閑話2.シシリーと猫
シシリー視点です。
私、シシリーはウィザー公爵家の侍女でございます。今日も今日とてクリストファー様やロザリア様のお世話をしておりました。とはいえ、最近のクリストファー様は忙しく、毎日のように王宮へと向かわれてしまうので、朝と夜くらいしかお会いできないのが現状なのですが。
クリストファー様とのお茶会の回数が、段々と減っていっているのは、ほんの少し残念に思いますが、毎日イキイキとしている姿を見ると、これで良いのだと思います。
さて、私は今日もいつものようにロザリア様の昼食のお世話を終えると、別邸の清掃をしております。クリストファー様は王宮に行っているため、不在。ロザリア様はお部屋で読書中です。別邸に入れる者は限られておりますので、ぱっぱと終わらせなければなりません。
井戸に、水を汲みに行った時のこと。私は聞いたことのある声を耳にしました。「ミャー」という可愛らしい声。そう、マリアンヌ様です。マリアンヌ様はウィザー家で飼っている猫なのですが、白くてフワフワでとても可愛らしいご令嬢です。
「マリアンヌ様?」
また逃げ出したのでしょうか? 彼女は、すぐにお部屋を抜け出してクリストファー様やロザリア様を困らせるのです。今回もその類いなのでしょうと、キョロキョロと回りを見渡しましたが、それらしいお姿は見つかりません。
「あら、気のせいだったかしら?」
「ミャー」
どうやら気のせいではないようです。声は聞こえます。すぐ近くにいるような気がするのですが、なかなか見当たりません。四方八方見ているのですが、本当に見つからないのです。木陰なんかも探しましたし、狭い所も覗いてみました。それでも見当たりません。
その間にも、マリアンヌ様の必死の鳴き声は聞こえてきます。それにしても声が近いのですが、何だか上の方から聞こえてくるような気がしてなりません。
とは言えマリアンヌ様の小さな体では、何かの上に登るのは難しいと思われます。お部屋の中もあまり登ったりするのは得意ではないご様子でしたし。
まさか、木に登っているなんてそんなそんな、と軽い気持ちで近くの木を見上げました。
その白いフワフワの可愛らしいお姿がいるではありませんか。
「マ、マリアンヌ様……?」
「ミャー」
マリアンヌ様、そこは木の上にございます。そう、彼女はあろうことか、結構大きな木の上におりました。私の背よりも随分高い場所で、小さい身体をもっと小さくしております。
「マリアンヌ様、降りてきて下さいませ」
とりあえず、両手を広げてマリアンヌ様にお声を掛けました。マリアンヌ様は鳴くばかりで、降りてきては下さいません。
「まさか……降りられないのかしら……?」
「ミャー」
肯定するように鳴きましたが、鳴いて許されるものでもないのですよ、マリアンヌ様。
その木はとても高く、私が手を伸ばしたくらいでは、届きません。椅子の上に乗ったとしても届きはしないでしょう。さて、どうしたものか。私はうんと悩みました。
本邸には多くの使用人がおりますし、その中には背の高い男性もおります。その方にお願いするのが一番なのですが、何分ここは別邸のすぐ近く。本邸の使用人達はこちらに来ることを固く禁じられているのです。
「困ったわ」
「ミャー」
マリアンヌ様も助けてくれと言わんばかりです。だからと言って、セバスチャン様にお願いするのは何だか気が引けます。
「そうだわ。一人いるじゃない。マリアンヌ様、ちょっと待っててくださいね」
私は、彼の元に走りました。もう一人、この別邸を自由に歩ける人がいることを思い出したのです。
「クロード!」
クロードは、私と同じく別邸に入ることを許されている使用人の一人。私やクリストファー様、ロザリア様よりも二つ年上の寡黙な方です。私にとってはお兄さんのような存在でございます。
クロードのお父様がウィザー家で庭師として働いていたこともあり、彼も私と同じようにこの家で生まれ育ちました。しかし、彼のお母様は彼を生んですぐに亡くなっており、お父様も三歳の頃に事故で亡くなっているため、彼には家族がおりません。
旦那様や奥様は、そんな三歳のクロードを見捨てはしませんでした。まだ働けない彼を、ウィザー家に残して下さいました。使用人達や、時には奥様や旦那様まで混じって、彼を育てたそうです。小さい頃は私のように、クリストファー様やロザリア様の遊び相手として。そして今では、従僕として働けるようにしてくれております。
「どうした、シシリー」
「大変なの、一緒に来て!」
私は、首を傾けるクロードの手を思いっきり引っ張って、マリアンヌ様の元へ走りました。
「クロードなら木くらい登れるでしょう?」
私は、木の上のマリアンヌ様を指しながら言いました。
「……ああ」
「登って、マリアンヌ様を助け出して。降りられなくなってしまったみたいなの」
「登ることができたんだから、一人で降りられるだろ……」
クロードの語尾が段々と小さくなっていく。もうっ! なんでそんなに渋るのでしょう?
