121.不器用な私
緑が赤に変わり、黄色になってゆらゆらと落ちていった。昔の私だったら、お兄様の手を引いて落ち葉の絨毯を駆け回っていたのかな。今はそんな落ち葉を見ているだけ。淑女は落ち葉に喜んでドレスを汚したりしないもの。
何度かシシリーが落ち葉狩りに誘ってくれたけれど、重い腰が上がらない。「私は大丈夫」と頭を横に振った。
「誰も見ていないのだから、今くらい気を抜いても良いんじゃない?」
最近大人しい私を見て、お兄様は気にかかったのだろう。さり気なく私の側に来て、頭を撫でる。こういう時、お兄様はいつだって私を甘やかす。けれど、ここで甘えれば折角の努力の積み重ねが全て水の泡になってしまう気がして、私は頭を横に振った。
お兄様は何を思ったのか、小さくため息をもらす。そして、すぐ隣に座るものだから、私は思わず逃げるように後ずさった。瑠璃色の瞳に映ったのは不安げな私の顔。なんて酷い顔だろう。
そんな私を追いかけるようにお兄様はずいっと顔を近づける。椅子の端まで逃げた私と追うお兄様の追いかけっこ。お兄様の瞳の中で、同じ色の瞳が不安げに揺らめいていた。
「……お兄様?」
お兄様の顔がみるみる内に近づいて、視界が瑠璃色で一杯になった。なんだか怖くなった私は、思わずぎゅっと目を閉じる。
ゴチンッと大きな音がなって、額に痛みが走った。目を瞑っていたのに、目の奥でチカチカと星が瞬く。
「いったぁ……」
痛みに慌てて額を押さえた。もしかしたら、額が割れてしまったかも。だって、本当に痛いんだもの。恐る恐る当てていた手を見たら、血は出ていなかった。それでもまだズキズキと痛い。
その後更に頭を上げれば、お兄様の瞳とぶつかる。
ああ、これは絶対に怒っているわ。
ほんの少し眉根が寄っているし、目もいつもより吊り上っているもの。いつも優しいお兄様は、表情に出る程に怒ることは殆どない。今だって、他人が見たらいつものお兄様に見えるような些細な変化。それでもずっと一緒にいた私にはわかる。
これは、確実に怒っている。
「……頑固」
いつもよりもほんの少し低い声。私はびくりと肩を震わせた。
「最近のロザリーは一人で背負い過ぎだよ。自分でも分かっているね?」
咎めるような声色に、私は身を小さくした。お兄様の言いたいことは分かってる。
でも。
「私は頼りない?」
「ちがっ……うよ」
お兄様は頼りなくなんかない。お兄様は悲しそうに目を細める。私は大きく頭を横に振った。頭の重みがそれすらも邪魔をする。今日も鬘は少し重くて、憂鬱な気分になった。
「なら、なんで何も相談してくれないの?」
「それは」
言い淀んでしまった私をお兄様は咎めたりしない。いつだって優しくて、頼り甲斐のあるお兄様は、私の自慢のお兄様だ。今回だって、私が苦戦している横で、すっかり『ロザリア』から『クリストファー』になってしまった。
ほんの少し先に生まれただけなのに、お兄様はいつだって私のお兄様で、私は頼ってばかり。お兄様の代わりに『クリストファー』として行動していた時だって、困ると私はすぐにお兄様に縋っていた。
私もお兄様みたいになりたいの。
けれど、私はお兄様みたいに器用にはなれなくて、こうやってすぐに悩んでしまう。またお兄様に頼ったら、同じことの繰り返し。いつまでも強くなれない。
「それは?」
お兄様が私の顔を覗き込んだ。私はぎゅっと目を瞑って、首を横に振る。
だって、この不安を零してしまったら、進めた駒がまた振り出しに戻る気がするのだもの。
「ロザリー」
お兄様が私の名前を呼ぶ。こんな私を見て、お兄様は呆れてしまったのではないか。私は不安で一杯で、目を開けることが出来なかった。
「……ロザリー、目を開けて」
お兄様の手が、私の肩を優しく掴む。とっても優しく掴まれている筈なのに、身体が強張って動かない。私は身を守るように、更に身体を固めた。
お兄様が小さくため息を吐く。ああ、呆れられてしまった。でも、どうして良いかわからないの。今の私は八方塞がりだ。
「仕方ないな……私では駄目みたいなので、後はお願いしてもいいですか?」
