28.初舞台は薔薇で彩られる2
軽やかな音楽、男女はダンスのその先を求めて囁き合う。
私は可憐な少女の手を取り、背を支えた。迷いのあるステップ、強張る表情。幾度となく足に少女の重みを感じながら、私は新たな使命に燃えていた。
この空気を何とかしなくては!
彼女も、己の失態に気づいているのだと、その行動からわかる。私の顔など見れないのだろう。俯いてしまっているし、萎縮してしまってステップどころではない。そして私はずっと、彼女の髪の毛に飾られた青い花と会話をしている。
彼女だってきっと今日の日の為に、沢山練習を重ねてきていると思う。今はちょっと緊張しているだけよね。
緊張を和らげる魔法があればいいのに。私には魔法は使えないけれど、強い味方がいるの。そう、参考書ーー恋愛小説ーーよ。
ヒロインが緊張でうまくステップを踏めずに俯いてしまった時に掛けられた言葉があったわ。あれは確か、『秘密の庭園』百二十七頁。
王子様はヒロインの耳元でそっと囁くの。
「ほら、上を見て、蝶が飛んでいるよ」
「えっ?」
少女は目を丸々とさせて見上げた。参考書通りの反応に、私は心を躍らせたわ。彼女の澄んだ森の様な瞳を私は捕らえた。
こんな季節に蝶が飛んでいるわけないのは、すぐにわかってくれたようだわ。
「やっと可愛い顔を見せてくれたね」
「あ、あの……」
彼女は驚きのあまり、顔を真っ赤にし、ふらりと体制を崩しそうになった。勿論私は、グッと右手に力を入れて、支えたのだけれど。
「大丈夫。まずは貴女の名前を教えて?」
私は彼女の視線を戻させはしまいと、にっこり微笑んだ。勿論、私は貴女の名前を知っているわ。リストの上から七番目に書かれた貴女の名前をね。
「エイミー・モンストンと申します」
モンストン伯爵家の三女。エイミー・モンストン。三姉妹の末っ子。上二人の姉は既に結婚しているんだったかしら。
「エイミーか、名前も可愛らしいんだね」
会話を始めれば一曲なんてあっという間。たどたどしくはあったものの、エイミーの顔の強張りは解け、私の足を踏むことは無くなったわ。これで、このダンスは彼女のトラウマにだけはならずに済みそうね。
私よりも随分年下だと思ったら、まだ十二歳なんだとか。きっと私とのダンスもご両親は無理矢理決められたのよね。可哀想に。
一曲踊った後は、彼女をモンストン伯爵の元に送り届けたの。
「あ、あの、良かったらまた、ダンスをしていただけますか?」
エイミーの顔は、緊張で真っ赤だったわ。私の顔も見れずに、震える両手を握り合っている。お父君にそう言うように、言われたのかしらね。可哀想に。
私は、その庇護欲そそられる姿に誘われて、そっと優しく頭を撫でた。栗色の柔らかい髪を感じながら、軽く手を頬まで滑らせた。
「また、ね」
私はお決まりの笑顔を彼女に向けて、くるりと踵を返した。モンストン伯爵が何か言いたそうにしていたけれど、ここで捕まると、リストを潰すのが難しくなりそうなの。モンストン伯爵はお喋りが大好きだって、シシリーの情報にあったから、ここで捕まるのは、危険なのよ。
私は八人目のご令嬢を探す。でも、私は彼女に辿り着く前に、行く手を阻まれたわ。
「クリス」
「アレク……いえ、アレクセイ王太子殿下」
黒を基調とした衣装は、彼のプラチナブロンドを引き立たせていた。赤薔薇の刺繍が入っている正装を、嫌味なく着こなしているわ。
彼もまた、私の様に数人のご令嬢の手を取りダンスを踊っていたわ。何度かすれ違いざまに目が合ったもの。
「母上がお前を連れて来いと言ってうるさいんだ」
そういえば、そんな約束をしていたわね。
「殿下の方から「行こう」と言われるとは思いませんでした。そうですね、行きましょうか」
私は殿下の後に続いて、王妃様の元へと向かった。殿下がいつになく乗り気だと思ったけれど、そうではなかったみたい。
