111.青薔薇の貴公子6
お待たせしました!
寂しげに、そして、どこか悩ましげに壁の花は咲いていた。何と声を掛けたら彼女を悩ませないだろうか。
『こんなところでどうしたの?』なんて、お決まりの台詞を述べたところで、彼女は困ったように笑うだけだと分かっている。
ダンスホールを眺めているだけの彼女に、つまらない言い訳をさせたいわけではない。ただ、私が彼女に掛けてしまった呪いを、今日ここで解かなくてはならなかった。
「マリアンヌ嬢、待たせてしまってごめんね」
考えあぐねいた結果、良い言葉なんて見つからなくて、私は何食わぬ顔で彼女の隣に立つことにした。
「クリストファー様……」
弱々しく垂れ下がった目を瞬かせると、マリアンヌは困ったように小さく頭を振った。癖のある茶色の髪がフワフワと揺れる。
結局彼女を困らせる結果になってしまって、私は眉尻を下げた。
「どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
「いえ……あの、今日は来てくれると思っていなかったので……」
マリアンヌの声が段々と尻すぼみになる。肩がどんどん内側に入って、小さい身体がもっと小さくなりそうだ。
彼女もまた、『クリストファー』という男に好意を抱いているのだろうか。伏せられた目からでは彼女の心の内まではわからない。
けれど、彼女ともお別れをしなくてはいけない。これが最後の機会なのだから。
私はマリアンヌに酷い呪いを掛けてしまった。それも、大勢の前で。
誰の手も取ることのできない呪いだ。あの日から、彼女はその呪いの通り、一度だってダンスホールには出ていない。
今日は彼女に掛けた忌まわしい呪いを解くことが、私の大事な使命でもあった。そして、次のシーズンは笑顔でダンスホールの真ん中にいって欲しい。私はこの先ずっと彼女の手を取ることはないのだから、せめて笑顔だけは返してあげたいのだ。
「マリアンヌ嬢。私と踊って頂けますか?」
マリアンヌは驚きに目を丸くした。今日もまた、彼女は壁の花だ。
私とマリアンヌは、アカデミーの授業で何度か練習をする機会に恵まれた。けれど、なかなか上手くならなくて、マリアンヌはより一層ダンスに苦手意識を覚えていったように思える。
夜会で声を掛けても、彼女は小さく首を横に振るばかり。決してダンスホールには行こうとしなかった。そんな彼女をどうにかしたいと思う気持ちはあれど、最適な方法が見つからなくて、私はいつも端で彼女とお喋りに興じるばかり。
そんな時、彼女はそれでもいつも嬉しそうに私に笑いかける。彼女の笑顔を守れるならば、と壁の花をダンスホールの真ん中に引っ張り出すようなことはできなかった。
彼女は、揺れる瞳で私を見る。不安を隠すことのできない瞳は、しっかりと手を差し出した私を写していた。
その瞳が「今日は嫌」と訴えている。けれど、私はそんな彼女の訴えに気づかない振りをして、小首を傾げた。罪悪感で胸が痛む。きっと、彼女は今どうしていいかも分からず、不安で一杯なのだろう。
それでも私は、彼女のダンスホールを見つめる瞳に賭けてみることにした。
彼女は決してダンスホールに行きたがらない。けれど、そこから背を向けることをいつもしなかった。ダンスがつきものの夜会に足を運んでは、いつも壁際で楽しそうに笑い合う男女を見ているのだ。
彼女は困ったように私を見つめた。今日ばかりは、彼女に断られるまでは差し出した手を戻すつもりはない。彼女にも私の意志が届いたのか、彼女は私から目を反らして、歯噛みした。
「隅で少しだけ。それも駄目かな?」
私のお願いに、彼女は小さく眉を寄せた。充分な時間考えた後、彼女は頷く。
「少しだけ……なら」
殆ど消えそうな声を出した後、彼女は私の手にようやっと手を重ねてくれる。それが嬉しくて微笑むと、彼女はカッと夕日色に頬を染めて俯いてしまった。
新しい曲が流れるのを耳にして、私は彼女に一歩近づく。俯いた顔を下から覗き込むと、彼女はぎゅっと唇を噛み締めた。
「さあ、曲が始まる。行こう?」
マリアンヌは肩を震わせる。彼女の身体は岩のように固くなってしまった。
彼女は決してダンスが下手というわけではない。一所懸命に覚えたステップ。彼女の勤勉さも相まって、憶えるのは早い方だ。けれど、どうしてかそれが本番では活かせていなかった。極度の緊張のせいなのか、初めての失敗が尾を引いているのか。人前に出ると体が強張ってしまうようだった。
これではいくら努力しても上手くは踊れない。今だって、相当緊張している。どうにかしてこの緊張を解せないか。こんな時、どんな魔法を掛けてあげれば、彼女はあのホールの真ん中で笑顔になってくれるだろう。
「やっぱり……私……」
マリアンヌは、私の手をぎゅっと握った。いつもは見せない強い意志に、私は眉尻を下げる。もしも、ダンスが嫌いでこの先もずっとダンスホールの中に行きたくないのなら、私は大きなお節介を焼いていることになる。
それなら、忌まわしい呪いも、ずっと掛かっていた方がいいと言うもの。
「ダンスは嫌い?」
けれど、マリアンヌはふるふると左右に頭を振る。
「嫌いではありません。でも……」
「でも、……怖い?」
私の言葉に、マリアンヌは驚いたように顔を上げる。何か言いたげに口を開けた彼女は、言葉を飲み込んで唇を噛み締めた。
「そんなに強く噛み締めたら、可愛らしい唇が傷ついてしまうよ」
ね? と、首を傾げれば、彼女は恥ずかしそうに自らの唇に手を当てた。
「あの場所は怖い?」
マリアンヌは小さく頷く。悔しそうに唇を歪めている。
「じゃあ、あそこに行くのはやめようか」
「でもっ……! クリストファー様とは踊りたい……です」
尻すぼみになるマリアンヌの声。それは、彼女のたった一つの願いだ。
ダンスを踊るには、あのキラキラと輝くダンスホールに行かなければならないのだろうか。本当はダンスなんてどこでも踊れるのに。
「今日だけは特別」
私は片目を瞑ってマリアンヌに合図すると、彼女の手を強く引いた。突然のことに彼女は前のめりになりながらも慌てて歩みを進める。
私はダンスホールには目もくれず、真っ直ぐに進んだ。慌てたマリアンヌが焦った声で私に話掛ける。
「あのっ。どちらへ」
私は彼女に笑顔だけを返すと、ダンスホールを横切った。
向かったの会場の外にある庭園。庭園に繋がる扉に手を掛けると、マリアンヌは困ったように私を見る。
「クリストファー様、ダンスは……?」
マリアンヌは私の手を握りながら、あんなに怖がっていた筈のダンスホールを何度も振り返っている。本当は早くあの場所に立ちたいと願っているのかもしれない。
でも、このままだときっと上手くは行きそうにもないもの。
「今日はね、特別な魔法を掛けてあげる」
私はにっこりと笑って、庭園への扉をゆっくりと開いた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
お盆休み入って早々、体調を崩してしまいまして、投稿がなかなかできずにいました。
楽しんでいただければ光栄です。
よろしくお願いします。




