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11.参考書は恋愛小説

 クリストファーになって、初めて何もない一日が始まった。今日は家庭教師のエドワード先生はお休みだし、お母様のダンスの練習もない。

 お母様、今日は本邸でお茶会を開催するんですって。最近私のダンスにつきっきりで、他の家からのお誘いも断っていたみたいだから楽しんでいただきたいわ。


 それにしても、習慣というのは恐ろしいもので、気づいたらいつもと同じ時間に目を覚まし、朝食を摂っていた。


 今日は休みだから、朝の鍛錬もお休みしようと決めていたのに、結局素振りをしていたし、習慣とは本当に恐ろしいものね。


 クリストファーになって、二回、月が欠けて満ちた。そろそろ暑い季節がやってくる。


 お兄様とマリーは、すぐに仲良くなって、私が忙しい時の話し相手になっているみたいなの。いつも楽しそうにしているし、お兄様は猫ともお話ができるのかもしれないわ。


 お母様のダンスのレッスンはとても厳しくて、いつもヘトヘトになっていたわ。毎日シシリーがマッサージしてくれたお陰でどうにかなっているのだけれど。


 成果はと言うと、ステップが踏めるようになったとだけ言っておこうかしら。運動神経は良い方だから、『ロザリア』の時は得意だと思っていたダンスなのだけれど、『クリストファー』になってから、お母様に「良し」と言われたことはないのよね。

 雪が降る前には及第点を貰いたいわ。





 うららかな昼下がり、裏庭の一画で、私達はお茶会を楽しんでいた。お兄様とシシリー、マリーの四人での小さなお茶会。

 シシリーは頑なに、侍女の立場を主張したけれど、お兄様と私の「お願い」に陥落して、一緒の席についているのよ。


 最近私が忙しくて、あまりお兄様とお話しできていなかったから、本当に楽しみだったの。

 今日のお兄様は調子が良いから、裏庭でお花を見ながらお茶会ができた。これ以上暑くなってしまうと、外でお茶会は出来なくなってしまうから、次のお茶会からはサロンの中からお花を見ることになるかしら。


「そういえば、侍女達がお兄様に夢中になって、本邸の方は大騒ぎになっているとお聞きしましたけど、大丈夫ですの?」


 口火を切ったのは、私の左隣に座るお兄様。


 『ロザリア』の演技も板に付いて来て、とうとうスカートを穿くまでになったのよ。

 お兄様曰く、『いつ秘密を知らない人が私を見てもロザリアだと思うように』らしい。


 体調のいい日は刺繍までしてらして、私より上手に刺繍するの。素敵なハンカチーフを戴いた時は、複雑な気持ちになったわ。


 お兄様ったら、澄ました声で何言っているの?もう少しで、紅茶を吹き出すところだったわ。ギリギリのところで塞き止めた私を褒めて欲しい。


「そうなんですよ、ロザリア様。クリストファー様ったら、目が合う度に侍女に甘い言葉を投げかけるものですから、本邸にいる時は誰がクリストファー様に付くかで喧嘩になってしまいましたのよ。それを止めに入ったセバスチャン様が右頬に名誉の負傷を……」


 私の右隣に座るシシリーは、お兄様に向かって大きく頷いた。そして、これ見よがしに目頭に手を当てて、ヨヨヨと泣いているふりをする。一昨日からある、セバスチャンのあの頬のガーゼは私のせいなの……?


「お兄様ったら、侍女達に何をしているの?」

「……私は何も……していないよ。普通の挨拶くらいだと思うけど……」


 顎に右手を当てて、ここ最近の行動を思い出してみたけれど、思い当たる節が一つもない。

 確かに、五年の合間があったから、少しでも本邸の人と仲良くなろうとは思って、近くにいれば、声をかけるようにしてはいるけれど、朝の挨拶や天気の話が主で、甘い言葉など、身に覚えがないわ。

 まさか、「おはよう」や「いい天気だね」もシシリーの言う『甘い言葉』に入るわけ……は、ないわよね。


「まさか、あんなに初々しかったクリストファー様が、この短い間に、こんなにも女誑しになるとは思いませんでした」

「シシリー? 私は何もしていないからね?」

「お兄様、流石に侍女相手は、些か問題があるように思えますわ」

「ロザリー? 私は本当に何もしていないからね?」


 右を見たり左を見たり、忙しい。冤罪ですよ、お兄様、シシリー。

 それに、男のふりをしていても所詮女よ。それとももしかして、女ではないかと疑われているのかしら……?


「無自覚って怖いですね、ロザリア様」

「本当ね、シシリー」


 神様、精霊様。なんでこんなに針のむしろみたいな状況なんでしょうか。楽しい筈のお茶会。私は何をしたと言うのでしょうか。


 頼みの綱のマリーはというと、最初から私の膝で眠っている。ああ、無慈悲だわ。


「きっと、今はお兄様が物珍しくて、侍女達も騒いでいるのでしょう。時間が経てば、少しは落ち着きますわ」


 お兄様がゆっくりティーカップを持ちながら、優雅にこの話題を纏めて下さった。お兄様はやはり天使ね。


「でもね、お兄様」

「ん?」

「これくらいの話題、上手く躱せないと、社交界は大変ですわよ」


 ここからは、授業でしょうか、お兄様。でも、その通り。これから社交場に出れば、困った質問も、多くされるでしょうね。何せ五年、雲隠れしたと言っても良いのよ。それまではお母様に引っ付いてお茶会には参加していたものね。


「確かに、そうだね。もっと上手に返す勉強をしないと」


 新しい課題だわ。咄嗟の判断力が必要になる難しい課題ね。でも、これからは私の一言が公爵家を傾け兼ねない。

 しかし、どうやって……?


