て育った私も、「冬」を感じずにはいられない。
冬の始まりを告げた舞踏会は、滞りなく終了し、寒さを慰め合うように、様々な招待状が行き交う。
今年早めのデビューを果たした私、レベッカ・レガールにも、お茶会の招待状が届いたの。相手はミュラー侯爵家のご令嬢、カロリーナ様。先日の夜会で少しお話しさせていただいたご縁で呼んで貰ったの。
女の子のお友達って少ないから、私はとっても嬉しかったわ。お茶会が始まるまではね。
「本当にクリストファー様、素敵だったわぁ」
目の前で、カロリーナ様がうっとりと頬を緩ませながら、空を見つめている。白い頬は上気して仄かに赤い。
お茶会が始まってからというもの、私のクリス様と、アレクセイ王太子殿下の話題ばっかり。
「そして、クリストファー様はわたくしに言いましたのよ、『花のように綺麗だ』って」
もうその話、五回目だわ。それに『花のように綺麗』なのはドレスであって、カロリーナ様じゃないわよ。どんどん都合よく変換されるのね! 嫌んなっちゃう!
それなら、私だって『可愛い』って言われたもの。心の中で悪態をついていると、カロリーナ様は思い出したように、私を見たの。
「そうだわ。レベッカ様、ダンスの最中にクリストファー様と抜け出して何をしていたのかしら?」
カロリーナ様の瞳がキラリと光る。ええ、あれを見ていたの?
「……いえ、あの、大したことでは」
「あら、大したことなければ、言えるでしょう?」
私はカロリーナ様の気迫には勝てなかったわ。皆の視線が集中する中、私はあの日のことを思い出した。
今シーズンの社交が始まったのは、ちょうど十日前。風は冷たいけれど、良く晴れた日だったわ。
今年予定よりも早くデビューすることになった私は、新しく作って貰った黄色のドレスを着て、舞踏会に臨んだの。
あんなに沢山の人がいる所は初めてで、私はとっても緊張したわ。本当はすぐにでも帰りたかったの。でも、そんな気持ちもすぐに吹き飛んだわ。
ネーム・コールマンがクリス様の名前を呼んだ瞬間よ。周りの人が、いいえ、会場にいた全員が、口閉ざし入り口を注視したわ。私も跳ねる胸を抑えながら、入り口に視線を向けたの。
久しぶりの再会。クリス様は私のこと覚えててくれているかしら。
周りの人が大きくて、遠くの方から歩いてくるクリス様のお姿は、残念ながら見れなかった。ああ、早く会いたいのに!
でも、段々と近づいてくると、私の背でもクリス様のお姿を見ることができたの。
絹糸みたいな、柔らかな飴色の髪の毛が揺れる。ゆっくりとした歩調は、まるでそこだけ世界を切り取ったようだったわ。彼は物語の主人公の様に、堂々としていて、周りを眺める姿は民衆を前にした王族の様。
そう、私の前を通った時よ。クリス様が私を見て微笑んだの。あれは、絶対絶対私を見ていたのよ。
あの時は天にも登るような気持ちだったわ。だって、沢山の人の中から、私を見つけてくれたのよ。実は、クリス様も私のこと……なんてっ! やだっ恥ずかしいわ!
クリス様と目と目で会話したのはほんの一瞬だったわ。クリス様は『また後でね』って言ったに違いないわ。きっと、後でダンスに誘ってくれるのよ。クリス様が私に手を差し出して、微笑むの。
『レベッカ、いいや、可愛い私のベッキー。私と一曲踊ってくれませんか?』
「もちろん……よ・ろ・こ・ん・で」
「おい、またベッキーが別世界に行ってるぞ。おーい、ベッキー戻ってこい」
目の前で、大きな手が上下に振れる。やだっ! クリス様が消えちゃったじゃない!
