24.優しい手
窓の外で、鳥が優雅に飛び立つ。ここは、王宮。所謂アレクセイ王太子殿下の為に用意された専用の勉強部屋。昼下がり、勉強の時間はとっくに終わっているというのに、私達はまだそこに居た。
小さなテーブルを挟んで向側で唸り声を上げ、眉間に皺を寄せている殿下から目を逸らし、青い空を、四角く切り取られた枠からボーッと見ていた。まだ時間はかかりそう。
テーブルの上にはチェス盤。終盤を迎え、私の優勢だ。形勢逆転するには難しそうな盤上を、殿下が睨んでから結構な時間が経っている。このままだと当分は無理そうね。
度々、いや、毎日のように王宮に通う私は、門番の人にも顔を覚えられたし、王宮に勤める貴族の方々にも、よく声をかけられるようになったわ。
デビューする前から、『王太子殿下の御学友』という立場を確立しつつある。
デビューしてもいないのに、様々な所からお茶会への招待状が届くようにもなったの。殆どを「殿下との勉強で忙しい」という理由でお断りしているんだけど。事実だし、問題ないわよね。
殿下の様子をちらりと伺うと、まだ良い手は思いつかないらしく、顎に手を当てて真剣に考えているわ。実は今日、これで三戦目なの。
先日、殿下が思いつきで用意したチェスを始めてからというもの、勉強の後のチェスは恒例となってきているわ。戦績は十五戦中十五勝よ。負けず嫌いの殿下は、「今度こそは」と勝負を挑んでくるの。
さて、まだかかりそうなので、私は本でも読むことにした。最初の頃こそ、ジッと待っていたのだけれど、あまりにも長い時間待たされることが多いものだから、先日から本を持参するようになったの。
殿下には、最初こそ「対戦中に本を読むな」と言われたけれど、最近では「本でも読んで待っていろ」と言われるようになったわ。
本を開くと、部屋の隅に控えていた侍女が、新しく紅茶を入れてくれたわ。時々いることを忘れそうになるくらい静かに控える彼女達には、本当にびっくりさせられる。
「ありがとう」と、微笑みかけると、小さく笑顔を返される。
最近は、恋愛小説ではなくて、男の子に人気の冒険物の小説を読んでいるわ。小さい頃は、お兄様がこういう本を楽しそうに読んでる気持ちがわからなかったけど、今は楽しんで読むことができるようになった。
主人公が大きな竜を前にして、固唾を呑む場面に差し掛かると、私の意識が、完全に本の世界に向いていった。集中しちゃうと周りの声が聞こえにくくなるのよね。
「……ス……クリストファー!」
名前を呼ぶ大きな声が、右耳から突然飛び込んできた。と、同時に強い手が、私の右腕を捉えるのを感じた。驚きに顔を上げると、二つの紫水晶が間近で光った。紫水晶に、私の心臓が大きく跳ねた。私の冷静な部分が警報を鳴らし、全身を駆け巡る。
自身の心臓が跳ねるのと連動するように、ビクリと肩が跳ね、私は思わず右腕にある手――殿下の手――を、思いっきり振り払ってしまった。
目を丸くさせて私を見つめる殿下の顔が、私の半分をより、冷静にさせていく。でも、もう半分は冷静とは言い難い状況で、私は震えそうになる体を、叱咤するのがやっとだったわ。
「……クリス?」
「あ……」
私は殿下の手を振り払ってしまったのね。駆ける心臓をどうにか落ち着かせようとしているのに、うまくいかない。早く、上手いいい訳を口にしなくちゃいけないのに。
きっと、殿下は驚いているわ。ただ私に声を掛けて、腕を触っただけなのに、こんな反応しちゃうんだもの。早く、何でもないと言わないと。
殿下と見つめ合ってどれくらいの時間が経ったのかしら。
