第三話
「いてっ!」
盛大に尻もちをついて、私は悲鳴をあげた。さっきのあれはなんだったのだろうか? 怪しいおっさんの手品?
「ロロナちゃーん? 平気ー?」
尻をさすりながら立ち上がる。周りを見るとここは学園ではなかった。なだらかな斜面の中腹くらいに見える。周りは木々ばかりで、頭上に月が輝いていることから察するに夜だ。三日月にも満たないような細い月明りでは、遠くが見渡せない。ということは、脱出には成功したということだろうか。食後から続いていた倦怠感や、言い知れぬ気持ち悪さはもうない。
「ロロナちゃーん!」
いつまでも返事はなかった。誰かが追ってきているかもしれない、なんてことは考えも及ばず、私はただ叫び続けた。ロロナちゃんは一体どうしたのだろう? ケガでもしたのだろうか。動けなくなっていたらどうしよう? 私をかばって捕まってたりしたら? 嫌な想像ばかりしてしまう。
「ちゅーかここどこやねん……なんやさむうなってきたし……へっくし!」
大きなくしゃみのせいで、私はバランスを崩した。ドジだ。いや、もうドジどころでは済まされない。真っ暗で足場の悪い森か山かで、こけてしまえば……
「うひゃああああああああっ!」
率直に言うと、尻で斜面をスキーした。
☯
目が覚めると、私は藁葺きの上に寝かされていた。
火が燃える音がする。まさか火事では! 咄嗟に身を起こそうとして上体が変な方向に曲がって頭を打った。起き上がるのにも失敗するなんて。人が見ていなければいいけど。部屋の隅に松明があった。火音の正体はこいつで間違いない。木造建築の中に松明があって大丈夫なのかとか、先史時代かよ、とか。言いたいことは多々あれど、ここには誰もいなくて、私が寝かされていた場所の近くに握り飯が置いてあることは分かった。
「かぴかぴやんけ……」
でも空腹だし、文句も言ってられない。硬くなってしまったご飯をボリボリ食べて、ついでに沢庵もボリボリ食べた。顎が鍛えられる味がした。寮で食べていたご飯よりは、断然おいしいけど。
ロロナちゃんはどうしているのだろうか。まだ山の中にいたら大変だ。早急に探しに行かないといけない。私を見つけてくれた人がロロナちゃんも見つけてくれていたら、一番良いんだけど。
それにあの不審者! 早くどうにかしないといけない。そもそもの原因はあのオネエとお兄さんだ。学園にも腹が立つが、もっと穏便に脱出するはずだった私たちを邪魔した二人にも腹が立った。
松明は部屋の狭い範囲しか照らしてくれなかったが、足を無理やり引きずって、壁に触れながら出口を探す。今の時代にこんな家屋が存在するなんて驚愕だ。もっと科学技術者は田舎の民にも理解を得られるよう努力邁進すべき。
しばらく回遊していると、やっとのことで小さな引き戸を見つけた。これで外に出れる! 誰かに会っても、私を保護してくれた人だし、きっと友好的にしてくれるはず。
「やほーーーーーっ! 麻姫ちゃんで~~~~す」
この世はテンション爆上げナイト。いやもう朝かも。まあいいですよなんでも! みんなで一緒に踊っちゃお~っ!
「で、でたああああああっ!」
扉を開けた先は、やはり松明で照らされた廊下だった。間接照明が効いているので先までよく見える。髭の生えた熊みたいなおじさんが泣きながら逃げていくのもよく見える。
「えー、麻姫ちゃんそんなに怖いんかー? まあまだ風呂入っとらんし不潔やろうけど☆」
アドレナリン大放出。制御ファクターを全て解除。麻姫ちゃんマックスモード突入。奇数が揃えばモード継続、偶数が揃えば時短モードに突入だぞ。パチンコは大人になって闇金ナンタラくんと仲良くなってからしようね。
廊下の先の扉から、さっきの熊おじさんとは違う、屈強な男たちが押し寄せてきた。みんな宮大工みたいな恰好をしていて、コスプレ大会みたいだ。松明を持ったもの、鎌を持ったもの、棍棒を抱えたもの。あれ? 歓迎されてない? 一気に冷汗が噴き出る。
「し、鎮まりくださいアサヒメ様――――――っ!」
誰やねん。
☯
わらわらもこもこと屈強な男たちが叫びながらも、一向に私に近づこうとせず固まっていると、奥にいた男が頭を強く何者かによって叩かれて失神した。やだ、本物の熊来ちゃう……?
