97.胸の鼓動
お待たせしました!
瞬きを忘れた彼の双眸は、私を映したまま微動だにしない。紫水晶に映る私の表情だけが変化していった。何度か目を瞬かせた私は、困ったように彼の瞳を覗いている。
頬に触れている彼の手が、小さく動いた。重ねていた手をそろりと離すと、彼の手はゆっくりと肩を通り、腕まで滑っていった。それでも、彼の手は触れているのかいないのか分からなくくらい弱々しい。彼の目を覗きっこむと、紫水晶の瞳が小さく揺れた。
「ロザリー」
掠れた声が、殿下の口から零れた。どことなく張り詰めた声色は、いつもの声よりも少しだけ低い。名前を呼ばれるのは何だか擽ったくて、今はそんな雰囲気では無いのに、私はほんの少しだけ頬を緩ませてしまう。ずっと『クリストファー』として彼の隣に居たのだもの。『クリストファー』として彼の隣に立っている時と、『ロザリア』として彼の前に居る今では、何だか全然違う。
まるで、本当に六年振りに会ったみたい。
「ずっと、会いたかった」
彼は泣きそうなくらい顔を歪めると、私の肩に顔を埋めてしまった。ふわりと薫る彼の香り。肩に掛かる熱い吐息。それでも私の腕に触れる手は、遠慮がちに添えるだけ。けれど、手の熱さがじんわりと伝わってくる。とても暖かくて、私はゆっくりと瞳を閉じた。
殿下は小さく息を吐くと、私の肩から顔を離してしまう。名残惜しい気持ちを隠して目を開ければ、苦しそうな紫水晶の瞳とぶつかった。
「ずっと会って謝りたかった。六年前のことを」
六年前の事件は、彼の中でどんなに苦しい思い出になってしまったのだろう。苦しい時、私の隣にはいつもお兄様がいてくれた。けれど、殿下は六年間ずっと背負ってきたのだろうか。誰にも言えずに、誰にも言わずに。
私はそんなことにも気づけずに、自分のことばかり考えて、小さな箱に閉じこもっていたのだろうか。孤独の六年は、どれ程長いのだろう。想像するだけでこの身が震える。
「あの日ロザリーを守ると決めたのに、また君に助けられてしまった」
苦しそうに、唇を噛み締める。私は両手を伸ばして、彼の頬に触れた。身体は痛みに悲鳴を上げたけれど、気にはならなかった。
「謝らないで下さい。六年前のことも今日のことも。私が勝手にやったのだから」
「勝手に、か。私は守られてばかりだな」
私は殿下に笑って欲しくて、精一杯の笑顔を見せた。けれど、彼は自嘲気味に笑うのみ。そんな顔が見たかった訳ではないのに。
六年前のことも、今回のことも、殿下を助けたことを後悔したことはない。だから、彼にはこんな風に傷ついて欲しくなかった。私は、両頬に触れる手に力を込めた。
「きっと私は、これからも貴方に危険が迫れば、貴方を守る。だから、そんな顔しないで」
物語の中のお姫様は、いつだって王子様に守られる存在だった。幼い頃の私は、そんなお姫様と王子様に憧れていたのも事実。けれど、私は王子様を守れるお姫様になりたい。
殿下は少し困ったように私を見つめた。彼の瞳に映っている私は、お姫様とは程遠い男の子みたいな姿で、『クリストファー』みたいに笑っている。
「アレク、もう『ごめん』はいらない。そろそろ、『ありがとう』が欲しいな」
殿下は眉を下げて、小さく息を吐いた。
「そうだな、ありがとう」
「はい」
ぎこちない笑顔が、目の前に広がった。六年前のことは、きっとまだ彼の中でまだ根強く残っているのだろう。少しづつでいい、彼に絡まった糸を解いていきたい。私達にはまだこれから時間があるのだから。
「まだ、聞きたいことが沢山あるの」
私は一度殿下から離れると、そろりそろりと移動して、ベッドの端に腰かけた。ぽっかり空いた私の隣を指して、「どうぞ」と言うように彼を見る。彼は少し眉を寄せて考えた後、のろのろと隣に座った。
けれど、思っていたよりずっと遠くに座るものだから、仕方なく私は重い身体を持ち上げて近づくことにする。すると、彼はちょっと驚いたように目を見開いた。何故そんな顔をするのか分からなくて、私は思わず目を瞬かせる。彼は小さな声で、「気にするな」と言い放った。