「会話というのは、経験を積むことも必要ですから、やはり話を沢山されるのが宜しいかもしれませんね」


 シシリーが考え込んでしまった私の顔を覗いた。シシリー先生の仰る通りね。シシリーはいつも適切な助言をくれるの。


「そうだね。そろそろ外で、経験を積んでいかないと駄目か。私は極々人の少ない世界で生きてきたから、まだ始まりの地点にいるのかな」


 長い長い道のりだわ。


「『必勝!会話術』みたいな本が出版されれば良いんだけれどね」


 私は笑って言った。本を読むのは得意だもの。座学ならすぐに覚えることができるのに。


「本……本ですよ、クリストファー様!」

「シシリー?」


 突然大きな声を上げ、立ち上がるシシリー。思いついたとばかりに興奮気味だ。私はよく分からなくて、小首を傾げた。お兄様も同じように、私の隣で傾げているわ。

 マリーはシシリーの大きな声にビックリして、私の膝から逃げてお兄様の膝に移った。そんな移動じゃ何も変わらないわよ、マリー。


「クリストファー様、『ロザリア』様の頃に読まれていた、恋愛小説。あの小説には沢山の会話が散りばめられておりますわ」


 最近は忙しくて読まなくなった恋愛小説。お祖母様の蔵書で、少し古いのだけれど、どれも素敵な話が詰まっているのよ。


「確かに、シシリーの言う通り、恋愛小説を参考になさるのは良いかもしれませんわね。あの小説は、かつて社交場で活躍したご令嬢が、晩年に実話を元に書いた物だとお聞きしておりますわ」


 お兄様がシシリーの言葉に、神妙に頷いた。ふむ……確かに私の読んできた恋愛小説は社交界を取り巻く王侯貴族の恋物語が主だったわ。沢山の物語を読んで、私も夜会に参加する日を想像したもの。

 物語出てくる会話は、個人的なお茶会から、夜会の間、ダンス中の二人きりの会話など、多岐に渡っている。


「なるほどね。昔は恋の物語として楽しんでいたけれど、もう一度、社交場の会話を意識して読み直してみようかな。シシリー、書庫から昔読んでいた本を持ってきておいてくれるかな?」

「シシリー、誰かに問われれば、私、ロザリアが久しぶりに読みたがっていると言えば、周りの侍女も不思議がらないでしょう」


 お兄様がにっこり笑った。シシリーもそれに頷く。そうよね、『クリストファー』が恋愛小説なんて読んでたらちょっと怪しいかもしれないわね。

 小説は別邸でこっそり読もうと心に決めた。それにしても、勉強で大好きな物語が読めるなんて幸せね。


 そろそろ日も大分照ってきた。初夏を思わせる太陽に、目を細める。これ以上外にいるのはお兄様には辛いわね。


「ロザリー、そろそろ部屋へ戻ろうか」


 私が立ち上がると、お兄様は反対することなく頷いた。心得た様に、シシリーがお兄様の左側に周り、膝の上のマリーを抱えてくれる。

 お兄様は、私の差し伸べた手を頼って立ち上がろうとしたのだけれど、バランスを崩して倒れてしまったの。幸い、咄嗟にシシリーと二人で身体を支えたから、倒れることも無かったし、怪我もしなかったわ。


 しかし、シシリーに抱えられていたマリーは突然のことにとっても驚いたみたい。軽やかに地に着地すると、一目散に本邸の方へ走って行った。


「マリーっ!」


 慌てて声を上げたのはお兄様だった。私はマリーの行く先を確認すると、お兄様の両脇を支えてやる。


「マリーは私が探しに行くから、ロザリーは部屋で休もう」

「ええ、マリーには悪いことをしてしまったわ」

「大丈夫。きっと、庭園の花を堪能している。すぐに見つかるよ。まずは部屋に帰ろう」


 それに、使用人が見つければ、保護もしてくれるもの。


「でも、普段は別邸で暮らしているような子よ。今頃一人で寂しがってかもしれないわ。私は大丈夫ですから……」


 お兄様は不安そうに私を見た。

 私はね、お兄様。私が貴方の『お兄様』になってから、その双眸に見つめられたらダメとは言えないのよ。お兄様も私が我儘を言っている時はこんな気持ちになったのかしら。


「じゃあ、ロザリーはここに一度座って。シシリー、クロードを呼んで来てロザリーを部屋に。私がマリーを迎えに行くから」


 私が微笑めば、お兄様は安心した様に目を細めて笑った。シシリーが急ぎ足でクロードを呼びに行くのを見送ると、私は優しくお兄様の頭を撫でて、マリーの消えた庭園へと向かった。


 この時、私はすっかり忘れていたのよ。本邸ではお母様が仲の良い方を集めてお茶会を楽しんでいることを。

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