第七話
「やめとく」
「はぁっ!? 正気か……?」
イヅルは信じられないようにぺちぺちと私の頬を叩いた。無理はないと思う。私だってこの場面でそんなこと言われたら、その反応するよ。
「まさか、自分一人が犠牲になるつもりやないやろな!? そんなん許さん……! もう狐に、エサはやらんからな……っ!」
「心配せんでも、どこにもいかんよ」
私は、何故かイヅルと手を繋ぎたくなって、指先だけ絡めとった。私はずっとここにいるって、この臆病の心配性に教えてあげたくなったから。
「ちょっとお稲荷さんとお話ししてみるわ」
☯
私は襖を、ゆっくりと開けた。念のため、イヅルは御簾の中に入ってもらった。狐はすぐにイヅルを見つけられると思うけど、数秒の時間稼ぎにはなる。その間にお経でも唱えていればいい。
私はまた正座しなおして、出来るだけまっすぐ姿勢を保つ。何拍か呼吸をしたら、襖の取っ手に指をかけた。
「お初にお目にかかりますえ。ウチ、蘇芳麻姫いいますぅ。以後、よろしゅう」
旅館の女将みたいにスムーズには出来なかったけど、まあ私にしては及第点だと思う。私、めっちゃ優雅。
「マキ…………」
もっと化け物じみた狐を想像していたのに、目の前に現れたのは光り輝くお兄さんだった。イヅルより遥かに美形で、ここまでくると宇宙人かもしれないと思った。白い髪は腰まで垂れて、肌も乳白色が輝く。目元と口元にさした紅が一層映えた。でも頭にはふさふさの狐耳がついてるし、九尾だってある。よく見ると尻尾の一つ一つに鈴がついていた。おしゃれかな?
「せやで、ウチが麻姫ちゃんやで」
「ああ、やっと……」
大きな月が、雲から姿を現した。うまくいくか分からないけれど、きっとこれは運が味方したのだろう。
私は持っていた手鏡と、イヅルが護身用にって、貸してくれたナイフが制服の内ポケットに入っていることを確認した。日頃から見た目に気を使うとこんなお得があるとは! 人生何が助けてくれるか分からない。まあ、もう終わるかもしれない人生だけど。
「行きまひょ、お狐さん! ああでもその前に、ウチ、おっきなお月さんを、もっともーっと近くで見とうありますなあ」
「今日の僕は機嫌がいい。さあ、好きなだけ見なさい。あそこのため池を見てごらん。月の中で鯉が泳いで見えるよ。綺麗だろう? 」
「あら、ほんまに!」
私は無邪気に駆け出して見せた。狐はゆったりと追いかけてくる。うーん、これが本当の優雅か。悪者だけど、圧倒的に洗練された気品があるなあ。
最も月光が降り注ぐポイントを探す。昼みたいに明るい、とまでは言わないけれどまあ十分だろう。池にかかった小さな橋が、不自然でない地点か。
「お狐さん、こっち、こっちやで!」
このまま橋から突き落として、間髪入れずに刺すことも考えたけれど、相手は人間じゃないことを考えると難しいかもしれない。
「待て待て。そんなに慌てて何があるのだ」
「ん? なんやろ、これ……」
狐が近づいてきたところで、何か拾ったふりをして鏡を取り出す。あとはこれをあいつに向けて、うまく反射すれば……!
「どうした……んっ!? 何を……」
上手くいった! すかさずナイフを掴み、奴の心臓めがけて突き刺す!
予定だった。
砂嵐を巻き起こしながら、強風が私たちを襲う。危うくナイフを落とすところだったが、何とか握ったままでいられた。代わりに、バランスを崩してこけたけど。
狐も想定外の出来事に戸惑っていた。気管に砂埃が入ったようで、何度も咽ている。
すると、私たちの間に、何かが生まれようとしていた。いや、再構築されようとしていた、のほうが正しい表現かもしれない。
「き、君は……」
狐は何が生まれようとしているのか分かったようで、口を開けて目を見張った。よく分からないけれど、奇跡が起こったらしい。イヅルのおかげなのだろうか? 今度呪術について色々教えてもらおうかな。まあ、私は私の居場所に帰らないといけないんだけどね。
「お久しぶりです。まだ悪さをしてるんですね。仙ちゃん」
「マキ……!」
狐は起き上がりマキさんに触れようとしたけれど、半透明なマキさんを通り抜けるだけだった。幽体ってことなのかな。狐は言葉も出ないほど、傷ついたみたいだけど。
「あなたは何か勘違いしたみたいですね。おばかちん」
「だって、君は……」
「私は村に『私のかけらを残しました』と伝えた覚えはありますが、子孫を残したなんて言ってません。第一私たち、子供がいないじゃないですか」
「や、で、でも……」
「私が浮気する女だと思っていたんですか?」
狐は黙ってしまった。なにこれ? 痴話喧嘩?