「鎮まるのはお前らの方だ、落ち着け馬鹿者ども! 末代まで呪い殺してやる! 舌噛んで自害しろ」
男どものせいで見えないが、発言が既に怖い! 殺伐としすぎ!調子に乗っていた私もさすがにテンサゲです。やばいのが来ちゃった! 殺されちゃうよ私! 語彙力をどんどん失っていく。死に逝こうとする私が語彙力を失うということは、語彙力は私の魂そのものなのだろうか。深い。ロロナちゃんに会えたら雑談のネタに使おう。まあ死ぬからただの夢物語なんですけど。でもこんなに深いことを誰にも話さず逝くのは惜しくない?
モーゼの十戒の如く男どもは道を開け、奥から殺伐男が姿を現す。想像していたより若く、細マッチョ体型だった。これはモテる。直衣? みたいな、やはり現代的でない機能性を無視した着物を着ている。平安貴族合わせなのか? カメラマンはどこに。
こんなホモサーのツンデレ姫みたいな状況で現れさえしなければ恋に落ちていた気がする殺伐男は、私の正面30センチ先に立つ。間近で見たら不細工だった……なんてことはなく、特徴的ではないけれど整った顔だった。全体的にのっぺりしていて、いかにも日本人顔だ。栗色の髪の毛が少しウェーブしていて、短く揃えようと切ったことは伝わった。(毛先がはねているので綺麗に揃えられなかったのだと思う)
この男の人が私を助けてくれたのだろうか。仏頂面だし、さっきの暴言といい、あんまり親身になりたくないタイプかも。
何か言葉を探していると、殺伐男は突然口角をあげ、眉尻を下げて私に抱きついてきた! 嫌!
「マキ! よかった…………」
「私に生命の危機が迫った際語彙力が流出する現象を語彙力=私の魂と仮定して考察すると私は心臓でもタンパク質でもエネルギーでもなく言葉で生きていると言ってもいいのではないかと思うんだけどまだこの説には科学的検証の余地がありまず検証のためには語彙力という概念を化学式で説明する必要があってこれは現代の権威にはまだ難しい問題であり私の命の解明にはまだ時間がかかりそうなんです! 生かしてください!」
「もう離さない……どこにも……誰にも渡さない…」
話が通じない君だった。しかも内容が重たい。知らない男にきつく抱きしめられてもときめけない。私は恋に恋するタイプではない。でも、彼に敵意はないみたいでよかった。
肩が生温かいと感じた瞬間、彼が鼻水を垂らして号泣していることに気がついて絶句してしまったが、多分彼なりの理由があるのだろうし、軽率にキモイなんて言うのはよそう。
☯
状況が掴めないまま私は、この屋敷の特別な部屋に通された。洟垂れボーイ曰く「君は思い出したくもないような場所」らしいが、そもそも初めて来た場所に思い出したくもないもクソもない。「特別」と形容したのはこの部屋の特異性からだった。さっきまで私が寝かされていた部屋も、感動の抱擁をした廊下も、少し古臭い木造建築で、気にならないレベルであった。でもこの部屋は違う。教科書で見た平安時代の貴族の部屋と、ファンタジー小説で儀式を執り行う部屋が融合したみたい、というのが第一印象。もっと詳しく隅々を観察すると、最奥は御簾で覆われた寝室、中央には床をくりぬいて作った小さな庭園が造られていた。庭園にはミニチュアの砂浜と山があって、山頂に小さな鳥居の模型が飾ってある。正方形の中に作られたパノラマ模型。箱庭。この山は私が最初にいた場所なのだろうか。ここから私は尻スキーをして麓に……。
「よくケガしなかったな、私」
「どうかした?」
「いや、気にしないで」
天井には大きなお稲荷さんの絵が描いてある。ハッキリ言って不気味だった。食い殺されそうな牙が覗く口、細められた瞳には憎悪の念がこもっている。怖い。
文字通り広間には庭園と寝室、用途不明の祭具以外目立ったものはなく、襖はきっちりと閉められている。ここを開けたら外に出られるのだろうか。何かあったらここを思い出そう。
「そろそろ説明が欲しいんだけど。まずあなたは誰? なんで私の名前を知ってるの?」
何も切り出すつもりのない男にイライラして、きつめの口調で訊いてみた。男は明らかに狼狽して、私の発言を理解できないでいた。