「本当は逃げたい気分だ。クリスはよくこんな派手な服をこともなげに着れるな」
「おや? 似合っていますよ?」
私が小首を傾げると、殿下の眉間に段々と皺が寄っていく。でも、本当に似合っているのだから仕方ないわ。私も来る前に鏡で見たけれど、きちんと着こなせていると思う。いつかお兄様に着て貰って、客観的に見てみたい。
「似合ってるとか、そう言う問題じゃないんだが」
「似合ってない物を着るよりは良いでしょう」
「確かにそうなんだが」
殿下はずっと不満そうだ。そんなにこの衣装のデザインが気にくわないのかしら。
「あら、やっぱり素敵ね」
私達を見つけた王妃様がわざわざ席を立たれて、嬉しそうに駆け寄って来たわ。落ち着いた菫色のドレスがフワリと広がるの。ちょうど、私と殿下の間に入り込み、私達の腕に手を絡ませた。
「両手に薔薇を持てるのは、世界広しと言えど、私くらいなものね」
うふふ、と楽しそうに目を細めて笑う王妃様は、いつもよりも妖艶に見えてならない。殿下は王妃様の手から逃げるように、一歩後ろに引いていたわ。でも、王妃様は何も気にしていないみたい。
「さあ、二人共。ダンスホールへ連れて行って頂戴な。私も貴方達の舞う姿を近くで見たいわ」
「母上……」
「あら、いいじゃない。私はアレクセイのお願いを聞いてあげたのよ? 次はアレクセイが私のお願いを聞く番だと思わなくて?」
チラリと、殿下を見ると難しい顔をしながらも、諦めたように王妃様に手を差し出した。私もそれに倣い、エスコートをすることにする。
王妃様は、右手は私に、左手は殿下に取られ、ゆったりとダンスホールに繋がる階段を降りて行く。フワリと広がるドレスにだろうか、一際大きな瞳にだろうか、それとも優雅な仕草にかもしれない。多くの人が彼女に目を奪われている。
ダンスホールに降り立つと、私は王妃様の手を離して、その場を殿下へ譲った。殿下はしてやられた、という顔を一瞬だけ覗かせたが、すぐに取り直して、王妃様をダンスホールの中央へと誘って行った。
私は一息つきたい気持ちを押し殺し、群衆に混じって、二人のダンスを見守る。ここでふらりと居なくなったら後が恐いもの。
王妃様は楽しそうに笑っている。殿下は仏頂面だ。人前で母親とダンスを披露するというのは少し、恥ずかしいのかもしれない。
一曲分のダンスなんてあっという間まで、王妃様は殿下のエスコートですぐに私の元へ戻ってきてしまった。
「お二人共とても素敵でした。皆の目が美しいお二人に釘付けでしたよ」
「うふふ、嬉しいわ。青い薔薇は手を差し伸べてくれないのかしら?」
囲むようにして、多くの人が私達に視線を向けている。今ダンスを踊っている人には誰一人として視線を送っていない。
「王妃陛下は、この一輪の薔薇に、一曲踊る栄誉を与えて下さいますか?」
恋愛小説の一コマの様に、手を差し伸べる。少し仰々しかったかもしれないわ。殿下なんて、あからさまに眉を顰めているもの。その内、その眉間に皺が刻まれちゃうわよ。
「情熱的な赤い薔薇も好きだけれど、わたくし、優しく咲く青い薔薇も大好きなのよ」
王妃様の手が、私に重ねられた。あとは、笑顔でエスコートをすれば良い。突き刺さる視線を意識の外に置いて、私はダンスホールの中央までやって来たわ。王妃様に端っこで踊らせるわけにはいかないじゃない。皆が中央へ促すように道を開けてくれるのよ。デビュタントの私には荷が重いわ。
「あの子の相手は大変でしょう?」
「そんなことはありません」
にっこりと笑えば、同じ様に笑顔が返ってくる。
「それは良かったわ。夢だったのよ。私の子と、親友の子が仲良くするの。あと一人、まだ役者は揃っていないけれど」
ロザリアのことなのだろう。私は笑顔を苦笑に変えて、それ以上何も言わずに、流れる音楽に身を任せることにした。王妃様もそれ以上は言葉にしなかったわ。