「まあいいです。こちらの娘さんと、おばかちんのあなたにも教えてあげましょう。あなたがいかに大馬鹿者であるか」
☯
千年前の星川郷で、身寄りのいない女が狐に嫁入りした。狐のことを「仙ちゃん」と呼び、狐も女を可愛がった。しかし大狐と人間の女では寿命が随分違う。しばらくは幸せに暮らしたが、女は次第に白髪と皺が増えていった。死期を悟った女は少しの間狐の前から姿を消すと、何事もなかったような顔で戻ってきて、天に昇った。
「麓の村に私のかけらを残したから、寂しくなったら見つけてね」
それが最後の言葉だった。
狐はすぐに孤独に耐えられなくなり、麓へ降りた。かけらが何であるか見当もつかなかったが、ある家に「マキ」という名前の少女がいることを知ると、それがかけらであると妄信し、すぐさま彼女を攫った。少女は「アサヒメ様、助けてください」と、事切れる最後の瞬間まで泣き叫んでいた。この少女がかけらではないことが分かると、狐は何度も何度も麓へ降りては「マキ」という名前の娘を攫い、人間が渡すのに渋れば畑を荒らした。7年に1度マキという少女を捧げる契約ができたのは、村の惨状を考えると必然だったのかもしれない。
「待って、アサヒメ様ってなんなん」
「私の村での呼び名です。私の名前も麻姫ちゃんなんですよ」
「ああ、訓読み……しょーもな……」
「だから僕は、君がかけらだと確信」
「あなたは黙りなさい」
鋭い視線で狐を一睨みすると、狐は怯えて人体から可愛らしいモフモフの狐に変化した。あんなに恐れられていた大狐が今や手乗りサイズの毛玉になってしまった。アサヒメ様、何者。
「察しているかもしれませんが、イヅルの先祖はこの私です。そしてかけらはその『妖刀』」
そういえば、イヅルはどうしているだろう。屋敷を振り返ってみると、縁側のふちに立ったまま、こちらを呆けた顔で見ているイヅルと目が合った。
「あの子は私の姉の子孫です。しかし、我が子ではないとはいえ情けなくなる顔ですね。姉が浮かばれませんよ、あれじゃあ」
「は、ははは……」
薄々気づいていたけど、すごく辛辣な人だ。
初対面のイヅルも殺伐とした感じだったし、血の繋がりを感じる。
「卑弥呼は分かりますね? まあ、あんなに大規模で強大な権力は持っていませんでしたが、私たちの家系は代々霊力が強くあったので、その力で村を治めていました。私は正当後継者にこそなれませんでしたが、とりわけ強い力を持っていたことと、狐の嫁になったことから神格化されて、アサヒメ伝承なんて創作が流行ったんですねえ」
「創作なんですか……」
私は安心すればいいのかがっかりすればいいのか、感情の処理の仕方が分からなくなった。アサヒメ様は相変わらず、優雅な微笑みを口元にたたえながら、毛玉状態を継続している狐を撫でている。狐は猫みたいに丸まって、目を細めていた。
「千年で変わるもの、変わらないもの……私は前者だった、それだけです。別に変な噂を流されたからとか、偶然の不幸を私のせいにされたとかで、祟りを起こそうなんて考えませんよ」
「怒りがにじみ出とらんか?」
「ふふ、そりゃあ、怒ってないわけじゃないですけどね? ……仙ちゃんには本気で怒ってますけど」
「ふあ?」
何のことか分からないままの狐の首元を掴むと、アサヒメ様はあろうことか池に突き落とした! 動物虐待だ……。
狐はすぐに浮きあがって、苦しそうに呼吸を繰り返したが、無理に這い上がろうとはせず、上目遣いでアサヒメ様を見ているだけだった。そんな狐を心底軽蔑したように、アサヒメ様は追い打ちをかける。
「根拠のない他人の噂に惑わされて、あなたは何人を犠牲にしましたか? 消費される『マキ』個人のことを考えましたか? この子だって……あなたの悪いところは私に盲目すぎるところです」
「それは……」
「私はあなたを許しません。あと千年、この地上に残って孤独に耐えなさい」
「待ってくれ! 僕は君と一緒にいたいだけなんだ! 僕がそっちに行ける方法だって、千年かけて探したのに!」
「だめです。勝手に死ぬのは許しません。無責任です。あなたにはすべきことが山ほどあります」
きっぱりとアサヒメ様が否定すると、狐は今にも泣きそうになっていた。私は少し狐に同情しそうになる。異種族間恋愛って、大変なんだなあ。
永遠の命を手に入れても、最愛の人に先立たれたら、男も女も、人も狐も、死にたくなるほど辛いんだね。
私には、そんな人がいるのかなあ。いたのかなあ。
▼私の心には
1、誰も思い浮かばなかった(第八話へ)
2、イヅルが思い浮かんだ (第九話へ)