「なにを……マキ、お前もう、アサヒメ様に憑りつかれて」
「質問に答えて」
「山で頭でも打ったんやな? そうやな? やないと忘れるわけないやん、俺のこと……」
「知らん」
あまりにも要領を得ないので、冷たく否定してあげた。何となく、私によく似た「マキ」がいることは、さすがに感じとれた。
「マキ……」
「泣くな。気色悪い」
ショックを隠し切れず唇を噛みしめて、肩を震わせる彼が少し可哀そうだったけど、しょうがない。このままでは話が進展しないし。
「じゃあもういいわ。あたしは蘇芳麻姫。フルール友和学園高等部2年生。奈良のクソ田舎出身。あんたの名前と年齢とここがどこかを簡潔に述べて」
「は、はあ……? 高等部……?」
いくら近代を受け入れられない土地だからってその反応はないだろう。
「えー……俺は星川イヅル。あんたの幼馴染、やった。ここは星川郷」
「恰好のわりに現代的な名前と地名やね」
「はあ、そう」
平安時代にタイムトリップしたのかと思った。星川は放心状態で宙を見つめている。
「その恰好はもうえーわ……ところで、あんたがウチのこと見つけてくれたんよね?」
「……おかしい、やっぱりその話し方…………よそ者だとしたら何故方言が」
「聞けや」
「俺があんたを見つけた」
「女の子見んかった? ウチと同じ制服着た女の子」
「はあ? セイフク?」
何を話しても聞き返されて、私の余裕はどんどんなくなった。スカートの両裾を掴んでみせた。
「これが制服や田舎もん」
「んー……見とらん。マキが贄として稲荷様に捧げられてから、何度も山に入ったけど……今日麓でマキを見つけた以前は山の中に誰もおらへんし、痕跡も残ってへん」
「は、はあ。贄……はあ」
そんな覚えはない。稲荷様とはこの天井の大狐のことだろうか。こんなやつに食われたら……考えるだけで怖い。
「本当に別人なんやな、あんた。マキにしか見えんのに」
星川は冷静さを少しずつ取り戻して、声のトーンを落としていった。ロロナちゃんはまだ見つかっていない。私がここにいるように、ロロナちゃんが別の、少しでも安全な場所で目覚めていてほしい。
「じゃあ、一から説明するさかい」
☯
星川郷には太古の昔、稲作が伝わった頃くらいから続く風習がある。7年に一度「マキ」と名付けられた若い女の子を、山に住む九尾の狐に捧げるというものだった。そうしなければ狐は畑を荒らし、稲を腐せ、水脈を止め、雷で家屋は裂ける。そのため星川郷には定期的に「マキ」さんが誕生するらしい。生まれた時から生贄確定というのも可哀そうな話だ。イヅルの幼馴染のマキさんは、元々アザミさんと名乗っていが、贄予定のマキさんが早期に亡くなり、年の近かったアザミさんを「マキ」に改名させ、新たな贄とした。そしてマキさんは2週間前に贄として、山に入っていったらしい。
山に入った贄は狐に嫁入りし、「アサヒメ様」と呼ばれる神に憑りつかれ、狐と村を見張るようになる…。
「でも俺はマキを諦められんくて……死体でもええ、もう一度会いとうて山に入った。狐の祠も見つけたけど、マキはいてなかった」
「純愛やねえ」
よくもまあそんなに危ない真似をしたものだ。山で狐に食われたらどうするつもりだったんだろう。
「まあ、俺は少し納得できたけど……村人がそうだとは限らん。みんなあんたのことマキだと思ってるし、あんたがまた山に入らない限り儀式は失敗だと思い込むはずやな」
「アサヒメ様って叫んでた人もいたけど」
「そう……アサヒメ様が村まで降りてきて、俺たちを滅ぼす気なんだ! って言ってる馬鹿もおる。あんな大昔の文献、真面目に信じられるか……」
「イヅルは儀式反対派なんだ」
「そりゃあ、まあ……でも、俺の家は神事を執り行う家系やし、実際父さんが死んでから俺が引き継いだんやけど」
「えっ、まさか、マキさんの儀式も……?」
イヅルは力なく笑うと、すぐ否定した。
「父さんが死んだのは5日前。見ろや、似合わん服……まあ、この不幸は偶然なんやけど……儀式が失敗したと思い込んどるやつもおる。あーもう、知らんよ全部!」
私がまた山に入ったら元いた場所に帰れるだろか。そもそもこれは夢かもしれない。狐に食われたら帰れるとかないかな?
