17.赤薔薇の王子2
さて、困った。それが素直な私の感想だったわ。
アレクセイ様の入室を認めると、私はすぐに膝をつき、礼を取った。そして、アレクセイ様の言葉をただ待ったの。
私から見えるのは足元だけ。足元をどれくらい見つめていたら良いのかしら?裾に赤い薔薇があしらわれた、綺麗なパンツ。
アレクセイ様は何もおっしゃらない。私、何かまずい事をしたかしら。でも。ここで顔を上げるわけにも、振り向いてお母様にお伺いを立てるわけにもいかないわよね。
だからと言って、私から声をかけて良いものでもないのよね。
仕方がないので、裾にあしらわれた薔薇の数を数えてやり過ごすことにしたの。
「あらあら、アレクセイったら、いつまで呆けているつもりなのかしら?」
後ろで王妃様の楽しそうな声が聞こえてきた。私の失敗が原因ではないようね。良かったわ。
「……ああ、すまない。クリストファー、久しぶりだな。楽にしてくれ」
私は許しを得て、ようやく立ち上がることができたわ。目線を合わせると、紫水晶の瞳にジッと見つめられる。何もかもを見透かされそうなその視線に、たじろぐのをぐっと堪えた。代わりに、微笑んで見せる。お兄様はいつだって微笑みを味方にしていた。「困ったら笑えば良い」はお兄様が教えてくれた。困った時の笑顔作戦よね。
「お久しぶりでございます、殿下。私の顔に何か付いておりますか?」
穴が空きそうなくらい、見つめられて私の心臓はドキドキ言っていたわ。気取られないように、冷静に言葉を選ぶ。
「いや、すまない。昔の面影を追っていた」
「いいえ、私の方こそ申し訳ありません。五年前、ご挨拶もせずに王都を離れてしまいました」
私は瞼を伏せ、頭を下げた。アレクセイ様は、あの事件の後、何度も我が屋敷に足を運んでくれたと言う。私達が会えるような状態ではなかったから、お父様とお母様は、ずっとお帰り願っていたのだとか。
「母上、クリストファーを少しの間借りてもよろしいでしょうか?」
「ええ、勿論よ。積もる話もあるでしょう」
「ありがとうございます。行こう、クリストファー」
アレクセイ様と王妃様の流れるような会話を黙って聞いているしかなかったわ。一度も座りもせずに、出て行こうとするアレクセイ様に、若干の焦りを感じながらも、私は王妃様とお母様の方に向き直り、胸に手を当てて礼をした。
「王妃陛下、失礼致します」
「ゆっくりしてらして」
「ありがとうございます」
お母様は、目で「気をつけなさい」とおっしゃっている。あれは、そういう目よ。そして、アレクセイ様はというと、そんな私を急かす様に部屋を出て行ったわ。私はアレクセイ様の背中を追い、静かに退出することに成功した。
アレクセイ様はずんずんと進んでいく。少し乱暴な足取りだわ。彼のそんな姿は見たことがなかった。だって、小さい頃はいつも優しく私の手を取って、ゆっくり歩いてくれたもの。
今は男だから、エスコートされても困るのだけれど。
アレクセイ様の背中はどんどん小さくなっていく。でも、焦って走るのは余り良くないわ。何より『クリストファー』らしくない。こんな時お兄様ならきっと、自分の歩調は崩さないわね。この先にあるのは庭園だもの、見失っても庭園でアレクセイ様は待っている筈。
なら、焦らずに行きましょう。相手のペースにのまれるのは愚策だわ。少し焦らすくらいの方が良いのよ。二人きりで何を聞かれるのかもわからないし。今の内に心の準備をしておきましょう。
私はいつもの歩調で、いや、それよりも少しゆっくり、アレクセイ様の後を追った。廊下の装飾を眺め、五年前の記憶と照らし合わせながら歩くことで、今とても冷静になっている。
「お前は相変わらずマイペースだな」
庭園に出て、一番始めにかけられた言葉は、少しため息混じりの文句だった。
「申し訳ありません」
「心にも無い謝罪はいらないさ。まあ、良い。あそこで話そう」
アレクセイ様は、庭園の奥にある、ガゼボを差した。
「ええ、わかりました」