「ずっとこのままなのよ。きっと怖くて降りられないんだわ。他の人を呼ぶわけにも行かないし……」
「ミャー」
「ほら! マリアンヌ様も「助けて」って言ってるわ!」
私はグイグイとクロードの背中を押しました。なのに、彼ったらびくともしないのです。
「クロード?」
どうしたの? と、首を傾げて、クロードを見上げると、彼の顔色があまり良くないようでした。口なんて、への字に折れ曲がっていて、眉間の皺も相当深い。
「すまない」
「……木登りできないの?」
そんなに背が高くて筋肉もあるというのに? クロードはとても背が高く、クリストファー様が小さく見えるくらいなのです。セバスチャン様や旦那様よりも大きいですし、この屋敷では一番かもしれません。
「いや、木は登れる」
「ならっ!」
「……が駄目なんだ」
「え?」
声が小さすぎて聞こえなませんでひた。何て言ったのでしょう?
「……こが駄目なんだ」
「こ?」
私は首を傾げた。「こ」って何でしょう? クロードは、私の顔を見て更に眉間の皺を増やしました。
「……猫が駄目なんだ」
「猫…?」
「ああ」
猫って、猫ですよね? 私は一度、マリアンヌ様を見上げた。真っ白でフワフワで愛らしい。これを世間では、猫と呼んでいる。
「クロードは、猫が……苦手?」
「……ああ」
クロードは、恥ずかしそうに、顔を背けました。こんなに強そうな男の弱点が猫だなんて。今思い返せば、クロードがマリアンヌ様を触っているところを見たことがありません。
クリストファー様がマリアンヌ様を構って居る時に後ろで控えているクロードを見たことがあるけれど、しかめっ面をしていた記憶があります。あれは、猫が苦手だったからだったとは。
「すまない」
「いいのよ、誰にでも苦手なものはあるもの。でも、どうしましょう?そうなると手詰まりだわ」
マリアンヌ様が自力で降りるのを期待するのは無理そうです。ずっと、木にしがみついておりますし。やっぱりセバスチャン様を呼ぶのが良いのでしょうか。セバスチャン様なら木に登ることも猫に触ることもできるでしょうし。
「どうしたの?」
うーんと、悩んでいると、すぐ後ろから声が降ってきました。勢いよく振り返ると、首を傾げたクリストファー様がいらっしゃいました。太陽の光で飴色の髪の毛がキラキラと光っています。
「クリストファー様、おかえりなさいませ」
「ただいま、シシリー、クロード。それで、どうしたのかな?」
「ミャー」
クロードは何も言わずに頭を下げました。私が説明しようとすると、待っていましたと言わんばかりに、木の上からマリアンヌ様が主張を始めました。
「あれ、マリー? そんなところでどうしたのかな?」
「ミャー」
「それが、木の上に登って降りられなくなったみたいなのです」
クリストファー様が、マリアンヌ様を見上げて笑っていらっしゃいます。マリアンヌ様からしたら、笑い事ではないのでしょう。「ミャー」と声を上げておいでです。
「登れたのに、降りられないなんて、マリーらしいね」
「はい、クロードも私も助けてあげられなくて困っておりました。今、セバスチャン様をお呼びしますね」
「ああ、良いよ良いよ。セバスチャンの手を煩わせる程のことでもないからね」
クリストファー様は、手をひらひらと振って、マリアンヌ様がいる木に近づいて行きました。
「クリストファー様?」
何をする気なのか。と、私が声を掛けると同時に、彼は一番手近な太い枝に手を掛けました。まさか、と思うのと同時に、彼は、ひょいひょいと軽やかに登っていったのです。
「あぶないですよ、クリストファー様!」
「大丈夫、大丈夫。……よっと」
まるで、男性の様だと、ボーッと私は眺めてしまいました。だって、元は同じ年の女性なのです。私よりも背も高くて、毎日の鍛錬で腕や足、お腹に筋肉はついておりますが、ちょっと前まではスカートを履いていた正真正銘の女性です。
「さーて、お転婆なマリー。良い子だからジッとしていてね」
マリアンヌ様がいる枝に跨って座ると、両手を伸ばし、優しく抱き上げました。マリアンヌ様は本当に恐かったのでしょう。すぐにクリストファー様の首に巻きつくようにしがみつきました。
しかし、すぐに降りるのかと思いきや、クリストファー様は遠くを見つめてなかなか降りて来ません。
「クリストファー様?」
もしかして、クリストファー様も降りられなくなったのでは。と、不安に思ったのですが、彼は木の上から、笑顔を返してくれました。
「ごめん。ここから城が見えたものだからね」
「お城が見えるのですか?」
「ああ。丁度そこの、木と木の間からね」
クリストファー様は、もう一度、目を細めて、城の方を見ていました。クリストファー様の目にはどんな世界が映っているのでしょうか?木に登れない私には見ることのできない世界なのでしょうね。
「ミャー」
「ああ、ごめんね、マリー。君は早く地に足をつけたいよね」
クリストファー様は、楽しそうに笑うと、枝に片手を掛けて、もう片方の手はマリアンヌ様を支えながら、身軽に木から降りて来ました。それなりに高い所だったというのに、あっさりと降りて来て。本当に女性とは思えません。
「さあ、マリー。君を助けた騎士に褒美をおくれ」
クリストファー様は、マリアンヌ様をもう一度抱き上げ、そっと彼女の鼻に口づけを落とします。その姿はまるで絵画のようで。
ええ、何度も言いますが、本当に女性とは思えません。
旦那様、奥様。クリストファー様は、どんどん紳士への道を歩んでおいでです。安心していいのか、不安に思えば良いのか、複雑な心境でございます。