「聞きたいことって?」
「そうだ。いつ、入れ替わっていることに気づいたの?」
ずっと気になってたことを聞けば、肩を竦めた殿下がポツリポツリと話し始める。たまたま、レジーナから肩の傷のことを聞いたことが、一番の要因らしい。まさかそんなところから露見するとは思ってもみなかった。世間的には、肩に傷があるのは『クリストファー』だということになっているから、余り気にしていなかったのだ。今後はもっと気を使わなければ。
お兄様と手紙のやり取りで、入れ替わりが事実であること、そして、私が男の人に触れることができないことも知ったのだという。
だから、あんな風に芸術祭で女役の話が来た時に反対したり、練習に付き合ってくれたりしたのか。
聞けば、アンジェリカを恋敵の役に据えたのも、新しい演目を増やしたのも、女役を演じる『クリストファー』だけを目立たせない為のものだという。
「それなら、言ってくれれば良かったのに」
何だか気恥ずかしくて、口を尖らせれば、彼は困ったように笑った。笑うだけで、彼は何も言わない。
六年前のことをずっと背負っている上に、私のことまで背負っていただなんて、胸がチクリと痛んだ。私が知らないだけで、彼はずっと私のことを守り続けてくれていたのではないか。
「ずっと私のこと、守っていてくれたんだね」
「全然上手くいかなかったけどな」
殿下は自嘲気味に笑う。その笑顔を変えたくて、私は彼の手に、手を重ねた。困ったように彼の瞳が泳いで、重ねた手に辿り着く。私の手の平の下でぎゅっと手を握ると、彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「次はもっと上手くやる」
彼の瞳からは強い意志が見てとれた。けれど、私のためにあまり無理をして欲しくなくて、私は大きく首を横に振る。彼の眉間に皺が寄るのを見ながら、それでも「うん」とは言えなくて、私は彼の手をぎゅっと握った。
「もう、無理はしないで下さい」
「それは約束できない」
頑なに譲ろうとしない姿に、私は少し苛立ちを覚えた。苦しむ姿を見たくないのに、何故分かってくれないのか。きっと彼は引いてくれないだろう。口を尖らせると、彼は私の目を覗き込んで、眉を下げた。
「愛するお姫様を守る権利くらい、くれないか?」
紫水晶に映る私の瞳が、目一杯開かれる。頬が熱くなるのを感じて、私は思いっきり顔を背けた。けれど、殿下は見過ごしてはくれない。彼の真っ直ぐに伸ばされた手は、容易く私の頬を攫う。
「熱い」
彼の手がこんなにも冷たく感じるなんて。どんどん彼の手に熱が伝わっていく。熱っぽい瞳に見つめられて、私は酷く狼狽していた。彼の持つ紫水晶に、全て見透かされてしまうような気がして、胸が早鐘を打つ。
「そういうのは、反則です!」
なけなしの力を振り絞って睨んだけれど、殿下の表情に動揺は一切なかった。
「どこで覚えてきたんですか? そういうの……」
物語に出てくる王子様のような言葉を、恥ずかしげもなくさらりと言ってのける姿は、『クリストファー』として隣にいた時には考えられなかった。いつも無口で、眉に皺ばかり寄せていた姿とは全く違う。最近の、アカデミーでの雰囲気とも違っている。まるで月が姿を変えるように、色んな顔を見せられる。
どの顔が本物なのか、探るように彼の瞳を覗き込んだ。
「秘密」
彼は短く言うと、頬に当てていた手を肩まで回して、力を込めた。倒れ込むように、彼の胸の中にすっぽりと収まってしまう。
胸が跳ねた。
肩から、頰から伝わってくる彼の熱に溶けてしまいそう。
暖かい手が優しく頭を撫でた。お兄様がするよりもぎこちない。けれど、お兄様がしてくれた時みたいに胸がぽかぽかするわけでもなくて、どんどん胸の音が早くなる。
駆け足に鳴る胸の音が、私のものなのか彼のものなのかわからなくなって、私はゆっくり目を閉じた。
いつもありがとうございます。
体調を崩して二日間程更新が遅くなりました。
お待たせしております。
最近暑い日が続いております。皆様も体調にはくれぐれもお気をつけ下さいませ。