また先を行くのかと思いきや、次は私に合わせてゆっくり隣を歩いている。私はチラリと彼の横顔を見た。五年前の面影を残しつつも、大人びた顔立ちをしているわ。プラチナブロンドは相変わらずサラサラで、少し羨ましい。起きた時に鳥の巣を作ることなんてないのでしょうね。
五年前から変わってしまったこともあるわ。私と変わらなかった背丈だったのに、今は私よりも目線が高い。私はお兄様と身長が変わらないから、女性の平均的な身長よりは高い方なのだけれど、五年でここまで差がついてしまうのね。
あとは、王妃様と同じ紫水晶の瞳。五年前はもっともっと優しい色をしていたのよ。今はなんだか少し冷たい感じがするの。
あまり不躾に見るのは良くないから、すぐに視線を庭園に移した。そこには夏の花が咲き乱れ、私達を歓迎してくれているみたい。
『ロザリア』だったら、喜んで走り回っているかもしれないわね。
そんなことを考えていたら、少し笑みが零れていたみたい。怪訝な顔のアレクセイ様と目があった。
「どうした?」
「いえ、ロザリーが見たら喜ぶなと」
花に夢中で、ガゼボまでなかなかたどり着かないかもしれないわ。きっと、アレクセイ様とお兄様は仕方ないしに付き合うのよね。今、『ロザリア』は居ないのだけれど。
「……ロザリーは元気か?」
二つの紫水晶が大きく揺れる。彼には「ロザリアは元気だ」と伝えてあげたい。彼の見た最後のロザリアは、きっと痛々しい姿だったに違いないのだから。
でも、それは許されないこと。私は答える代わりに、困ったように眉を寄せ、力なく笑った。
「そうか」
わたしの返答に、彼が沈黙してからの道のりは永遠の様に感じられた。しかし、私は沈黙を破ろうとせず、真っ直ぐガゼボを目指した。
白い五本足のガゼボは、五年前と何も変わらなかったわ。ガゼボの五本の柱には、薔薇の蔦が伸び、彩られ、美しい柱の装飾と競い合っている。今でも王妃様のお気に入りの薔薇で飾られているのね。
真っ赤な薔薇が私達を迎えてくれた。
先に薔薇の門を潜り、ガゼボに誂えられた長椅子に腰掛けたアレクセイ様を見て、私は彼から一番離れている柱の薔薇を愛でるような素ぶりで離れて立った。
五年ぶりの再会だというのに、この態度は彼の機嫌を悪くさせたかもしれない。それでも、初陣の私には、必要な距離だったのよ。
アレクセイ様の様子を見ると、至って気にしている様子はなかったわ。少し考えるような素振りで、私なんかに目もくれず、腕を組んで、足元を見つめていたわ。
私は、アレクセイ様が話を切り出すまで、ジッと待った。綺麗な蝶が優雅に私の周りを舞い、薔薇と戯れているのを眺めているくらい時間が経ったかしら。
今、私が選べる選択肢は、二つ。ただ彼の言葉を待つか、私から尋ねるか。難しい選択ね。焦りを見せれば相手のペースに引き込まれてしまいそうだもの。でも、この重たい雰囲気を少し変えるなら、私が切り出した方が良いのかもしれないわね。
私は頭の中から参考書を引っ張り出してきたわ。小説の一幕、王子様が恋敵に呼び出された時に、真剣な面持ちを揶揄するシーンを思い出す。
私は心の中で思いっきり深呼吸をした。実際に深呼吸したら、バレバレですもの。
「殿下」
意を決した私が声をかけると、アレクセイ様はすぐに私に顔を向けてくれたわ。真剣な眼差し。何をそんなに思い悩んでいるのかしら?
「こんな人気のないところまで連れてきて、どんな御用でしょうか?……愛の告白……でしたら、諦めていただけると嬉しいですね」
「は……」
アレクセイ様の口が、これでもかと言わんばかりに開いているし、呆けているわ。
私はそんな彼に、肩を竦めて見せた。すると、今度は目を丸めた後、笑い出した。
「ああ、すまない。気を遣わせてしまったな」
「いいえ、あまり思い詰めてるみたいでしたから」
少しだけ、空気が軽くなったわ。良かった。私は小さく頭を横に振った。アレクセイ様の顔に笑顔が戻ってきた。なんだ、良かったわ。昔みたいに笑えるのね。
「クリストファー、お前にお願いがあるんだ」
「なんでしょうか?」
「ロザリーに、会わせてくれないか?」