玉座までエスコートをし、私の任は解かれた。王妃様は最後に、そっと私に耳打ちしたの。
「双子のダンス、楽しみにしているわね」
王妃様は私の返事など聞かずに、国王陛下の隣へと戻って行ったわ。私は口の中で、「はい」と答えて、礼をしたわ。いつか、必ず。
私には、まだリストを潰すという使命が残っていたのだけれど、何となく今はそんな気分になれなくて、一人バルコニーに出ることにしたの。
冬の始まりはとっくに告げられている。そんな寒空の下に先客など居なかったわ。手すりに身体を預け、外を見渡した。でも、暗くて何も見えないのよね。流れる汗が冷える感覚にブルリと震えたけれど、暗がりのバルコニーは今の私には心地よくて、冷たい手がもっともっと冷たくなるのを感じていたわ。
吐く息は白く、軽やかな音楽は遠くに聞こえる。まるで今世界に一人、取り残されたみたい。
「クリス」
やっと人心地がついたというのに、聞き慣れた声が私の世界を崩していったわ。振り返れば、殿下がすぐ近くまでやってきていた。
私の隣、少し離れた所に陣取ると、背中を手すりに預けて、大きなため息をついた。
「よくもまあ、こんな大変なことを毎晩のようにできる」
「人脈と情報はここで生きる為には必要ですから」
「あと伴侶もな」
眉を顰める殿下を見て、私は肩を竦めた。余程ダンスが疲れたとみた。それ程に、王太子妃というのは魅力的なのね。
「アレクもリストを渡されたんですか?」
「リスト?」
この様子だと、私のようにリストは渡されていないようね。私は胸ポケットから、リストを取り出して、彼に渡した。四つ折りにされた紙を開けば、令嬢の名前が所狭しと並んでいる。
殿下はその名前を目で追うとあからさまに嫌そうな顔をしたわ。
「そんな顔しないで下さい。自分で選ぶよりは大分楽ですから、助かっていますよ」
今のところ婚約するわけにはいかないのだから、自分から声をかけるよりも、事前にお願いされている令嬢に声をかける方がずっと良い。
「そうか、確かにそうだな」
殿下の手の中にあるリストをひょいっと引き抜くと、殿下の視線は手元から、私へと移った。
「クリスも婚約者探しには消極的なんだな」
「そう、ですね。ロザリーとの時間が減ってしまうので」
用意した建前を口にすると、彼の二つの紫水晶が小さく揺れた。『ロザリア』の名前を出すと、彼は微かに反応する。
初めは気づかなかった。しかし、毎日のように顔を合わせれば別。私が何となしに言った『ロザリア』に、いつも身体のどこかを震わせるの。
「次の、その次のシーズンの始まりまで待つ」
「……はい?」
「ロザリーにそう伝えてくれ」
「は?」
何を言ってるんだろう?
ピューっと風が吹いた。私の左から駆けてきたそれは、私の柔らかい髪の毛を乱し、殿下の前髪を掻き分けた。
「私はロザリーが好きだ。他の者を婚約者にすることなど考えられない」
胸が騒いだ。きっと、風が私の身体の中まで通ったのだ。そうでなかったら、こんなに騒ぐ筈がないのだから。
「父上達とは十八まで待ついう約束になっている」
彼がまた、私の奥の『ロザリア』を見ている。私は今、『クリストファー』だというのに。
早く、『クリストファー』として返事をしなくては。早く、早くと心では思っているのに、心音だけが頭を支配している。
「ロザリアに、伝えておきましょう」
絞り出した言葉は何の興もない一言だったわ。でも、殿下は満足そうに頷くと、私を一人バルコニーに置いて、会場へと戻って行った。
私の手が宙を舞う。殿下の背中に伸びた手は、虚しく空を切り、指先すら触れることは許されなかった。
私は冷たくなった両手を握り合わせることしかできなかった。
彼の手を握ることすらできない冷たい手は、その冷たさを増していった。