「うーーん、とりあえず私は明日にでも山に入って……」
「それはあかん!」
急にイヅルは叫ぶと私の左手を取る。「もう離さない……どこにも……」って、さっきの重たい言葉が熱っぽく頭の中でリフレインした。あれは私じゃなくて「マキ」さんに言ったことなのに。
「あっ……や、すまん」
「いや、ウチも……」
途端に気まずい空気が漂って、私は目を伏せた。
「山に入るのはあかん。よそ者だからって放っておくつもりはないから。この屋敷には簡易的な結界が張っとるし、狐が入ってくることはないはずや」
「なんや、じゃあそれを村全体に張ればええやん」
「馬鹿! いくら訓練してもそんな大規模なもの無理や……この結界だって1週間もつか怪しいんに」
とにかく今はここで耐えてくれ。
イヅルの出した結論はそれだけだった。
☯
御簾の中でしばらく生活させられた。イヅルは毎日のように村人を宥めている。
「イヅルも大変やんな」
「暴動がいつ起きるか分からんでヒヤヒヤするわ」
イヅルは食事の時だけ御簾に入ってきて、少しの会話を交わす。今日は川魚の塩焼きと、ごはん、味噌汁。ひもじいけど、純粋においしい。ご飯が口の中で踊ることを、星川郷に来て初めて知った。
「そろそろ解決策が欲しいんやけど」
ここに来て5日が過ぎた。イヅル曰く結界が効果を無くすのは1週間後。もう目前まで迫っている。
「考えたんやけどさ、マキの儀式が成功したんか判断できとらんねん……やから、その……」
「結界が切れるまで待って、狐が来たらどうにかする。来なかったらマキさんの儀式は成功とみなして、山に入ってみる」
「せや。……すまん」
居心地悪そうなイヅルを見ているのは辛かったが、もうそれしか方法はあるまい。
「狐は7年に1人しか嫁には貰わん。マキ……」
私じゃないマキのことを思って、またイヅルは涙ぐむ。活を入れてやろうと、私は軽く背中を叩いた。
「男の子やろ」
「ふぁい……」
突然結界が切れて、心構えもないままよりはマシだ。堂々と胸張って、狐に食われようじゃないか。
「あんた、男前やな」
「イヅルがしょーもないことですぐメソメソするだけやで」
私は、本当に勘でしかないけど、もうそこまで狐は来ている気がした。だから束の間、イヅルと最後の青春を謳歌しよう。
短い人生だけど、本当の蘇芳麻姫を生きたかった。
☯
今日は結界が無くなる日。風は強く吹き荒れ、言葉に出さなくともマキさんの儀式は失敗していたこを、私たちは悟っていた。
昨晩イヅルに渡されたナイフ? を服の内ポケットに入れていたことを思い出して、上からそっとなる。星川家に代々伝わるものらしく、何もないよりはマシだと持たされることになった。お守りにでもなってくれるといいな。そんなに古いものじゃ、封筒さえ切れそうにないけど。
襖の前に正座で座り、狐を待つ。背後でイヅルは何か唱えながら、箱庭の砂浜に模様を描いていた。何か呪術的な意味があるのだろう。よそ者の私を守ってくれていることだけがただ嬉しい。イヅルだけがここで私を歓迎してくれた。
「麻姫、もうそこや」
「知っとる」
知らんかったけど。何かを踏みしめている音がした。ぱきぱきぱき、と何かが破壊されている。不快だ。
「マキ」
地獄の底から沸きあがったみたいな、気持ちの悪い声が室内にこだまする。狐は外にいるはずなのに。イヅルの声が大きくなったおかげで、まだ正気は保てていた。
「迎えに来たよ。ここを開けてくれ」
今度は優しく穏やかな声だ。服従したくなる、王の声……。
「麻姫! あかん! 堪えろ!」
イヅルが叫ぶ。伸ばしかけた右手を戻した。いけない、操られている……。
「マキ……マキ……」
「ウチはどこも行かへん。ロロナちゃんとこ帰るや」
この何とも言えない、全身に及ぼす不快感は、あの時寮で食べたご飯みたいだった。
「麻姫! もうちょっとの辛抱や! 連れてかれるな! 麻姫!」
「マキ……ここを開けて……おうちへ帰ろう……」
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