「すみません、本に夢中になっていた様です」
どうにか振り絞ったいい訳に、殿下は怪訝な顔を覗かせる。
「あ、ああ。大丈夫か?少し顔色が、悪い気がする」
「ええ、大丈夫です」
冷や汗が背中を伝う。どうにか話を逸らそうと、私はチェス盤に目を向けた。まだ心臓はいつもよりも随分早く走っていて、上手く次の一手を考えられないでいたわ。
「本当に大丈夫か?」
殿下の不安そうな声に、また心臓が反応している。
「大丈夫ですよ。本に集中していたので、驚いただけです。さあ、続きをしましょう」
「大丈夫なら……まあ、いい」
彼は自分の席に戻り、私の一手を待つ様に、盤上を見つめた。
その後、私は集中などできるはずもなく、初めて一勝を奪われたことは、言うまでもない。
どんよりとした空気の中、屋敷に帰ると、お兄様が笑顔で迎えてくれた。今日は調子が良いのか、ベッドの上で刺繍をしているみたい。
元々お兄様は、私よりも器用で、上手だった刺繍だけど、最近では素人とは思えない出来になってきている。
もう、お兄様には刺繍では敵わなさそうだわ。
「お兄様、大丈夫?」
私の顔を見て、開口一番の言葉は「おかえり」でも「お疲れ様」でもなかった。
そんなに酷い顔をしているのかしら?お兄様の横、ベッドの端に腰をかけると、お兄様の暖かい手に、優しく頬を撫でられた。
「とっても顔色が悪いわ」
「チェスで負けてしまったからかな」
口角を上げて、目を細める。上手く笑おうとしたのに、少し頬が引き攣ってしまったかもしれない。
「あら、殿下……アレクセイ様はそんなにお強いの?」
「うーん、今回のは私の集中力が切れてしまったのが原因かな」
上手く集中できずに置いた一手で、あれよあれよと形成逆転してしまったの。あれは悲惨だったわ。
「集中を欠くようなことが有ったの?」
やっぱりお兄様は鋭い。いいえ、私が誤魔化すのが下手だったのね。まだまだね。もっと上手くやらなくちゃ。
「本を読んでいる時に、殿下……アレクに、腕を掴まれて少し驚いてしまったんだ」
「まぁ!大丈夫なの?」
「誤魔化しはしたから、秘密は、バレていないと思うけど」
もう一度、微笑んで見せると、お兄様は眉を下げて私を見つめた。瑠璃色の瞳が不安そうに揺らめいている。お兄様の瞳に映る『クリストファー』の笑顔は褒められたものじゃなかったから、仕方ないわね。
お兄様の手が私の両手を包み込む。いつもより幾分か冷たくなってしまった私の手が、じんわりと温まっていく。
「そうだ。お兄様、今日は体調がとても良いの。久しぶりに一緒に眠って下さる?」
優しい笑顔で、お兄様が私を見つめた。まるで私の全てを包み込むような、そんな優しい笑顔なの。手だけじゃなくて、心も温まっていくような感覚。お兄様にはやっぱり敵わないわ。
「ああ、一緒に眠ろう」
私は何度も何度も頷いた。お兄様は、それを見て面白そうに小さく笑ったわ。
「ふふ、手を握って下さる?」
「勿論」
「絶対よ」
そう言って、お兄様は私の手をギュッと握った。
その日の夜、私は久しぶりにお兄様と一緒に眠ったわ。私の手を握るお兄様の手は、とても暖かくて、昼間から凍りついていたものが、徐々に溶けていくような気がしたわ。
朝、目が覚めると、瑠璃色の瞳が迎えてくれた。いつから起きていたのかしら?
「おはようございます。お兄様」
「おはよう、そして、ありがとう。ロザリー」
「あら?「ありがとう」と言わなければならないのは、私ですよ」
ああ、本当にお兄様には敵わないわ。私は、お兄様の手をぎゅっと握った。私の手が、お兄様の温かい手と同じくらい温かくなっていた。