「うるさい、お兄様の馬鹿!」
「いやいや、俺は何もやってないだろ……」
今日はお兄様が私のエスコート役。今日は一日一緒に居てくれるんですって。一日一緒なら、クリス様との方が良いのに。
ああ、早くクリス様にエスコートされて夜会に行きたいわ。
「ベッキー、お前な、外にいる時くらいその妄想癖直した方がいいぞ。顔は可愛いんだからさ」
「妄想癖じゃないもん、お兄様は黙ってて!」
「はいはい」
私はお兄様とそんなやりとりをしながら、国王陛下の元へ進むクリス様の背中を見送った。
国王陛下と王妃様の華麗なダンスが終わると、いよいよ本番。クリス様とのダンスが始まるわ。と、その前に。お兄様とダンスをしなくちゃいけないの。一番初めはクリス様が良いとお願いしたのだけど、お父様にもお母様にも駄目だと言われてしまったわ。残念。
でも、クリス様の予行練習と思えば、お兄様とのダンスも有意義な気がしてくる。クリス様とお兄様じゃ雲泥の差だけど。
お兄様とのダンスを問題なく終えると、何人かの方にダンスに誘われたわ。お兄様に背中を押されて、渋々ダンスホールへと向かう。名前も覚えていないような方達とのダンスは、あまり楽しくなくて。
それに、ダンスをしていると、すれ違うの。クリス様に。他のご令嬢とダンスをしているのよ。そんな時のクリス様も、変わらずとってもキラキラしていたわ。時々笑いかけて楽しそう。いいなぁ。私もあの手に手を重ねて、二人きりの世界に行きたいわ。
私の手を取っている男性が何か話しかけていたような気がするけれど、私はそんなことより、近くで笑うクリス様のことしか頭になかったわ。
クリス様が私に声をかけてくれたのは、舞踏会も終わりに近づいている頃。
「レベッカ嬢、御機嫌よう。今日は元気なようで安心しました」
目の前で優しく笑うクリス様がいるわ。そんな、レベッカ嬢だなんて……いつもみたくベッキーって呼んで欲しいわ。
「御機嫌よう、クリス…トファー様。あの時は、お見苦しいところをお見せし申し訳ありません」
お茶会で初めてクリス様に出会った帰り、クリス様はすでにお部屋に戻られていて、お礼を言うことができなかったの。私はようやく伝えることができてホッとしてた。
「いいえ、体調の悪い女性を助けるのは男の役目ですから、気にしないで下さい。もし、疲れてなければ、私と一曲踊って下さいませんか?」
クリス様の手が差し出される。ああ、私はこの時をどれほど待っていたことか! お兄様に言われるがままに、沢山踊ったこの時間は、決して無駄にはならなかったわ。本当は、無駄に沢山踊ったせいで、靴擦れが痛いのだけれど、クリス様とダンスができるのに、痛いだなんて言ってられないわ!女は度胸よ!
私はクリス様の差し出された手に、そっと手を重ねたわ。
「よろこんで」
笑顔で言うと、クリス様もにこりと返してくれる。私はクリス様のリードでダンスホールに向かった。少しだけクリス様の冷たい手が、グローブ越しでも伝わる。熱を増した私の手には心地良い。
右足が痛い。ステップを踏むたびに踵が擦れるのよ。でも、ここで痛みを訴えれば、クリス様とのダンスも終わってしまう。私は笑顔の下に痛みを隠して、ステップを踏んだの。
「今日のドレスも可愛らしいね。とても似合っているよ」
クリス様との初めてのダンスは、痛みのせいで意識の半分くらいを、持っていかれてしまったけれど、クリス様の甘い言葉がそれを少し癒してくれる。けれども、甘い時間は長くは続かなかったわ。
「レベッカ嬢」
「は、はい」
「少し酔いが回ってきてしまったようなんだ。申し訳ありませんが、休憩しませんか?」
すまなさそうに眉を下げたクリス様と目が合った。まあ、大変!