遠くの方に向かってお兄様が声をあげる。私に言っているわけではなさそう。なんだか畏まった言い方で、怖くなった。誰に何をお願いするの? 逃げたくて仕方ない。
「……殿下」
「うそっ?!」
ドキッと胸が跳ねた。―そんなこと、ある筈がない。だってここは、北の領地で、殿下は王都にいる。けれど、お兄様の最後の一言に、顔を上げずにはいられなかった。
唯一の入り口、部屋の扉は開かない。窓の外の木々が騒めいて、思わず窓の外にも目をやった。けれど、どこにも見知った彼の姿ない。
「……嘘だよ」
お兄様は少し困ったように、眉尻を下げた。目頭が熱くなって、お兄様の姿が歪んでいく。
駄目。こんなことで泣くようでは、私は弱いままだ。けれど、泣き虫な私の瞳は私の言うことを聞いてはくれない。
「うそ……だよね」
わかっていた筈だ。国の王太子が気軽にこんな所まで来れる筈が無い。作り物の物語のように簡単にはいかないのだから。
「ごめん」
お兄様の謝罪に、私は頭を横に振る。涙が零れそうになって、私は袖口で涙を押さえた。けれど、私の意思に関係なく止め処なく涙が溢れてきて、袖口を濡らしていく。
溢れた涙を止めることができなくて、結局私はお兄様の胸に縋っている。お兄様がずっと「ごめん」と言いながら頭を撫でてくれた。本当はお兄様のせいで泣いているわけではないのに、「違うよ」という一言すら口から出ない。
やっぱり私はお兄様に甘えて、泣きついてしまった。
「ごめん、ロザリー。こんな風に悲しませたかったわけじゃないんだ」
お兄様の苦しそうな声が頭から降ってきて、私は袖口で涙を拭いながら顔を上げた。お兄様も泣きそうな顔をしている。私は頭を横に振った。
「違う……お兄様のせいじゃ、ないよ」
嗚咽が邪魔をして、上手く言葉にできない。
「私、不安なの」
「何が不安なのか教えてくれる?」
瑠璃色の瞳が私を優しく包むから、私はやっぱり甘えてしまう。自分自身で抱えきれなくなった悩みを、お兄様にも持って貰おうとしてしまうの。
飲み込もうとした不安は、涙と一緒に溢れてしまった。
「アレクが本当の私を見て、嫌いになっちゃったらどうしよう……」
言葉にすると不安は増して、ぐるぐると心臓に巻きついた。そして、ぎゅっと胸を締め付ける。私は子供みたいに声を上げて、お兄様の胸で泣いてしまった。
ウィザー家の為にも、殿下の為にも完璧なご令嬢にならないと。
そんな体のいい言葉を並べてみたけれど、結局私は怖かっただけ。
殿下は小さな頃の私しか知らない。そして、殿下が知っているのは、『クリストファー』だった時の私。次に会った時に、今の私にがっかりしたらどうしよう。
皆に認められる様な『ご令嬢』になったら、そんな不安が消えると思っていた。お兄様みたいに強くなったら、自信が持てる気がしたの。けれど、夜になるととても不安になる。
冬の足音が近づいてくるのがとても怖い。緑が赤になって、お母様が窓の外を見る度に一足早く雪のように、不安が積もっていった。
「そんなこと、あるわけないのに」
どこか呆れたような、笑っているような声が頭の上から注がれて、私は思わず顔を上げた。
「どうして、そんなことわかるの?」
お兄様は殿下ではない。何故、簡単に言い切ることができるのか。声が上擦ってしまう。袖口は涙でぐちゃぐちゃだったし、お兄様のお洋服も私の涙で酷く濡れていた。
「わかるよ。ずっと『ロザリア』だっからね。そうだ。ロザリーには渡さないといけないものがあったんだ。少し待っていて」
お兄様はポンポンお頭を撫でると、部屋から出て行ってしまった。
すぐに戻ってきたお兄様の手には、数通の手紙。手渡されたそれは、見覚えのある文字だった。
「これ……」
「以前殿下が『ロザリア』に宛てた手紙。殿下はずっとロザリーを見ていて、ロザリーを想っているのが嫌でもわかるよ。一人で読める?」
私は返事の代わりに小さく頷く。お兄様はにっこり笑うと、また頭を撫でて、扉の外に姿を消した。
『拝啓、まだ見ぬ君へ』
そんな一文から始まる殿下からの手紙は、私を空白だった『ロザリア』の時間を埋めていった。