「ええ、大丈夫です。休憩しましょう」
私が何度もコクコクと頷くと、クリス様は優しく微笑んで、「ありがとう」と言ったわ。クリス様を早く休ませてあげなきゃ! 痛い足を我慢して、私はクリス様のリードでダンスホールから抜けたわ。
クリス様は近くにいた給仕の者に何やら頼んでいた。休憩室に行きたいとお願いしてるのかしら?
「ごめんね、レベッカ嬢。折角のダンスだったのに。まだ、少し辛いんだ。良かったら休憩室まで手を貸してくれるかな?」
クリス様が頭を押さえて訴えた。ああ、本当に辛そう。
「勿論です。私にお掴まり下さい」
「ありがとう」
給仕の者に案内された休憩室に着くと、私とクリス様は長椅子に隣り合って座った。私がホッと息をつくと、すぐに隣に座っていたクリス様は立ち上がったの。私は驚いて、クリス様を見上げたけれど、クリス様は、辛そうな顔を消し去って、優しい笑顔を向けてくれたわ。
「ありがとう、レベッカ嬢のお陰で体調はすっかり戻ったみたいだよ」
「いいえ、大丈夫ですか?もう少しお休みになっては」
まだ来たばかりなのに。本当に大丈夫なのかしら。
「私は大丈夫。君はここで休んでいて。兄君を迎えに呼んでおいたからね」
クリス様は笑顔のまま、優しく私の頭をポンポンと撫でて下さった。顔が熱くなるのがわかる。やだ。また熱が出たんじゃないかって勘違いされちゃう。どうしよう。
けれど、クリス様は気にした様子はなく、「またね」と行って、去って行ったわ。一人残された私は、頬を両手で押さえて、頬の熱を取ろうとした。けれど、手の平も充分熱を持っていて、願いは叶わなかったわ。
クリス様と入れ違いで、お兄様が入ってきた。ニヤニヤしている顔がとてもうるさい。
「ベッキー、ほら、右足を出せ」
そう言うや否や、お兄様は長椅子に座っている私の前に跪いて、私の右足をつかんだ。
「やっ!ちょっとやめてよ!」
痛いわ。触らないで欲しいのに。擦れた右足の踵がじくじくと痛んでいる。足に心臓ができたみたい。
「ちょっと落ち着けっての」
バタつかせた足に、力が込められて動かせない。
「……お兄様、痛い……」
「悪かったな、ちょっと我慢してろ」
お兄様は私の右足の傷を見ると、眉を顰めて、靴を脱がせた。お兄様の膝の上に、私の足が乗るのをジッと見つめていると、お兄様は白いハンカチーフをクルクルと私の足首に巻いた。
「応急処置だから、家に帰ったら治療してもらえよ」
ぶっきらぼうに言いながら、ハンカチーフを器用に固定して、私の靴を右足に戻してくれた。
「お兄様、気づいてたの?」
あのガサツなお兄様が? デリカシーのかけらもないあのお兄様が?
「いや、クリストファー様が教えてくれたんだよ。『きっと靴擦れでしょうから、これで応急処置をしてあげて下さい』って。お前、痛かったんなら早く言えよな」
「お兄様、クリストファー様ね、酔って具合がって……」
「はあ? 何言ってんだよ。あいつ、ほっとんど飲まずでダンスしてただろ。どうやって酔うんだよ」
お兄様の呆れるような声が耳を通り抜ける。じゃあ、ここに来たのは私の為……?
さっきよりもずっと、頬が熱くなるのを私は止められなかったわ。
「キャー! クリストファー様素敵……」
隣に座っていたエイミー様の高い声で、私は我に帰った。あの日のことは、思い出しただけで顔が熱くなるの。
キャーキャーと騒ぐ皆を見ていると、クリス様のハンカチーフが二枚も私の手元にあることは、言わない方が良さそう。
恋敵は、多いみたいです。クリス様。私、貴方に相応しい令嬢になって、いつか、きっと……
私は彼女達が騒ぐ中、そっと、胸に誓ったわ。